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2025年5月11日日曜日

紅蓮の禁呪159話「終曲」

 


 空いているベンチを見つけてクレープをゆっくり食べたあと、陽光できらきら輝く青い海を眺めつつ、

 そろそろ帰ろっか……荷物も重いし。

 などと考えていると、かかとに何かがぶつかる感触があった。

 怪訝に思ってベンチの下を覗くと、ちょうど彼女の足元にサッカーボールが一つ転がっている。

 ボールを持って立ち上がり、振り返ると、ベンチの背もたれのむこうに三歳くらいの小さな男の子がこちらへとことこ早足で近づいてくるのが見えた。

 彼の背後には、父親らしい男性が、同様にこちらに視線を投げ、すみません、というように苦笑して頭を下げている。

 紅子はボールを持ち主の少年に手渡すべく、ベンチの向こう側へ回った。

「はい、どうぞ」

 かがんでボールを手渡すと、少年と目が合った。

 黒い瞳と、黒い巻き毛。

 日本人離れした鼻筋と、白い肌。

 その顔を見た刹那、闇の中で閃いた稲妻がほんの一瞬辺りを照らすように、ある男の顔が紅子の脳裏をよぎった。


 白い顔を縁取る黒く長い巻き毛、だがその黒い瞳は、光を失った暗黒の深淵――


 誰?


 思い出そうとした次の瞬間、それはするりと再び記憶の闇に沈んで消えた。

 ただ一つ、その左頬に浮かぶ小さな傷跡を残して。

 それは少年の左頬にもあった。


「そのケガ……」

 紅子が我知らずつぶやくと、

「あのねえ、おじいちゃんちのろうかで、すべってころんだの」

 少年はボールを受け取りながらはにかんで答えた。

 と、そのとき、まるでそれ以上彼らが会話するのを拒むように、ハスキーな女性の声が聞こえた。


「あなた、泰己(たいき)」


 少年が声のほうをくるりと振り返るのに合わせて、紅子は彼の視線を追いかける。

 そこには、ベビーカーを押してこちらへやってくる女性がいた。

 身体の線が細い。まっすぐな黒髪、切れ長の目――


 よく似た誰かを知っているような気がするのに、意識はただ虚しく記憶の闇を掻くだけだった。


「ママー!」

 彼はそう叫ぶと駆け出した。

 父母と合流し、ふと思い出したようにこちらを振り返るや、


「ありがとー!バイバーイ」


 小さな手を思い切り伸ばして振り回して、彼はまぶしいような笑顔と元気な声を残し、家族とともに楽しげに何ごとか言葉をかわしながら歩き去った。

 紅子はなんとなくそのまましばし彼らの背中が見えなくなるまで見送ってから、ベンチのほうへ踵を返した。

 ほんの一瞬の、他愛もない触れ合い。

 だが、紅子はなぜか満たされた気持ちで、我知らず鼻歌まで歌っていた。

 ――誰もいないはずのベンチのそばに、人影を見るまでは。


 長身で、どこか見覚えのあるシルエット。


 まさか、と思いながらも、期待で心臓が跳ねるのを止められない。

 日はそろそろ西に傾きつつあるとはいえ、水面の跳ね返す光はまだ眩しく、紅子は思わず目を細めて手庇ごしになんとか相手を確かめようとした。

 眩しい視界の中、それでも彼のいつものいたずらっぽい笑みを視界に捉えた瞬間、紅子はほとんど衝動的にその名前を声に乗せていた。


「竜介!?」


 すると、よく知っている声が答えた。


「久しぶり。びっくりした?」


 紅子は驚きのあまり、文字通り心臓が口から飛び出さないように両手で口を押さえて呼吸を整え、それからようやく言った。

「びっ……くりした!」

 電話やメールでずっと連絡を取り合っていたけれど、こうして実際に顔を見て話すのは本当に久しぶりすぎた。

 耳元で心臓の鼓動が聞こえるのは、驚きのせいばかりではない。

「一瞬、向こうでなんかあったのかなって、縁起でもないこと考えちゃったよ」

 照れを隠すように続けた言葉に、竜介は笑って、

「とりあえず、座って話そうか」

 と、片手を差し出す。

「お手をどうぞ、お嬢さん。俺が幽霊かどうか、確かめてみたら?」

 紅子は赤い顔で竜介の顔と手を交互に見てしばし逡巡してから、差し出された大きな手に自分の手を重ねた。

 温かい。

 竜介はにっこりして彼女の手を引き寄せると、滑らかな動作で彼女をベンチに座らせ、自分もその隣に腰を落ち着けた。

 手は、重ねたままだ。

 その温もりが、彼が本当にここにいるのだということを実感させてくれる。

 ――嬉しい。

 が、同時に、どうしようもなく照れくさくて、つま先がむずむずする。

「いつ帰ってきたの?それに、なんであたしがここにいるって?」

 黙っていると頭がオーバーヒートして妙なことを口走りそうなので、今一番の疑問を訊いてみる。

「今朝の便で」

 と竜介。

「仕事が思ったより早く片付いた上に、一番早い飛行機に運良く空席があったんだ」

 そして彼は帰国してからここに至るまでの紆余曲折を語った。

 今日から日本は五月の連休だということは知っていたので、空港に到着後、都心に向かうリムジンバスの中で、竜介は紅子が家にいることを期待して一色家に電話をしたところ、紅子は出かけたという玄蔵の返事。

 がっかりしたものの、もしかしたら出先で会えるかもしれないと思い直し、紅子の行き先を玄蔵から聞いておいて、とりあえずスーツケースなどを置きに、東京での定宿である虎光のマンションへ。

「ついでにシャワー浴びて着替えたかったし」

 と彼が付け加えるのを聞いて、紅子は今日の彼の服装が長時間のフライト後にしてはこざっぱりしている理由を合点した。

 ブルーのシルクシャツに濃紺のジャケット、灰褐色のコットンパンツに黒に近い濃褐色のレースアップシューズという出で立ちは、男物の服装に詳しくない紅子が見てもおしゃれだ。

「時差ボケは?」

「今回は仕事だったから平気」

 竜介が酒好きが高じて海外の珍しい酒類を輸入する小さな会社を営んでいることは、付き合い始めてすぐに知った。

 以前、彼の部屋で見かけた酒瓶の数々は、趣味と実益を兼ねたものだったのだ。

 オフィスは彼の父方の祖父母が暮らすオーストラリアにあり、社員はいないいわゆる「一人社長」なので頻繁に日本と往復する必要があるけれど、時差はほとんどないから楽なのだと彼は言っていた。

 紅子は言った。

「仕事だったんなら、別にわざわざ着替えなくてもよかったんじゃない」

「いやいや、飛行機に乗るときはよほど短時間じゃない限り、パジャマみたいな格好だから」

 竜介は苦笑して頭を振る。

「それに、約束したからね。ちゃんとした格好で会うって」

 部屋では虎光が連休を満喫していた。

 出かける予定はないから車を使っていいとのことでお言葉に甘え、車でアウトレットモールに向かったが、着いてみると思った以上に広い上に混雑していて、もう直接携帯に連絡を入れようかと迷ったと彼は言った。

