2023年8月13日日曜日

紅蓮の禁呪第119話「結界消失・三」

  夜になると山はその表情を一変させると人は言う。

 気むずかしく、容易に人を寄せ付けない、と。

 けれど、竜介はまるですべてを見通せるかのように身軽だった。


 薄暮の山道を、風のように駆ける。


 泰蔵の家から最寄りの結界石は、乾の滝へ向かう道にある。

 数日前、魂縒のときに通った場所だ。

 常人なら昼間でも半刻近くかかるだろう険しい山道を、彼は夕闇の中、ものの十分ほどで走破すると、目的地近くで歩を緩めた。

 呼吸の乱れもなく、気配を消した彼は木立の影と同化する。

 そのまましばし周囲を伺っていたが、何も起きない。


 てっきり、待ち伏せされてると思ったんだが――?


 訝しみながら、慎重に結界石に近づくが、相変わらず辺りは静まり返ったままだ。

 石には、一枚の紙が貼りついていた。

 墨跡も鮮やかに、漢字と幾何学紋様が描かれた和紙。青白い燐光を放っている。

 呪符だった。

 石そのものが破壊を免れていることに彼は一瞬安堵したが、次の瞬間にはむらむらと怒りが湧いてきた。


「くそっ、いったい誰がこんな……」


 苦々しくそう一人ごちながら、目の前の呪符をはがそうと手を伸ばした、そのとき。

 突然、闇の中から二本の腕が現れ、彼をうしろから羽交い締めにした。

「誰だ!?」

 とっさに振り払うと、


「キャッ!」


 という、小さな悲鳴。

 聞き覚えのある声に、驚いて背後をかえりみれば――

 最初に彼の目に飛び込んできたのは、季節外れな桜色の着物だった。

 薄暮に浮かび上がる、白い顔。

 そこには、日可理がいた。


「竜介さま……やっと、お会いできた」


 彼女はいつになくなまめかしい吐息とともに彼の名前を呼ぶと、その胸に飛び込んできた。

「日可理さん!?ちょ、ちょっと待ってくれ。どうしてここに?」

 竜介は当惑しながら日可理の肩を掴むと、自分から引き離した。

 いつもほとんど化粧気のない彼女が、今日はめずらしく口紅を塗っている。

 血の気のない白い顔の中で、真紅にきわだつ唇。

 そのどこかうつろな表情は、見知らぬ女のようだった。

 心臓が警鐘のように鼓動を打つ。

 彼女の使う呪符は、目の前のこの怪しげな呪符同様、和紙に墨で書かれていた。

 身内に気をつけろ、という黄根の忠告が脳裏をよぎる。


 気を許すな。


 竜介は日可理からさらに一歩後退して、結界石に近づいた。

「どうして……?」

 日可理は竜介の質問をおうむ返ししながら、彼が後退したと同じだけ間合いを詰める。

 それまで無表情だったその唇が、きゅうっと笑みの形を作った。


「無粋なことをお尋ねになるのね」


 竜介はそれに対して答えず、後ろ手に結界石に貼られた呪符をはがそうとした。

 結界を復活させ、紅子たちのところに早く戻りたかった。

 日可理がどういう意図で結界を消したにせよ、これ以上のことはできないだろう――そう高を括ってもいた。


 その思い込みが、一生の不覚となるとも知らずに。


 竜介の手が呪符に触れたとたん、日可理は驚くような素早い身のこなしで竜介の間合いに入ると、その手を捉えた。

 あっと思った次の瞬間、潤んだ黒い瞳が彼の間近にあった。


 日可理の顔が、白く輝く。


 ほんの一瞬だった。

 一瞬で、竜介はみじろぎどころか、視線さえ動かせなくなっていた。まるで全身が生きた彫像にでも変えられてしまったかのように。

 背中を冷たい汗が伝い落ちる。

 じりじりするような沈黙の中、彼女の動きはひどく緩慢だった。唇に笑みを浮かべたまま、ゆっくりと竜介の胸に両手を当てて頬をすり寄せる。


「わたくしたち、もっと早くこうしているべきでしたのに……」


 そう言いながら。

 桜色の袖からのびた白い腕が、白蛇のように竜介の胸をすべり、上がっていく。

 肩へ、そして首筋へ。

 日可理の顔が近くなる。

 鼻腔をくすぐる、甘い吐息。


 やめろ。


 日可理が何をしようとしているか気づいたとき、竜介は叫ぼうとした。

 だが、表情を変えることさえできないまま――

 柔らかな、けれど驚くほど冷たい感触が、彼の唇を奪った。


 * * *


 竜介と鷹彦がダイニングを出てすぐ、泰蔵は紅子の手を借りて、慌ただしく戸締まりや屋内の消灯の確認を始めた。

「わしらに気配を消すすべがない以上、こんなことは気休めにしかならんが……ま、やらんよりはいいだろう」

 日はすでに落ちて、窓から入る光はない。

 代わりに、泰蔵の身体が放つ青い光が辺りを照らしている。


「さてと、あとは玄関だな」


 彼は紅子について来るよう身振りで示すと、先に立って歩き出した。

 二人が廊下を歩いて行くと、玄関にいた鷹彦が気づいて振り返った。

 闇の中に浮かぶ、もう一つの青い輝き。

「行ったか」

 玄関の明かりを消しながら、泰蔵は鷹彦にそう声をかけた。

「はい、一番近い結界石の様子を見てくるそうです」

 鷹彦の返答に、紅子は魂縒のときに通った道を思い出しながら言った。


「ここから一番近い結界石って、乾の滝に行くとき見たあれだよね?」


 鷹彦は「そうそう」とうなずいてから、

「しっかし、やつらはどうやって結界を消したんだ?結界石のどれか一つにでも何かあれば、結界が消える前に俺らにわかるはずなのに」

 いかにも腑に落ちないという風に頭を抱えた。

 泰蔵もそれにふむ、と鼻を鳴らして同意を示し、


「わしらは結界をいささか過信していたな。まさかこんなふうに仕掛けられるとは」


 苦いものを含んだ口調で言いながら、彼は上がり框に腰を下ろして靴を履き始めた。

「お前さんたちも靴を履いておきなさい。何かあったとき、裸足では困るだろう」

 そう促されて、紅子は自分のスニーカーを履いた。

 が、紐をしっかり結び直そうとして、指が震えていることに気づく。


 ――心細い。


 竜介がいない。たったそれだけのことで、膝を抱えてうずくまりたいような気持ちになるなんて。


「そんな顔しないでくれよ、紅子ちゃん」


 鷹彦が、青い光輝に包まれた手を紅子の肩に置いて、言った。

「大丈夫。師匠と俺っちがついてる」

「……うん、ありがとう」

 そう言って、紅子が笑って見せた、そのとき。

 泰蔵が口に人差し指を当て、鋭く「シッ」と言った。

 たすけて、という微かな声と、すすり泣き。

 その場にいる全員が、知っている声だった。


 涼音の声だ。


 同時に、彼らの身体に現れた異変があった。

 首筋の痛痒感である。


「出てこい。炎珠の神女」


 聞き覚えのある声が、響き渡った。少女の姿をした、黒衣の死神。

「出てこねば、この娘を斬る」

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