2023年8月2日水曜日

紅蓮の禁呪6話「記憶の瑕疵(かし)」

  夏が終わると、日暮れはやたら早くなる。

 部活を終えた生徒達が外に出てみると、日は既に沈み、西の空に赤い夕映ゆうばえが残っているばかりだった。

「あ~あ、腹減ったなぁ」

「コンビニでアイス食べて帰ろ、アイス」

「新発売のおにぎりがさぁ」

 校門を出た部員達は、にぎやかにおしゃべりをしながら、三々五々に帰っていく。

 部活が遅くまであった日は、家の近い者同士、男女一緒になって帰宅するのが不文律ふぶんりつになっており、紅子と春香の場合、本来は部長の井出が一緒なのだが、今日からしばらくのあいだ、藤臣が代理として送っていくことになった。

「すみません、遠回りなのに」

 紅子が口ではそう言いながら、心中では、チャンス到来とほくそ笑んでいたことは言うまでもない。

 自分が消えれば、親友は憧れの君と二人きりではないか。

 そんな彼女のもくろみなど露とも知らない藤臣は、

「かまわないよ」

と、普段通りののんびりした笑顔。

 春香はと見ると、気のせいだろうか、なんだか少し元気がなかったが。

 ともかく、自分たち三人だけになったら、行動開始だ。

「あの。あたし、ここで失礼します」

 紅子が声をかけると、藤臣と春香は、ほぼ同時に彼女のほうを振り向いた。

「父から買い物頼まれてるので、あのスーパーに寄らないと」

と、横断歩道の向こう側にあるを指さす。

 信号はちょうど、赤から青に変わったところだ。まるで図ったような、いいタイミング。

 しかし、藤臣はいきなり別行動を取ると言い出した後輩に当惑した様子で、

「それなら、僕たちも」

一緒に、と言いかける。

 が、その言葉を、紅子は素速くさえぎった。

「いえ、ちょっと時間かかるかもなので、先に帰っちゃってください。それじゃ」

 早口で言うと、点滅を始めた青信号に急かされたふりをして、駆け足で横断歩道を渡ってしまった。

 すれ違いざま、春香の耳元に「ガンバレ」とささやくことを忘れずに。

 流れ出した車の群れの向こうで会釈する紅子に手を振りながら、藤臣はどことなく釈然としない面もちで、

「忙しいヤツだなぁ」

などとつぶやいていたが、春香は親友が気を利かせてくれたのが、嬉しくて仕方なかった。

 ありがとう、紅子!このお礼は必ずするからね!!

「やっぱり、追いかけていったほうがよくないかな?」

藤臣が心配そうに言った。

「仮にも女の子なんだし、何かあったら……」

「大丈夫ですよぉ」

春香は笑って言った。

「紅子の家って、武術道場なんです。たいていの痴漢やチンピラなんか、敵じゃないって感じ」

 藤臣は目を丸くした。

「そ、そんなに強いのか、一色って?」

「見えないでしょー?でも、中学の頃なんか、すごかったんですよっ。他校の不良さんグループから引き合いが来たりして」

 二人は春香の家に向かって歩きながら、話を続けた。

「松居まついは、一色とのつきあい、長いの?」

「幼稚園からずっと一緒です。家も近いし、ま、いわゆる腐れ縁てやつかなァ」

 藤臣は、声を立てて笑った。

「腐れ縁て」

「だって、ほんとにずーっと一緒なんですよぅ?紅子のことなら、たいていのことは知ってます」

「へーぇ」

 藤臣は感心したように相づちを打った後、ふと冗談めかした口調で、こう言った。

「それじゃあ、松居に訊けば、一色に今好きな人がいるかどうかもわかるのかなぁ……」



 腕時計を見ると、午後六時半。三十分以上、店内で過ごしたことになる。

 さすがにもう藤臣たちと鉢合わせることもないだろう。

 そう思い、紅子はスーパーを出た。

 父親から頼まれた買い物がある、というのはうそではない。

 ただ、別に急ぎの物ではなかったというだけだ。

 しかし、今日このときにこの口実を利用しなくていつするというのか。

 それにしても、レジ袋が重い。

 時間稼ぎをかねて食品売り場へ行き、冷蔵庫で残り少なくなっていた物まで買ってしまったので、通学鞄に加えて、けっこうな荷物になってしまった。

 春香はうまくやっただろうか。

 いきなり告白というのは無理でも、何かちょっとした進展があれば、ひと肌脱いだかいもあるというものだ。

 そんなことを考えながら自宅の門をくぐると、玄関前に誰か立っているのが見えた。

「おかえり」

玄関前の人影が言う。

「遅かったな」

 その声と、玄関の引き戸ごしにもれる明かりで、紅子はその人影が自分の父親、玄蔵げんぞうだと認めると、少しほっとした。

 今年で四十歳になる彼は、身長こそそれほど高くないが、武術家らしい、がっしりした体格の持ち主である。

 紅子は「ただいま」と言った後、

「部活のあと、買い物してたから」

と、スーパーのロゴ入りレジ袋をちょっと持ち上げて見せた。

「それより父さん、こんなとこで何してんの?」

「客が来るんでな。出迎えだ」

 少しばかり不機嫌そうに答える父親は、いつもと同じ和服姿だ。

 が、薄明かりに見えるそれは普段用のものではなく、上等の紬つむぎである。

 客人というのはよほど大事な人物らしい。誰だろう?