 奇跡といってもいいようなことが起きたのは、そんなときだ。


『えっ?はい、いえ、別にそういうわけでは』


 聞き慣れた声に振り返ると、家電量販店の店先にずらりと並んだ大小様々な液晶テレビすべてに、探していた人物が映っていた。

 まるで、「彼女なら、ここにいるよ」と誰かが教えてくれているように。

 彼はすぐさま傍らで呼び込みをしていた店員をつかまえて、画面に写っている場所への道順を聞き出し、人混みをかきわけて外に向かった。

 そして今に至る。

 不意打ちのような形で撮影された自分の姿が公共電波でさらされ、しかもそれを身近な人間が見たというのは、この上なく気恥ずかしく居心地の悪いものだ。

 そのことについて紅子は不平を言ったが、竜介は、まあね、と一旦同意したものの、

「ま、俺はおかげでサプライズが成功したわけだけど」

 と、いたずらっ子のように笑った。

「あれはほんと、びっくりしたな。奇跡的なタイミングだった」

「竜介が到着する前にあたしが移動して、入れ違いになってたら?」

「うーん、そのときはそのときで、電話すればいいかと思ってたんだけど」

 竜介は少し口ごもってから、続けた。


「電話なんかしなくても、なんだか会える気がしたんだ」


 紅子はまた自分の顔に血が上るのを感じた。

 視界の端で隣にいる彼を盗み見ると、まっすぐ海を見ているその顔も赤らんでいる気がした。海からの照り返しのせいだろうか。

 どう返事をしたらいいのかわからないまま、しばらく竜介の靴の隣に並んだ自分のスニーカーのつま先を見つめた。

 もうちょっといい靴を履いてきたらよかった。


「……あとどれくらい日本にいられるの」


 この質問を口に出すのは勇気が必要だった。

 いつも帰国したと思ったらまたすぐに出国してしまって、学校がある紅子とはまったく時間が噛み合わなかった。

 今回はたまたま会えたけれど、きっと今夜遅くか明日にはまたどこかへ旅立ってしまうんだろう。

 そう思うと、別れまでの時間を自分から区切ってしまうような気がして怖かった。

 でも、心の準備は必要だ――笑顔で彼を送り出すために。

 声が震えないように、なるべく明るく尋ねた質問の答えは、しかし、いい意味で予想を裏切るものだった。


「しばらくいるよ」


 と、竜介は答えた。

 彼がここしばらく忙しくしていたのは、会社のオフィスを日本に遷すためだったらしい。

 一緒にいられるのはとても嬉しい。

 でも、なぜ今、日本に遷す気になったんだろう。

 紅子がその疑問を口にすると、竜介はニヤリと笑うと、

「ま、年貢の納め時ってやつだよ」

 それからふと真面目な口調になって、

「未来のことはわからないけど、自分の生活だけ考えて生きるのはもう潮時かなと思って」

 どういう意味だろう、と紅子が考える暇もなく、彼は

「親父のこともね」

 と続ける。

「君の親父さんから言われたよ。俺がいつまでも苦しむことを、死んだ母さんが望んでいると思うのかって」

 短い沈黙が降りた。

 いつの間にか海の向こうは夕焼けの色が濃くなり、周囲の喧騒も遠のいたようで、波の響きだけがやけに大きい。

 それを破ったのは、紅子だった。

「あたし、黄根のおじいさんから遺品をもらったの。古い写真なんだけどね」

 玄蔵が母親の墓参をしたあの日、禁術が使われることで起きる変化――御珠の消失、時系列の変化など――についても事前に説明しておくことで混乱を最小限にとどめようとしたのだろう、黄根老人は泰蔵のもとを訪れた。

 そのとき同時に、彼は自分が死ぬことも予言し、

「すべてが終わって落ち着いたら、紅子に渡してほしい」

 と泰蔵に託したのが、その写真だった。

 東京に戻る前に泰蔵から手渡されて以来、紅子はそれをなんとなくお守りのようにパスケースに入れてずっと持ち歩いていた。

 今、彼女はそれを取り出し、改めて目を落としていた。

 そこに写っているのは、赤ん坊を抱いた若い夫婦だ。

 色は褪せ、何度も折り畳んだり開いたりされたらしく、折り目の部分が白くなってはいるが、画面の中の笑顔の女性が若い頃の祖母であることはすぐにわかった。

 そして、写真の裏には、「日奈の宮参り」と書いてあった。


「黄根のおじいさんは、きっとわかってもらいたかったんだと思う。母さんやあたしのことをどれくらい大切に思っていたか」


「そうか……」

 竜介はため息とともにそう言って、頭を掻いた。

「俺、あの人に悪いことしたな。娘の幸せなんかどうでもよかった、なんて決めつけて」

 夕日は彼らの背後に遠のき、辺りは急に暗くなり始めていた。

 竜介は紅子が持っている写真をよく見ようと少し身を乗り出す。


 と、そのとき――


 いきなり風が強くなり、一陣の突風が砂埃を巻き上げた。

 紅子は小さく悲鳴を上げ、思わず強く目を閉じる。

 その瞬間、手にしっかり持っていたはずの写真が、風にさらわれて舞い上がった。


「写真が!!」


 紅子は慌てて手を伸ばし、空中をひらひらと滑っていく写真を追いかけたが、もう遅い。

 それは風に流されるまま柵を乗り越え、夕暮れの暗い波間に消えた。

 紅子がなすすべもなく柵にもたれて、写真が消えていった海を呆然と見つめていると、隣に竜介がやってきて言った。

「黄根さん、よほど俺に見られるのがいやだったのかな」

 冗談なのか本気なのかわからないとぼけた口調に、紅子は思わず吹き出した。

「照れくさかったんだよ、きっと」

 それに、と続ける。

「わかってもらえたからもういい、と思ったんじゃない?」

「だといいんだけど」

 会話が途切れたが、そのまま二人は並んで暮れていく海を見ていた。

 静かだった。

 コンクリートに打ち付ける規則的な波の音のほかは、モールのほうから聞こえるかすかなざわめきばかり。


 帰りたくない。


 そんな言葉が口をついて出そうになる。

 が、それはさすがに彼を困らせるだけだろうと、紅子は代わりの言葉を探した。


「ずっとこんな日が続くといいのにね」

 すると竜介はふと微笑んで、

「続くさ」

 と、答えた。

 それから改まった様子で

「紅子」

 と彼女を名前で呼ぶと、少しためらいがちに言った。


「……キスしていい?」


「え、ここで?」

 紅子は真っ赤に上気した顔をごまかすように、慌てて周囲を見回す。が、

「誰もいないよ」

 と竜介が言う通り、いつの間にか辺りは人の気配が絶えてひっそりしていた。

 自分の心臓の音が、彼にまで聞こえるのではと心配になるくらい。


「ど、どうぞ……?」


 紅子が思い切って答えると、肩に温かな手が置かれて、竜介の顔が間近に降りてきた。

 その端正な顔が、困ったような笑みを浮かべている。


 前にも、こんなことが――


 そう思っていると、

「前にも言ったと思うけど、」

 と彼が言った。


「やりにくいから、目を閉じてくれるかな」


 驚きのあまり、言われたこととは真逆に、紅子は反射的に目を見開いた。

「前にも、って……!?」

 でも、あれは夢だったはずでは?

「その話は、またあとで」

 竜介はいたずらっぽく笑うと、自分の唇の前に人差し指を立てた。


「今は……目を閉じて」


 そうだ。これから、時間ならあるんだった。

 そう思いながら、紅子はゆっくり目を閉じる。

 話したいことはたくさんあった。

 もしかしたら、一生かかっても尽きないほどに。


 夕焼けの残照を背景に、二つのシルエットが重なった。

 海を渡る初夏の風が、暖かく二人を包んでいた。

 季節はまだ始まったばかりだ、と言うように。


<完>

※挿絵はAIに寄るものです。

2025年4月8日火曜日

紅蓮の禁呪158話「禁術始動・五」

 


 碧珠が収められていた紺野家の滝裏の洞窟も、白珠が隠されていた白鷺家の四阿(あずまや)の仕掛けも、同様に消えてなくなった。

 黄珠がどこに安置されていたのかはわからないが、その場所も今はなくなっているだろう。

 竜介たちと黒帝宮へ赴いたはずの朋徳は、黄根家からの連絡によると、十二月の冬至一週間前から心臓疾患で入院、冬至の深夜に容態が急変し、翌未明、そのまま帰らぬ人となった、とのことだった。


 では、禁術を起動する直前、紅子に助言をあの老人は誰だったのか――


 答えは、どちらも同じ黄根朋徳で間違ってはいない。

 御珠が消え、力がなくなり、新月の日がずれたのと同様、禁術によって「歴史が書き換えられた」――あるいは、「最初の禁術失敗でねじれた歴史が正された」――ために起きた、御珠に関わった人間の記憶にのみ残ってしまった「ねじれの残滓」なのだった。


 * * *


 学校は予定通り四月から始まったものの、避難先から戻れない生徒は多いようで、教室には空席が目立った。

 戻ってこれないのは教師も同様らしく、紅子は自分のクラス担任とゴールデンウィークに入ろうかという今に至るまで、顔を合わせたことがない。

 隣のクラス担任が紅子のクラスも兼任しているようなものだ。生徒が少ないからそれでも回せているのだろう。

 授業もプリント自習が多いが、これは昨年秋からのブランクがある紅子にとってはこれ以上ない福音だった。

 春香とは東京から転送されてきた彼女の年賀状に書かれていた住所とメールアドレスから連絡が取れるようになったため、学校が始まる前に少しでも追いついておこうと、欠席分のノートのコピーを送ってもらってはいた。

 それでも家での自主学習はやる気が今ひとつで思うようにはかどらなかったのが、学校では自習の合間に直接友人たちから教えてもらえるおかげか、格段に進捗が早く、おまけに楽しい。

