2023年8月7日月曜日

紅蓮の禁呪第58話「日可理・二」

  屋敷の一階にある日可理の執務室は、応接室と書庫のあいだにあって、この三部屋は廊下に出なくとも行き来できるようになっている。

 もともと彼女の祖母が生前使っていたものをほとんど同じ状態のままで使っているので、室内のしつらえは、若い彼女に少々不釣り合いと思われるほど、重厚で渋い。

 禅寺の僧坊か茶室と見まがうほどに、あらゆる調度品から色彩というものをできるかぎりそぎ落としたその部屋は、正面の広い窓から見える庭の風景を除けば、部屋そのものが一幅の墨絵のようである。

 が、日可理はこの部屋の、ある種ピンと張りつめたような空気を気に入っていた。

 『星見』をするとき、雑念が入りにくく、気持ちを集中できるからだ。

 部屋の中央奥には磨き上げられたオーク材のプレジデントデスクとハイチェアが窓を背にしている。  デスクに向かって左壁面には、背の低い黒檀の飾り棚があり、必要があって書庫から一時的に持ち出してきている古書が数冊。

 そして、廊下につながる正面扉とデスクのあいだの広い空間に鎮座するのは、見た目に退屈なほど色彩に欠くこの空間の唯一の例外――高さおよそ一メートル半、直径一メートルほどの、渾天儀(こんてんぎ)。


 窓から差し込む日の光を浴びて、鈍い金色の輝きを放つ真鍮製のそれは、『星見』をするときの彼女の世界であり、宇宙だった。


 天体模型は五頭の小さな龍たちによって支えられ、それぞれが五つの御珠とその一族を象徴しているらしく、彼らの眼窩には石榴(ざくろ)石、黒曜石、虎目石、瑠璃(るり)、そして水晶がそれぞれはめ込まれ、きらきらと輝いている。

 普通の人間だった祖母は、これを使って依頼者の未来を観るだけだったが、白珠の血筋である日可理には、それはあくまでもこの渾天儀の使い方の一つに過ぎない。


 日可理が渾天儀の前に立つと、彼女の身体は銀白色に輝き、床に巨大な法円が出現した。


 その細く白い手をかざせば、小さな宇宙を支える龍たちに象眼された石が輝き、星々の位置が独りでに動いていく――彼女の問いかけの答えを探して。


 黄珠を、本来安置されていた場所から持ち出したのは、黄根家の人物。それは間違いない。

 では、彼は今、どこにいるのか。次に現れるのはどこなのか。

 彼女はここ連日、同じ問いかけを続けていた。

 だが、星々の答えは不明瞭だった。

 居場所をつかんだと思った次の瞬間、彼はするりとそこからいなくなるのだ。まるで、煙のように。

 日可理は彼に直接会ったことはないけれど、本名と生年月日は紺野家からの情報で知っている。

 普通なら、それだけで充分のはずだったのだが――

 普段と違ったのは、彼女の捜索すべき人物が、彼女と同等か、それ以上に予知に長(た)けている能力者だったということだ。

 彼はおそらく、「自分が捜索されている」ということを知っていて、逃げ続けている。

 黄珠のみならず、己の気配までもかき消しながら。


 手強い、と日可理は思った。


 彼の目的がなんなのか、それさえもわからない。

 星々が語るのは、ただ彼が何かを待っている、ということだけだった。


 白銀の光輝と法円を消した日可理が長いため息をついたまさにそのとき、廊下につながる扉がノックされた。

「どうぞ」

 扉のむこうにいるのがだれかはわかっている。その気安さから、彼女は疲れた声を隠そうともせずに返事をした。

 入ってきたのは、果たして思ったとおり、志乃武だった。

「今日も収穫はなかったみたいだね」

 彼は日可理のデスクの上に数通の郵便物を放り出しながら言った。

 母親の胎内にいるときから一緒にいる彼ら二人のあいだには、言葉を介さない、何か独特のテレパシーのようなものがあって、お互いの気持ちが手に取るようにわかる。

 日可理が扉のむこうに立つ相手を志乃武だと知ることができたのも、そういった彼らのあいだだけに作用する感応力のおかげだった。

 志乃武が、日可理の星見による捜索の結果を言い当てたのは、多分に彼女の表情や声色によるところが大きかったけれど。

 日可理は志乃武に返事をする代わりに苦笑だけむけると、デスクのむこうに回り込んだ。

 ハイチェアに腰を降ろし、弟が持ってきた自分宛の郵便物をあらためる。

「母さまからエアメールが来てるわ」

「うん、一緒に読もうと思って持ってきたんだ」

 志乃武が言った。

「それにしても、父さんは電子メールなのに、なんで母さんだけ相変わらず郵便でよこすのかな」

 電子メールの使い方を知らないわけでもないのに。

 そう言って苦笑する弟に、

「母さまはこういう古風なことがお好きなのよ」

 と言いつつ、日可理は手紙を華奢な銀のペーパーナイフで開封して、便せんの字を目で追い始める。

「お休みの日に二人でロマンチック街道を観光ですって。すてきね」

 同封されていた写真を志乃武の前に滑らせると、彼はそれを見てクスっと笑った。

 写真には、四十代前半といった年頃の男女が寄り添って写っている。

 背景には、ロマンチック街道の顔とも言える、ノイシュバンシュタイン城。

「父さんのメールは仕事のことばかりで、こんなことは書いてなかったな」

「父さまはこういうことが苦手ですもの」

「仕事はできるけど、極度の照れ屋で恋愛にうといあの人が結婚できたことは、白鷺家七不思議の一つだよね」

「あら、そんなものがあるの?」

日可理はわざと大げさに驚いて見せた。

「あとの六つは何かしら」

「まだ募集中」

 志乃武がそう言って肩をすくめると、日可理はクスクスと笑った。

 それから、ふと真顔にもどって言った。

「お祖母さまは、本当に何もかもお見通しだったのよ」

 わたくしたちの両親が出会うことも、わたくしたちが生まれることも、何もかも――

「そうだね」

 志乃武も、どこか遠いところを見るような表情で言った。

「そして、最期まで日可理のことを心配していた」

「志乃武さん、わたくしは……」

「わかってる」

 何か抗弁しかける姉を、志乃武はさえぎる。

「ただ、ね」

「ただ?」

 日可理はおうむ返しに尋ねた。

 志乃武は少しためらいがちに、静かな口調で言った。


「ただ……人の心の動きというものがすべて、星の動きに沿うものだったならよかったのに、と思ってさ」

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