「お客さんて、今から?こんな時間に?」

 紅子は玄関を開けて上がりかまちに重い荷物を降ろし、まだ外にいる父親を振り返って尋ねた。

 すると、

「ああ」

ますます不機嫌そうな玄蔵の声。

 だが紅子は頓着せずに戸口まで戻り、続けた。

「ねー、そのお客さんってさ、今朝早く、電話してきた人?たしか、紺野こんのとか言ったよね」

 朝の七時すぎ、若い男の声で電話があったのを、何となく思い出しながら言う。

 玄蔵が子機を持って自分の部屋へ行ってしまったので、話の中身はわからない。

 ただ、電話に出る父の顔が、今と同じに暗かったのが印象に残っている。

 紅子としては、心配しているつもりで訊いたのだが、玄蔵は好奇心ゆえの発言と思ったらしい。

「お前には関係ない」

彼は怒ったような口調で娘の言葉を一蹴すると、

「さっさと家に入って、メシでも食ってろ」

ぴしゃり、と紅子の鼻先で戸を閉めてしまったのだった。


「なに、あれ!むっかつく!」

 紅子は買ってきた食料品を乱雑に冷蔵庫につっこんだあと、どかどかとわざと大きな音を立てて階段を上り、二階にある自室へ向かった。

 思い切り大きな音を立ててドアを閉め、ベッドに鞄かばんを放り出す。が、それだけではむかっ腹がおさまらなかったらしい。

「虫の居所が悪いか何か知らないけど、娘に当たるなってのよね!」

などと大声で独りごちては、かなり乱暴な動作で彼女は制服から私服に着替えた。

 室内は一応、ぬいぐるみやピンク・花柄系のカバー類で女の子らしく飾られているが、本棚に武術関連の本が並んでいたり、クローゼットに道着どうぎがかけてあったりするのが、ちょっと珍しい。

 本棚には他に、アンティークな艶つや消し金の写真立てが二つ並んでおり、一方には、赤ん坊を抱いた若い男女の色あせた古い写真が、もう一方には、まだ真新しい六十歳くらいの老婦人の写真が、それぞれ入っていた。

 古いほうは、赤ん坊の頃の紅子とその両親を撮ったもの。

 彼女の母親は、これを撮影した翌年、亡くなっている。元々病弱で、紅子を産んでからは特に具合が良くなかったらしい。

 以来、母親代わりになって紅子を育ててくれたのが祖母。

 すなわち、新しいほうの写真に写っている老婦人だが、彼女も去年の冬、流感をこじらせたのがもとで、あっけなく他界してしまっていた。

 紅子は祖母の写真を眺めて、ため息をついた。

 おばあちゃんが生きてたらなぁ……。

 玄蔵はどちらかといえば紅子に甘いほうだったが、昔から時折、よくわからない理由で機嫌が悪くなることがあった。

 祖母はそんなとき、

「日奈ひなのことでも思い出したんでしょう。しばらく独りにしておあげなさい」

と、言っていた。

 日奈というのは紅子の母親の名前である。

 紅子は先刻の父親の様子を思い出してみた。

 が、どうも死んだ妻の面影おもかげをしのんで切なくなっている、という雰囲気ではなかったような気がする。

 どちらかといえば、何かを警戒しているような、そんな印象だった。

 そういえば、と、紅子は思う。

 自分が小さかった頃、何やらただならない雰囲気で、祖母と玄蔵がひそひそと話し合っていたことがあった。

 あれは、いつだったろう。

 あれは、たしか――小学校の――

 と、そこまで考えた、そのとき。

「痛っ……?」

 軽い頭痛が、紅子を襲った。

 ほんの数秒、意識が痛みに集中し、彼女の思考は停止する。

 そして。

「あ……あれ?」

 頭痛が引いたとき、紅子は当惑の声を上げた。

「あたし……何考えてたんだっけ……?」

 何か、大事なことを思い出しかけた気がしたのに。

 記憶は、つかみかけたその手をするりと逃れて、どこかへ消えてしまっていた。

 影も形もなく。

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