 次の定期考査での欠点はひとまず免れそうで、紅子は胸を撫で下ろしていた。

 やはり持つべきものは友である。


 ところで、春香といえば藤臣だが、彼らがその後どうなったかというと、この春、晴れていわゆる「交際」をスタートさせたらしい。

 が、「彼氏」の進学先が地方の大学だったせいで、それは思いがけない遠距離恋愛のスタートでもあった。

 実は紅子と竜介の二人も、竜介が仕事で頻繁に日本と海外を行ったり来たりしていて、直接会うには予定がなかなか噛み合わないという、似たような状況にあった。

 メールはしょっちゅうやりとりしているし、時間の合うときは電話もかけてきてくれるから、気を遣ってくれているのはわかっている。

 仕事だから仕方ないとは思うが、やはり少し寂しい。

 そんな中、遠距離恋愛仲間を得たことは、紅子と春香互いにとって不幸中の幸いだった。

 今や、彼女らは互いの彼氏とよりも頻繁にメールのやり取りをしているくらいである。

 そんなこんなで、ゴールデンウィークも一緒に遊びに行く計画を立てていたのだが――


「えーっ、行けなくなったって、どういうこと!?」


 ゴールデンウィーク初日の朝。

 自宅兼道場の電話が鳴ったので出てみると、春香だった。

 休日の朝の電話にろくなものはないのが世の常だが、今回も例外ではなく、本日一緒に買い物に行く約束をしていたのに、急用で行けなくなった、という連絡だった。

 電話の向こうの春香は詫びの言葉を繰り返すものの、その声はまったく残念そうではなく、むしろなんとなく華やいでいる。

 それで紅子もピンと来た。


「さては藤臣先輩からなんか連絡来たね?」


『えへっ、わかる?』

 春香は悪びれもせず言った。

『昨日の深夜にメール来ててさ、ゴールデンウィークのあいだ家の用事でこっちに来るんだって。で、空いてるのが今日だけだっていうから~……ほんとゴメンよ?埋め合わせはするからさ』

「わかったわかった」

 あまりにもあっけらかんとしている春香に紅子もそれ以上怒る気が失せてしまい、次の約束はまたメールで、と言い合うと、受話器を置いた。


「女の友情なんてもろいもんよね……」


 へっ、とひねくれた笑いとともにそう独りごちると、そばでお茶を飲んでいた玄蔵が吹き出した。


「何、父さん。あたし何か変なこと言った?」


 憮然とした表情で紅子が問いただすと、彼は笑いを引っ込めて、

「いや、別に」

「あっそ」

 紅子はそっけなく答えると、上着を着て出かける準備を始めた。

「あれ?出かけるのか?春香ちゃんは一緒じゃないんだろ?」

「一人でも行くの」

 紅子は慌ただしく玄関に向かいながら、肩越しに振り返って言った。

「今日からバーゲンなんだもん、初日に行かないと狙ってたのが売れちゃうでしょ」


 道場の玄関の引き戸が閉まる音がして、家内に沈黙が戻る。

 それからしばらくして、再び一色家の電話が鳴った。

 玄蔵が受話器を取ると、よく聞き慣れた声だ。

「ああ、君か。元気そうだな。いや、紅子なら今出かけたよ……」



 買い物は、朝に気分を損ねたことなど忘れるくらい、なかなかの収穫だった。

 やっぱり来てよかった、と大きなショッパーバッグを抱えながら、紅子はほくほく顔でアウトレットモールの外に出た。

 海沿いに建つこの施設は、海が見渡せる公園に隣接していて、祝日の今日はワンハンドフードの屋台やキッチンカーが遊歩道沿いに軒を連ね、美味しそうな匂いで道行く人々の鼻腔をくすぐっている。

 腕時計を見ると、午後三時。

 昼食はモール内のファストフード店で取ったが、おやつは外で買い食いすることに決め、紅子は屋台を見て回ることにした。

 公園内もそれなりに賑わっているが、まっすぐ歩くことすら難しいモールの中に比べたら、ゆったりしたものだ。

 遊歩道の途中にある広場では、サルっぽい顔立ちの小柄な青年が大道芸を披露していた。

 ひょうきんな言動と身軽なアクロバットが観衆を大いに沸かせている。

 広場には他にも子供向けのイベントブースがあり、海の側だからウミウシを模しているらしい着ぐるみが小さい子どもたちに風船を配っていたが、それがお世辞にもかわいいとは言い難くて、風船欲しさに近寄ってくる子どもたちの中には、怖くて泣き出したり、風船をもらった途端に逃げ出す子どももいたりして、周囲の大人たちを苦笑させていた。

 紅子はというと、青年や着ぐるみに奇妙な既視感を覚えることに、内心で首を傾げた。


 テレビのニュースか何かで見たのかな?


 そんなことを思いながら適当に選んだ屋台でクレープを注文し、出来上がりを待っていると、にわかに周囲が賑やかになった。


「……ということで~、本日は人が多くてとってもにぎやかなモールに来ていますぅ~!外にもスイーツのお店がたくさん並んでますね~!どれもとても美味しそうですよね~、ちょっとここで食べてる人にもお話うかがってみたいと思いますぅ~」


 テレビのレポーターらしい華やかなスーツ姿の女性が、マイク片手にそんなことを喋りながら、テレビ局の腕章をつけたカメラクルーを引き連れてこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。


 妙に粘っこい喋り方に、またもや既視感。


 だが、店員から注文していたクレープを渡されて、紅子の注意がそちらへ向いた、そのとき。


「こんにちわああ、すっごいいちごたっぷりなクレープですねえ~!!」


 突然すぐそばで声がして、紅子は一瞬、クレープを取り落としそうになった。

 見ると、さっき遠目に見たテレビレポーターがいて、こちらに向かって笑顔を放射している。


 もったりした肉感的な唇に、また何度目かの既視感。


 だが相手はそんな紅子の内心にはお構いなしに、

「ここのクレープはお気に入りなんですかぁ?」

 などと尋ねてくる。

 紅子はいきなりのことにたじたじとなりながら、

「えっ?はい、いえ、別にそういうわけでは」

「いちご、お好きなんですねぇ~」

「あ、はい、いちごは大好きですけども」

「そのクレープ、他に何が入ってるんですかぁ?ちょっと食べてみてくれますぅ?」

2025年3月30日日曜日

紅蓮の禁呪157話「禁術始動・四」

 



 まる四日眠っていた、と医者から告げられたときは自分の耳を疑った。

 診察の結果、医者は紅子をまったくの健康体だと請け合って、彼女の身体に取り付けられていた管やセンサーを外してくれたあと、

「今夜一晩様子を見て問題なければ、明日の午後退院しましょう」

 と言って、看護師を連れて病室を出て行った。

 入れ替わりに父と祖父、それに虎光が入ってきたので、紅子は竜介と鷹彦、白鷺家の二人、それに黄根老人の安否を尋ねた。

 三人が一瞬、微妙な表情になったので不安になったものの、なぜかなんとなく彼らの返答を予測できた。

 そして彼らは、紅子が直感した通りのことを言った。


 五人のうち四人は無事で、元気にしている。

 ただ、黄根老人だけが亡くなった、と。


 紅子は、なぜ、とも、いつ亡くなったのか、とも尋ねなかった。

 それより、父親以外で母や祖母のことを知っている親族がいなくなってしまったことが、ただ残念で悲しかった。

「そう……」

 と言ったきり、悄然と黙り込む彼女の目の前に、虎光が気まずい空気を変えようとして差し出したのが、例のギフトバッグだった。


「兄貴から、紅子ちゃんに渡してくれって預かったんだ。直接渡せてよかったよ」


 虎光はそう言って、開けてみるように促した。

 父親と祖父もいる前で、どう見ても特別感あふれるギフトバッグを開けるのは照れくさかったが、自分も中を見てみたい気持ちが勝って、紅子はベッドの上に起き上がると、紙袋の口の部分を閉じている小さなテープを剥がした。


 これまでの自分の人生で、開封の瞬間にこれほどドキドキしたプレゼントがあっただろうか、と思うくらい、それは胸の高鳴る一瞬だった。


 袋の中身は、電話会社のブランドロゴが印字された化粧箱。

 それと、水色の封筒に入った手紙が一通添えられている。

 箱を開けると、中にはパールが入った臙脂に金属部分がゴールドというおしゃれなフリップ式携帯電話が収まっていた。


 電話をかけろってこと?


 周りの視線を忘れて、紅子は急いで封筒を開けた。

 封筒と揃いの水色の便箋が四つ折りになって入っていたが、それを開くのももどかしい。 紺色のインクを目で追いながら、そういえば竜介の肉筆を見るのはこれが初めてだと思う。

 男性らしいカチッとした文字で、そこにはこう綴られていた。



  一色紅子様


 今、君は目を覚ましてこれを読んでくれていることと思います。

 本当はこの手で渡したかったけれど、用事で日本を離れることになり、虎光に託しました。

 俺は君のそばにいられないのがとても残念ですが、君はどうかな?

 もし少しでも残念だ、寂しいと思ってくれるなら、この手紙に同封した携帯電話で連絡をください。


 あの夜の月を、また一緒に見られることを願って。


 愛しています。


  紺野竜介



 文字通り、本当に顔から火が出るかと思った。

 最後の一文に目を通すや否や、紅子は電光石火の早業で便箋をベッドの上に裏返しに伏せた。

 顔を上げると、祖父も虎光も、わざとらしく明後日のほうを向く。

 父だけがなんとも複雑な顔で自分を見て、何か言おうとしたのか口を開きかけたが、


「えーと、そういえばそろそろ、面会時間も終わりだな。玄蔵、虎光くん、帰ろうか」


 という、なんだか妙に上ずった泰蔵の言葉で遮られてしまった。

 虎光も調子を合わせて、

「あ、ですね。じゃあ俺、車だから送っていきますよ」

 だが、


「えっと、待って待って」


 紅子は慌てて呼び止めると、まだ電源が入っていない携帯電話のフリップを開いて見せて言った。


「虎光さん、すみませんが使い方を教えてもらえますか?」


 携帯が入っていた箱には使い方を書いた小さくて分厚い冊子も同梱されていたが、そんなものを読み込む時間が惜しかった。


 電話でもメールでもいいから、今すぐ使いたい。


 虎光は快く、さしあたって必要と思われる機能を手短に教えてくれた。

 その間、玄蔵が直ぐ側で

「携帯電話なんてまだ早い」

 だの、

「退院してからでもいいだろう」

 だのぶつくさ言っていたが、聞こえないふりをした。

 電源を入れてみると、メールの着信が一件あった。

 中身は、竜介の名前と携帯電話の番号だけ。


「兄貴はまだ国内にいるから、電話したら喜ぶと思うよ」


 虎光に言われるまま、紅子は恐る恐る、画面の番号に電話をかけた。


 電話を耳に当て、緊張した面持ちで呼び出し音を聞いている紅子を残して、泰蔵と虎光は狼狽する玄蔵をなだめつつ、その背中を押すようにして廊下に出た。

 電話はまもなく繋がったようだ。

 紅子が小さな声で、電話の相手に何事か話しかけるのが聞こえた。

 その後、嬉しそうに何度も頷き、目尻に浮かんだ涙を指で拭う様子を肩越しに確かめると、虎光は病室の引き戸を後ろ手にそっと閉めたのだった。


 * * *


 それから約二ヶ月以上経って、紅子はようやく東京に戻った。

 三月も半ばになろうかという頃である。

 なぜそんなに時間がかかったかといえば、端的にいうと、家が住める状態ではなくなってしまっていたからだ。


 黒珠が引き起こした未曾有の大寒波は、大量の積雪と寒さによって、送電や上下水道などのライフラインを傷つけたほか交通網を寸断し、古い家屋などを破壊した。

 のみならず、気温が年明けとともに平年並みに戻ったあともなお、大量の融雪水による浸水が起き、人々の生活に甚大な被害をもたらした。


 そしてその被害は、一色家にも及んでいた。


 政府が発した緊急避難指示は、二月には全面解除となったので、東京の本社まで様子を見に行くという虎光に頼んで、玄蔵と紅子も彼の車で同行させてもらったことがあった。

 一色家は倒壊こそしていないものの、もともと古かった建物は、屋根が雪の重みで素人目にもわかるほどたわんでいたし、家の中も、雪によるものか浸水のせいかは定かではないが、一階部分はとても人が住める状態ではなくなってしまっていたのである。

 そして、例の土蔵に至っては、ただの瓦礫の山と化していた。


 幸い、玄蔵が「一色流練気柔術」の道場として借りている建物は無事で、中にはシャワールームもあり、手狭だが当面の生活ができる程度の設備はあるので、自宅の改築が完了するまではそこに住むことで一応の解決を見た。

 それでも不便な生活はできるだけ短期間であるに越したことはない。

 道場の再開をしなければならない玄蔵は二月半ばには東京に戻っていたが、紅子は学校が始まるギリギリまで泰蔵のところにとどまっていたのだった。


 とはいえ、一色の家を建て直すかどうかについては、玄蔵はかなり悩んだようだ。

 深夜、泰蔵と相談しているのを、紅子は何度か見かけた。

 泰蔵の家から通える高校への編入手続きを促す書類が役所から届いているのを見かけると同時に、東京の高校からも、四月に授業再開の見通しが立ったという連絡が来ていたが、どちらがいいかと訊かれれば、紅子にとっては後者がいいに決まっている。

 玄蔵にとっても、新しい場所で一から道場の経営を始めるよりは、すでに弟子たちがいる東京に戻って、完全に元通りとまでは行かずとも、道場を再開するほうがずっと楽なはずだ。

 残る問題は先立つものだったが、玄蔵が自分の生家の名前を出すと、驚くほどすんなり銀行の融資が通ったそうで、それが最後の決め手となったのだった。

 泰蔵だけは、息子や孫といっしょに暮らせる当てが外れて、少し落胆したらしいけれど。


 東京に戻った紅子は、改築が始まる前の更地になった自宅跡地を見に行ってみた。

 築地塀はなくなり、代わりに周りを囲っているのは仮説された蛇腹式の横引きシャッターで、その向こうに広がる空き地は驚くほど広かった。

 植栽もほぼ取り除かれ、隅の方に真新しい建材がいくつか置かれているほかは本当になにもない。


 土蔵があった辺りの地面も、それらしい穴の跡はない。


「何もないぞ」


 出かける前、家の跡を見に行ってくる、と言う紅子に、玄蔵は言った。

 それに先んじて、彼は他にも、「去年の冬至と新月は重なっていない」ことを新聞などの月齢カレンダーで調べて教えてくれていた。


 そう、世界は変わったのだ――御珠の存在しない世界に。



※挿絵はAI画像です。

2025年3月19日水曜日

紅蓮の禁呪156話「禁術始動・三」

 


 禁術が起動した後のことはよく憶えていない。

 凄まじい術圧と目の前の碧珠の強すぎる輝きに思わず目を閉じた次の瞬間、玄蔵は不意に身体が軽くなり、同時にまぶた越しに突き刺すようだったまばゆさが消えていることに気づいた。

 そういえば、耳を聾する龍垓の咆哮も、紅子が発していた、全身の細胞一つひとつが震えるようなあの「音」も、いつしか聞こえなくなっている。

 静かだった。


 黒珠は封じられたのだろうか?

 禁術はそんなに一瞬で終わるものなのか?


 訝りながらも目を開ける。

 そこには、饕餮文が刻まれた柱と、黒大理石の舞台、そして薄明に沈む黒珠の宮殿と廃園――があるはずだった。


 ところが、まず玄蔵の目に入ったのは見慣れた山門だった。


 小鳥の声と山間を渡る風の音、遠くから聞こえる街の喧騒が耳に届く中、彼は慌てて視線を巡らせた。

 どこもかしこも一面の雪で照り返しがまぶしい。

 けれど、目を細めていても見違えるわけがない。


 そこは自分の生家――泰蔵の寺の前庭だった。


 キンと冷えた風が頬に触れ、雪に埋もれた足先は氷のように凍え始めている。

 夢ではない。

 黒珠の宮城で最後に見たのと同じ場所に泰蔵や鷹彦、日可理の姿もあった。

 彼らも玄蔵同様、目に見えて当惑している様子だったが、互いの姿を認めるや、安堵の表情を浮かべる。

 新雪のあちこちに志乃武、竜介そして紅子の三人が倒れているのもすぐに見つけた。


 しかし、黄根老人の姿だけは、どこにもなかった。


 神出鬼没のあの老翁のこと、きっと自分の力を使って帰宅したのだろう――

 その場では互いにそう言い合って納得し、黄根家にはあとで連絡を入れることにして、彼らはとりあえず目の前の三人を目の前の家に運び入れ介抱することにした。


 家の時計は朝の八時をすぎたところだった。

 冷凍庫のように冷え切っていた屋内が暖房で温まると、ほどなくして竜介が意識を取り戻した。

 紅子の安否を気にする彼に、そばで志乃武の服――右袖がなく、血まみれの――を着替えさせていた玄蔵が、娘は無事だと伝えていると、別室でこちらも紅子の血だらけの服を着替えさせていた日可理が、当惑した様子で彼らのいる客間に入ってきた。

 紅子に何かあったのかと玄蔵が尋ねると、彼女は頭を振り、

「紅子さまのお着替えは問題なく終わりました。ただ……」

 と、続けた。


「実は、わたくしの力が使えなくなってしまったのです。式鬼も、法円も呼び出せなくて……。皆様はいかがですか?」


 玄蔵と竜介は驚き当惑して顔を見合わせる。

 日可理の質問に彼らが答えようとしたそのとき、再び襖が開いて、今度は鷹彦が顔をのぞかせた。

「竜兄、気がついたんだ!よかった~!」

 彼は兄の顔を見るなり、一瞬、嬉しそうにそう言ったが、すぐに伝えなければならないことを思い出したらしく、神妙な顔に戻り、

「……っと、それで、師匠が今、うちの母屋(おもや)――紺野家の本邸――に電話しておふくろさんと話してるんだけど、今さっき黄根家から母屋に連絡があって」

 と、少し早口になる。

 黄根家からの電話によると、と彼は言った。


「黄根さん、亡くなったんだと」



 その日は思いの外、長い一日になった。

 紅子と志乃武の容態が不明なため、当初は救急車を呼ぼうという意見もあったが、泰蔵から連絡を受けた英莉が紺野家と古馴染みの病院に話を通してくれ、彼女の車でそこの救急外来まで二人を運べることとなった。

 ちなみに紅子と志乃武が意識不明になった理由については、

「早朝、本邸から寺のほうへ山伝いに移動しようとして雪で道を見失ったらしく、到着が遅いので探しに行った泰蔵が倒れている二人を見つけた」

 ということにしておいた。

 早めに出勤してきた滝口と斎に留守を任せて、泰蔵の寺までやってきた英莉の車は普通のセダンだが、後部座席とトランクがつながるようになっている。

 彼女はフラットにした後部座席に紅子と志乃武の二人を寝かせ、助手席には志乃武の家族である日可理を乗せて、病院へ出発して行った。

 玄蔵は義父の生家である黄根家に悔みの電話を入れ、葬いの日取りなど聞いたりしてから、ようやく一息入れる時間ができた。

 台所で竜介と鷹彦が作ってくれた多めの朝食を泰蔵と平らげたあと、彼ら四人はしばし仮眠を取ることにしたが、その眠りはそれから二時間ほどで遮られることとなる。

 それは病院に行った英莉からの電話で、連絡が早かったのは、紅子も志乃武も命に別状がなかったからだ。

 二人とも軽い脱水症状と貧血、過労のほかは健康状態にとくに異常がないということで、報告を受けた四人は全員、安堵した。

 医師は言った。

 念のため一晩、様子を見ますが、明日には目を覚ますでしょう――などなど。

 そして、志乃武はまさしく医師の見立て通り、翌日の昼近くに意識を取り戻した。


 しかし――紅子の場合は、その見立てははずれてしまった。


 * * *


「玄蔵おじさん、こんにちは。あ、師匠も来てたんですね」

 そう言って病室に顔を出したのは、虎光だった。

「やあ、虎光くん。いらっしゃい」

「おう、来たか」

 ここは本来二人部屋だが、今は片方のベッドは空いているので、気兼ねなく話せるのがありがたい。

 それぞれに挨拶を返す玄蔵と泰蔵の表情が、思いの外明るいことに虎光は少しホッとしながら、消毒の匂いがする白いベッドに仰臥する紅子の顔を伺う。

 白い顔がいつもより少し血色よく見えるのは、窓から差し込む暖かな午後の日差しのせいだろうか。

 ベッドの傍らにはバイタルや輸液をモニターしている機器が、規則正しい電子音で彼女の命の音を刻んでいた。

 紅子が眠り続けて、今日で五日目になる。

 CTやMRIなど、できる検査はすべてやったが、どこにも異常は見つからなかった。

 医師の説明によると、彼女はただ「眠っている」のだ。

 それなら、目覚めるのをひたすら信じて待つしかない。

 落ち込んでいても事態は変わらないなら、せめて明るく過ごすのだというのが、泰蔵・玄蔵父子の考えらしいが、それでも不安に駆られることもあるだろう。

 だから、連日、紺野家本邸の誰かが見舞いに行くように気を配っていた。

 特に竜介は毎日来ていたのだが、五日目の今日、彼の姿はここにない。

「兄貴が、師匠とおじさんによろしく伝えてくれと言ってました」

「そういえば今日出発だったな」

 泰蔵が思い出したように言うと、玄蔵が、

「送って来たのかね?」

「はい、ついさっき駅まで」

 虎光は続けて、竜介から預かってきたと言って、小さな紙袋を取り出した。

「紅子ちゃんが目を覚ましたら、渡してほしいそうです」

 玄蔵は無言だったが、泰蔵は

「なんだ、菓子類か?」

 と興味津々で紙袋を受け取ると、ためつすがめつ眺めた。

 それは黒くて張りのある厚手の紙でできていて、イタリック体で書かれたブランド名か何かが小さく箔押しされ、持ち手に赤いリボンが結ばれている。

 一見して、ちょっとした気軽なプレゼント、という雰囲気ではない。

「なんだ、意外に重いな。腕時計かな」

「まあヒントとして言えるのは、昨日、兄貴が自分のといっしょに買ってたってことくらいですかね」

 虎光が思わせぶりに言うと、それまで黙っていた玄蔵の頬がぴくりと動いた。


「まさか……指輪……!?」


「いやいや、そんな大げさなものじゃないですって」

 虎光が慌てて否定すると、泰蔵も

「それはさすがに気が早すぎるだろう。鷹彦じゃあるまいし」

 と呆れ顔で言う。

 だが玄蔵は納得しない。

「でも、見るからに高そうだし……念のため中身を確認したほうが」

 などと言い出すので、泰蔵はやれやれと言わんばかりに額を押さえ、虎光は苦笑とともに泰蔵の手から紙袋を取り返して玄蔵から遠ざけた。

「困ったな。紅子ちゃん宛てなんですってば」

「紅子はまだ未成年なんだから、親のわたしが確かめる必要が」

 ある、と玄蔵が言いかけたそのとき。

 かすかに、「うーん」と誰かがうめいた。

 三人は顔を見合わせ、自分たちでないと目で頷き合うと、紅子を見た。

 彼女は大きく伸びをすると、眠そうに目をこすりながら、言った。


「んー……もう、うるさいなぁ……よく寝てたのに、枕元で騒がないでよ」


※挿絵はAI生成です。

2025年2月17日月曜日

紅蓮の禁呪155話「禁術始動・二」


 

 人の意識を神的領域にまで引き上げるための手法は、断食や滝行など肉体的な限界を究める苦行から、酒や向精神作用のある薬草・菌類などを用いた儀式に至るまで、有史以前から枚挙にいとまがない。

 それはとりもなおさず、己という雑念にまみれた存在を超えた先に、何かがあると人が強く信じてきた所以であろう。

 舞踏や音楽も、古来より人と神とをつなぐよすがであり、人の意識を高みへと導くものとされてきたわけだが――


 今、世界を震撼させている「音」は、歌や音楽というよりはもっと原始的なものだ。


 神女の喉から――否、その全身から放たれているその「音」こそ、術を起動するための最後の鍵だった。

 紅子にとって、これは二度目の儀式となるが、黒珠のときよりも澄んだ音に聞こえるのは、五つ目の魂縒を受けたせいだろうか。

 自分の身体が――おそらく玄蔵や黄根老人、白鷺家の二人と同じく――凄まじい術圧に耐えているのを感じる。

 対して紅子は、自分の意識が「音」によって押し上げられるように感じていた。


 さらに遠く、さらに高く――


 時間の感覚は消失し、一瞬とも永遠とも思える旅の果て、彼女がたどりついたそこには、「彼ら」がいた。

 紅子の目に――意識のみの状態なので、この表現は正確ではないのだが、視覚として彼女が感じたという意味で――最初、「彼ら」は五色に輝くモヤか霞の塊のようだった。

 それが次第に形がはっきりしてきて、やがてそれぞれ御珠を表す色の長衣をまとい、フードを目深にかぶった巨人の姿となった。

 フードの中の顔はわからない。

 全身を覆う長衣のせいで、性別も、年齢も不明だ。


 これは「彼ら」の仮の姿だ、と紅子の脳裏を直観がよぎる。


 「彼ら」は本来は実体を持たず、ただ純粋な力の存在なのだ。

 今は紅子の無意識が、自分にとってわかりやすい姿を彼らに投影しているにすぎない。

 そう、「彼ら」はまるで鏡のように、認識者の無意識によって姿を変えてしまう。

 すなわち、「彼ら」を母性的な存在だと捉える者には女神の姿となるし、「彼ら」の強大な力を恐れる者には、見るもおぞましい怪物となるということだ。

 過去、魂縒を四つの御珠からしか受けずに禁術を立ち上げた神女が命を落とした原因は、おそらくそこにあると思われた。


 御珠の一族にとって、魂縒とは「意識を高位に引き上げる」手段であり、とくに炎珠の神女は、五つの魂縒によって人として到達しうる最高位、いわゆる「悟り」の境地を手に入れてきた。

 そして禁術は本来、「彼ら」、つまりさらに人智を超えた高位の存在とつながるための手段だったのだが、長らく黒珠を封印する術としてのみ使われてきたために、「封滅・封禁術」と誤認されて伝わってしまったのである。


 この神域にたどり着くに足るレベルにまで意識を十分に引き上げることができなかった神女たちが、「彼ら」の純粋で巨大な力に恐怖し、哀れにも自ら精神を崩壊させ

てしまったことは想像に難くない。

 黒珠の伺候者たちによる最初の禁術が完全に起動していたなら、紅子も同じ道をたどったことだろう。

 しかし。

 今の紅子の中に、恐怖はない。

 ただ、「彼ら」を神々しいと思う。

 そして「彼ら」は、歓迎という以上に直接的な「愛」ともいうべき温もりで、彼女の意識を包んでいた。


 ここではどんな望みもかなう。


 直観がそう告げる。

 ここはすべての始まりであり終わり。

 時間は存在せず、過去も未来もすべてがここにある。

 善も悪も存在しない、あらゆる現世の価値観から切り離された、神々の住まう常世の国なのだ。

 いかなる望みも、願った瞬間にかなう――

 それを直観したとき、紅子は初めて畏怖を感じた。

 自分の心の動き一つで、世界が変わってしまうかもしれない。

 けれど、彼女の中でずっと響き続けている一つの言葉が、その畏れを振り払う。


 すべてを終わらせるのだ。


 それは、まるで黄根老人がすぐそばでそう「言っている」かのようだった。

 他ならぬ自分自身のものでもある、そのたった一つの望みを、彼女は「彼ら」に伝えたところ、「彼ら」は少なからず驚いたようだった。

 ざわめきが、さざなみのように紅子の意識を撫でた。


 ここではいかなる望みもかなう。

 その望みは世界を変えるだろう。


 それでも望むのか?と念押しするような「彼ら」の躊躇が伝わってきたが、同時にそれは、紅子の躊躇でもあった。


 脳裏を、数々の見知った顔がよぎる。

 彼らを落胆させてしまうだろうか。

 怒らせることになるかもしれない。

 それでも――


 終わらせねばならないのだ。

 今ここで、すべてを。


 * * *


 雷迎術を起動した次の一瞬は、生きた心地がしない。

 自分の身体がまるで液体になったような、なんとも心許ない体感だけを残して、残りの感覚はすべて消失してしまう。

 実際のところ、この術は物理的な肉体を、物質と霊体の中間のようなものに根本から組み替えてしまうらしいから、感覚が消えるその一瞬、術者は限りなく死に近い経験をしているのかもしれない。

 自分がこれを味わうのは今回で二度目だが、おそらく何度やっても慣れることはないだろう――と竜介は思い、彼が日可理から受けた黒珠の記憶の中にいる龍垓も、同じことを感じていたと気づいて、妙な親しみを覚えた。


 術による肉体変成は凄まじい発光と発熱反応を引き起こす。

 術者本人にとっては数分にも感じられる変成だが、客観的な時間ではほんのコンマ一秒ほどの出来事だ。

 その一瞬で周囲には熱風とプラズマの嵐が発生、急激な気温の変化で空気中の水蒸気が霧を作る。

 視界の消失。

 しかし、彼が得た新たな「身体」には、物理的視界などもはや必要ない――今や森羅万象あらゆる超自然の力に自在にアクセスできるのだから。

 龍垓が変化した巨竜の凄絶な雷撃を受けても、静電気に触れたときのように感じるだけで、硬質な鱗はびくともしない。

 爪と牙が火花を散らし、欠けた鱗が弾け飛ぶ。

 鱗の下の皮膚が切り裂かれても、鈍い痛みがあるだけ。

 御珠からの力の供給のおかげで、その傷もたちまち消える。


 俺は今、不死身だ、と竜介は思った。


 身の内から湧き上がる超自然の力、それを振るい戦う高揚感、万能感、解放感。

 人だったときの自分が、ひどく矮小で弱々しく思われる。

 龍垓がこの術を「何度も使うべきではない」と考えていたのは、この感覚に慣れすぎてしまうことを恐れたのかもしれない。


 ぶつかり合う光と闇。


 紅子たちが今しも禁術を立ち上げようとしている法円めがけて、黒珠の二度目の雷撃が放たれ、それを防ごうとして黒い巨竜の前に立った竜介は、相手の左頬の黒鱗がわずかに裂け、赤黒く焼けただれたような傷が覗いていることに気づいた。

 彼がつけた傷――ではない。そうであれば、すぐに癒えてしまうはずだ。

 そのとき。

 凄まじい術圧が法円から同心円を描いて広がった。


 禁術が起動した。


 黒い巨竜の左頬の傷が見る間に広がり始め、黒曜石のような鱗が剥がれ落ちる。

 巨竜の咆哮に、世界が震える。


 その声は、苦痛の悲鳴か、それとも勝者への呪詛か――


 戦いが終わる予感の中、竜介は不意に虚無感に襲われた。

 百年後か、千年後かはわからない。

 けれど、いつか封印がほころびたとき、自分たちの子孫はまたこうして命のやり取りをするのだろうか。

 人ならざる力を持ち、口にはできない秘密を抱えたままで、また何百年も血を継いでいく……。

 この「呪いと祝福」から救われる日が、今すぐでなくていい、いつか来るようにと――彼は祈った。



※挿絵はAIにより生成しました。

2025年1月14日火曜日

紅蓮の禁呪154話「禁術始動・一」

 


 このままでは術は起動しない――


 理屈より先に、そんな直感が紅子の中に沸き起こったのは、五本の腰高の柱にそれぞれ御珠を召喚したあとのことだった。

 目の前の柱に彫刻された饕餮文が、炎珠の輝きに照らされて赤く浮き上がっているのを眺めながら、なぜだろう、と首をひねる。

 残り四つの柱もそれぞれ青、白、金、黒の御珠をその台座にいただいて、封禁術始動の準備は万端だ。

 紅子は進まない気分ながらも、禁術の法円を展開した。

 五つの宝珠の上にそれぞれ術を制御するための小法円が起動し、黒大理石に刻まれた幾何学模様が、薄闇の中、朱色に縁取られた黄金色に浮かび上がる。

 しかし。

 その模様の一部は欠けたり、エラーを示すように奇妙な瞬きを繰り返したりしていて、明らかに不完全な状態だ。

 それでようやく、このモヤモヤした気分の理由がわかった。


 この法円は、黒珠の伺候者でなければ使えないようになっている。


 黒珠は禁術のせいで他の四つの御珠の一族とは「違う」存在に――人ならざる「怪物」になってしまったために、法円も自分たち専用に調整したものでなければ使えない。

 なぜなら、体内の気の流れが違うから。

 先の黒珠による禁術が自壊したのも、黒珠とは気の流れの違う紅子を使って術を起動した無理が伺候者たちに負担を強いたのが大きな原因の一つだ。

 それはさておき。

 紅子は異常を示す法円を前に、素早く思考を巡らせた。

 彫り込まれた法円を無視して起動することはできる。

 法円は術を起動するための複雑な力の配分をスムーズにしたり補強したりするためのツールにすぎない。

 だが、禁術レベルの大がかりな術となると、話は違う。

 事前に準備された法円があれば、伺候者と術者(紅子自身のことだ)の負担はぐっと軽くなる。

 だからこそ、黒珠もこの一枚岩を用意したのだろう。が――

 紅子は「壁」を守っている鷹彦の背中に、その外にいる泰蔵に、そして黄金の雷槌をまとい青く輝く巨竜に、視線を走らせた。


 時間がない。


 調整すれば、黒大理石に刻まれた法円を利用して、より負担の軽い起動はできるだろう。

 けれどそれには圧倒的に時間が足りなかった。

 たとえ負担が重くとも、床の法円を頼らず、一から術を起動するしかない。

 そう決意し、紅子は赤く揺れ動く宝珠に視線を戻した。

 自分がもう一人いれば可能かもしれない――

 ありえないことをふと思った、そのとき。


「紅子さま」


 日可理の声がした。

 見ると、いつの間に来ていたのか、彼女はすぐそばに、炎珠を挟んで真向かいに立っていた。

「少々失礼いたします」

 日可理は驚く紅子をよそに、自分の炎珠の上に手をかざすと、小さな法円を出した。

 補助法円、という言葉が紅子の脳裏に閃く。

 日可理は、法円の調整を手伝ってくれようとしている。

 紅子は頭の片隅に小さな引っ掛かりを感じながらも、急いで自分の制御法円に向き直った。

 二人の指先が、二つの法円の上を素早く走り、黒大理石の法円がそれに合わせて目まぐるしく輝きを変えていく。

 明滅して異常を訴える幾何学模様が、次から次へと術を起動するのに適確な状態になっていく。


 なぜ日可理は、初見とは思えない速さで法円の調整を手伝えるのか?


 そのとき、竜介と龍垓の力がぶつかり合う轟音で、足元が大きく揺れた。

 ほんの一瞬、辺りが真昼の明るさになる。

 紅子は自分の頭脳が、その閃光と同じくらい凄まじい速さで回転するのを感じていた。

 答えはわかっている。だが。


「日可理さん、一つだけ訊いていいですか」


 紅子は言った。


「紺野家の結界が消えたとき、どうして結界石のところにいたんですか?」


 炎珠の向こう側で法円を操作する日可理の肩が、一瞬、震えたように見えた。

 しかし、彼女は視線を法円に固定したまま、答えた。


「紺野家の結界を壊したのが、わたくしだからです」


 疑問のパズルのピースが埋まった。

 だが、その音は紅子の胸に冷たく響いた。

 炎珠の輝きの中に浮かぶ日可理の顔が今や蝋のように白いのも、おそらく寒さのためだけではないだろう。

 沈黙に促されるように、日可理は言葉を繋いだ。


 白鷺の屋敷で迦陵と対峙したとき、体内に小さな怪魚を入れられ、迦陵の手駒となったこと。

 体内の黒珠のせいで紺野家の結界内に入れない彼女は涼音を唆(そそのか)し、結界を無効にする呪符を貼らせたこと。

 そして。


 竜介の体内にも同じ怪魚を植え付けようとして失敗したこと――


 紅子は結界が消えたあの夜、結界石のそばで見た光景を思い出し、肩にかけられた竜介の上着を我知らず強く握りしめた。

「碧珠では忘れられていた雷迎術を、竜介が今こうして使っているのは、黒珠の法円を応用したんですね」

 紅子の言葉に、日可理がうなずく。

「わたくしは、迦陵を通じて黒珠の記憶を共有しましたから。でも、文書が見つからなければ雷迎術もこの禁術も、調整できなかったと思います」

 黒珠が禁術を発動するその前日というぎりぎりのタイミングで見つかった光明は、雷迎術の法円について大まかにだが記された紺野家の文書と、黒珠の法円と他の御珠の一族が使う法円との違いについて書かれた白鷺家の文書を発見したことだった。

「あの、どうか誤解なさらないでくださいませ」

 日可理はほんの一瞬、法円から目を上げて紅子を見た。

「雷迎術の調整をお手伝いしましたが、わたくし、竜介さまとは電話や式鬼を通してしかお話しておりません」

 その生真面目な白い顔に、紅子は頬を緩める。


 日可理が迦陵に操られていなければ、紺野家の結界が破られることはなかっただろう。

 けれど、そうなると紅子が黒珠から魂縒を受ける機会は失われ、四つの御珠の力だけで禁術を起動することになっただろうし、竜介が雷迎術を会得して龍垓と互角に戦うことも難しくなったに違いない。


 なんと数奇なことだろう。


 紅子が口を開きかけると、日可理も法円から顔を上げ、何かを言おうとした。

 二人の視線が重なる。

 けれど、彼女らが交わそうとした言葉は永遠に失われた。

 なぜならそのとき、再び凄まじい閃光が周囲を照らし、轟音が彼らの立つ黒大理石の円形舞台を揺るがしたからだ。

 鷹彦が悲鳴のような声で叫んだ。


「次で限界――!!」


 日可理はその声に、手を一振りして補助法円を閉じた。

 紅子の制御法円にはまだ一つだけ、明滅している記号がある。

 禁術を始動するための、最後の記号。

 調整が終わったのだ。

「では、わたくしはこれで」

 日可理は口元に小さな笑みを浮かべ、会釈すると自分の持ち場に――黒珠の待つ円柱に戻って行った。


 足元に広がる巨大な法円は黒大理石の上で朱と黄金に輝き、この冷たい薄明の世界を温めるかのようだった。

 紅子は最後の明滅する記号に触れた。

 凄まじい術圧。だが。


 恐れるものは、もう何もない――


 肩にかけられた温もりが、そう告げていた。

2024年12月31日火曜日

紫のあとがき


毎度拙ブログをご覧いただきありがとうございます。

あとがき、などとタイトルにはありますが、有り体にいえば初めてミステリーを書いてみた感想でございます。

『紫の研究』のタイトルは、言わずと知れたコナン・ドイル大先生の超絶ウルトラ有名なシャーロック・ホームズシリーズ『緋色の研究』にちなんでおります。

ただし、中身については、前後編で10分くらいで読み終えることができ、年末に読んでなるべくモヤッとしない、犯罪とまでは言えないような小さな事件にしたいなぁと思ったので、北村薫先生の「円紫さんとわたし」シリーズのようなものをずっと念頭においていました。

ご存じない方は『空飛ぶ馬』とか超おすすめです。

あと参考にさせていただいたのは、いわゆる「アホバカミステリー」と呼ばれている(らしい)蘇部健一先生の『六枚のとんかつ』。

これもおすすめ。物語のテンポとかオチの付け方とか、とても参考になりました。

なにしろ短編なので、登場人物は最小限、人間関係もなるべくシンプルにしたい。でもミステリーなので話に意外性もほしい。

それで私の頭に一番最初に浮かんだのが、冒頭の一文、

「仮装パーティーにメイドの衣装で参加したら、本物のメイドに間違えられた」

でした。

「え、そんなことある?」

私もそう思います笑

てゆーか、ないだろ現実にそんなこと。それならどうしたらありうるのか?と思ったのがきっかけ。

アイデアは出てくるけど、それを全部入れてたら短編にはなりません。

そこで紙にキャラ設定と相関図、話の展開について思いついたことを片っ端から書いていき、いらない部分はバッサリ削ぎ落とすということを繰り返しました。

ちょっとボンヤリして流されやすい主人公のキャラは変わらずでしたが、雅緋と紫音はほぼ真逆といっていいほどキャラが変わりました。

雅緋は最初の設定では宝石商で働くチャラい彼氏がいる羽振りの良いキラキラ系女子で、紫音にいたってはごく普通の美女でした。

それが、雅緋は妹の進学費用を稼ぐために会社勤めだけでなく週末バイトまでする健気なお姉さん、紫音は紫ドレスのマッチョ。

雅緋は話を書いていくうち余計なキャラを出さないようにしたら自然とそうなりました。

紫音は、最初の登場シーンが、普通に女性だとあまりインパクトなさすぎたので…

形部係長(紫音の兄)出す必要なかったんじゃね?とも思いましたが、紫音がどうやってパーティーチケットを入手したのかと考えたとき、兄が会社で(おそらく雅緋から)もらったチケットを使ったとするのが妥当かな~と思うので、出演は妥当だったのだと思っています。

これは本編のどこかにちらっと書いておけばよかったな。反省。

CBDについては、最近法律が変わったというニュースが報道されたりしたので、ご存知の方もいらっしゃるでしょう。

海外ではすでに医薬品として認められた製品もあるようなので、日本でも今後、輸入が増えたり、研究が進んで国内で精製された製品が出回ることを見越しての法律改正なのかなと思ったりしました。

さて、紫音が雅緋から買った小箱は、果たして適法なCBD製品だったのか、それとももっとグレー、あるいはアウトな製品だったのでしょうか。

そして、彼の「クライアント」はいったい誰だったのか。

すべての謎を解いてしまうと面白くないので、読者の皆様に自分で考えていただくために残しておきました。

どうぞご自分なりの答え探しを楽しんでみてくださいね。

では、どうぞよいお年を!

2024年12月30日月曜日

紫の研究(後編)

 


 なんだか妙な展開になってきたぞ。


 ホテルの廊下を歩きながら、私は思った。

 私の前には、パーティー会場で声をかけてきた黒服と、形部兄弟の背中が並んでいる。

 分厚い絨毯が全員の足音を吸い込んでしまう。

 パーティー会場とは対象的な静かさだ。

 先頭を歩いていた黒服は、「第一会議室」という札がかかった観音開きの大きな扉の前で立ち止まると、ノックした。

 中から扉が開くと、黒服は私たち三人を先に通してから、扉を閉じる。


「パープル・ヘイズ、ある?」


 私も何度かパーティー会場でそう訊かれた。

 私はもちろんわからない。だから他のスタッフに繋ごうとすると、タイミングよく宝石商の黒服の一人が現れて、客たちを連れて行く。

 そんなわけで、私はてっきり宝飾品のブランド名か何かだと思っていた。

 ところが、私たちが連れて行かれた部屋には、宝飾品のたぐいはまったく見当たらなかった。

 部屋の片側には、壁に沿って簡素な長机が置かれ、電気湯沸かしポットが数台と、未使用らしく伏せて置かれているティーカップとソーサーが数セット。

 さらにその奥には、いろいろな大きさの化粧箱と、サンプルと書かれた小瓶が並んでいる。

 落ち着いた紫色の化粧箱の天面には、

 「Purple Haze」

 という金文字が並んでいて、パーティー会場の半分くらいの広さのこの部屋では、それだけが唯一華やかな雰囲気をまとっていた。

 長机の反対側は、通路を挟んで小さな丸テーブルが十五個ばかりと、それぞれにソファが二脚ずつ、やや詰め込み気味な距離感で並べられている。

 白いカバーのかかった卓上には、飾り気のない白いティーポットと、同じく白いソーサー付きティーカップだけ。

 席に着いているのが全員、仮装パーティーの客なので、ごてごてした格好と簡素なテーブルセットのコントラストがなんとも珍妙だ。

 さらにいうと、テーブルはほぼ満席状態だが、一人客が多いせいか、全員がおしゃべりもほとんどせずただしずしずとお茶を飲んでいるだけなのも、なんだか異質な気がした。


 茶菓子のないお茶会?


 などと思っている私の横で、形部兄弟が謎の目配せを交わした、そのとき。


「えっ、ちょっとなんで連れて来ちゃうの」


 すぐそばで聞き覚えのある声が言った。

 それは誰あろう、私をこのパーティーに連れてきた同僚、堀道雅緋(ほりみちみやび)の声だった。

 私と同じメイド服だが、パーティーの客であることを示すオレンジのリボンを外している。

 会場で見当たらなかったはずだ。こんな別室にいたとは。

 私は少し腹が立った。席を外すなら事前にそう言えばいいのに。


「堀道さん。私、はぐれたと思って探してたんだけど」


 そう咎め立てると、なぜか室内にいた全員が――形部兄弟も含めて――何かいわくありげにこちらを振り向き、名指しされた当人はぎょっとした様子であたふたと周りを見ながら、唇の前に人差し指を立てて小声で言った。

「ちょっ、ここで名前呼びはやめて」

 私が口を開こうとするのを片手で制し、彼女は私たちを連れてきた黒服に、


「このリボン着けてるメイドはこっちに来させないでって言ったでしょう」


 すると、きつい口調で叱られた黒服はしどろもどろ。

「え、でも……連れだっていうから……」

 雅緋は大げさにため息をつき、何か彼に言おうとしたのだが、


「そろそろ失礼するよ」


 恰幅の良い海賊船長が雅緋に声をかけてきた。

 雅緋は慌てて居住まいを正して本日はお越しいただきまして、などなど長々と謝礼の意を述べ、

「会場にお戻りですか?」

 と尋ねた。

 だが、相手が帰ると言うので、彼女は

「承知いたしました」

 と答えてから、件の黒服くんに命じた。

「玄関までお送りしてください」

 黒服は雅緋に小声で、すみません、と謝ると、海賊船長を案内して部屋を出て行った。

 扉が閉まるのを見届けてから、彼女は私たちに――というか、形部兄弟に向き直り、

「大変失礼いたしました。ご試飲ですね」

 と、たった今、空いたばかりのテーブルに私たちを誘導しようとする。

 が、紫音はそれを制して言った。

「それより、」

 一段と声をひそめて続ける。


「ヘイズがほしいんだけど」


 すると、雅緋は再び、承知いたしました、とかしこまると、私と形部兄をとりあえず椅子に座らせてから、紫音と二人、紫の小箱が並ぶ長机のほうへ移動した。

 彼らはそこで顔をくっつけるようにしてひそひそ話をしていたと思うと、わりとすぐに戻ってきた。

 紫音はにっこりして私に言った。


「私たちこれで帰るけど、あなたどうする?」


 私が雅緋を見ると、彼女はどうぞ、というように頷いたので、お言葉に甘えて帰ることにする。

 雅緋は室内にいた他の黒服を呼んで、私たちをホテルの玄関ホールまで送るように指示した。

 クロークで手荷物や上着を受け取ったあと、私がスマホを出して自宅までの経路を検索しようとしたとき、車で近くの駅まで送ろうと形部兄が申し出てくれたので、ありがたく受けることにする。


 言っておくが、いくら流されやすい私とて知らない男の車にほいほい乗ったりはしない。あくまでも彼が同じ会社に勤める上司だからだ。


 しかしまあ本音を言えば、これで立食式で疲れた脚を休ませられると内心嬉しかったことは否めない。


 地下駐車場へ向かうエレベーターに乗り込み人目がなくなると、誰からともなくマスクをはずして互いの顔を確認し合う形になった。

「あーもう、やっとスッキリした。このマスク、やたら目の周りがムレない?」

 そんな文句を言いながらバッグからコンパクトを出し化粧を直す紫音は、隣に立つ係長とよく似た整った顔立ちで、二人に血縁があることは確かなようだ。

 彼に習って、私もメイク崩れをチェックしていたところ、エレベーターが止まった。

 高級車がずらりと並ぶ薄暗い地下駐車場の中、彼らが私に「どうぞ」とドアを開けてくれたのは、国産メーカー製でありふれた中型の白いフォードアセダンだった。

 彼らは紳士的に私に後部座席を勧めてくれ、兄は運転席、弟は助手席におさまる。

「都鶏(つげ)くんは〇〇駅まで送ればいいんだな」

 車をスタートさせながらそう確認する係長に、私は「お願いします」と返す。

 と、紫音が何か思い出したようにシートベルトを締める手を止めて、


「そうそう、これ渡しておくわ」


 身体をねじって私のほうに小さなカードを渡してきた。

「車の中でごめんなさい。ホテルだと人目が気になっちゃって」

 それは彼の名刺だった。

 西蓮寺紫音という彼の通称名と、「サイレン探偵事務所所長」という肩書、そして紫色のロゴマークは、魚のヒレのような飾りをつけた中世風の兜をかぶる女性の横顔が単純化されて描かれていた。

 車が地上へ出た。

 空はもう暗かったけれど、クリスマスイルミネーションのおかげで道路は昼間なみに明るい。

「探偵さんだったんですね」

 私が話しかけると、紫音は肩越しに、

「便利屋みたいなものよ。浮気調査からペットの捜索まで色々やってるから、困ったことがあったらお気軽に相談してね」

 と、ウインクをよこした。

 私は言った。

「訊いていいですか?」

「いいわよ」

 紫音は前を向いたまま答える。

「ただし、守秘義務があるから、私が答えられるかどうかは質問によるけど」

「あのパーティーで、私、パープル・ヘイズはあるかってしょっちゅう訊かれましたけど、パープル・ヘイズって何ですか?」

「あのパーティーを主催してる宝石店が、副業的に売ってるお茶のブランド名」

「ただのお茶をなんでコソコソ隠れるようにして別室で飲むんですか」

 彼は軽い口調で答えた。


「大麻茶だからよ」


 た、大麻!?

「あの、麻薬の大麻ですか!?」

「まあ世間的にはそういう認識よね~」

 苦笑交じりにそう言って、紫音は大麻から取れる薬効成分には大きく二つあって、そのうちのCBD(カンナビジオール)と呼ばれる成分は中毒性がなく、最近は抗うつ作用や鎮痛作用などを期待してハーブティーやアロマオイルにCBDを添加したものが合法的に売られているのだと説明してくれた。

「つまり、あの部屋で売られてたパープル・ヘイズはそういうお茶ってわけ。でも、やっぱりイメージがよくないから、別室でああやって売ってるんでしょうね」

 

「じゃあ、紫音さんが買った”ヘイズ”もそういうCBD入りのお茶なんですか?」


 一瞬の沈黙。

 あれ、私なんかまずいこと訊いた?

「目がいいのね」

 本気で感心しているのか、それとも皮肉なのか、よくわからないため息とともに彼は言った。

「見る?」

 私が何も言わないうちに、彼は紫の小箱を肩越しに投げてよこした。

 タバコの箱くらいのサイズだが、意外に重い。

 中身は圧縮して売られている中国茶みたいな感じなのだろうか。

 「HAZE」と金文字で書かれた瀟洒なラベルのほかは、中身の見当がつきそうなものは何もなかった。

「中身は私も知らないの」

 紫音が言った。


「ただの高級なお茶なのかもしれないし、それとも他の何かかもしれない。私がクライアントに頼まれたのは、ただあのパーティーで”ヘイズ”を手に入れてきてほしい、それだけ」


 それって……。

 私が口を開こうとしたそのとき、係長が言った。

「都鶏くん、着いたぞ」

 私は紫音に小箱を返すと、お礼を言って車を降りた。

 すると、紫音が助手席の窓を開けてにっこり手を振りながら、言った。

「またね」



 あれだけさんざ飲み食いしたのに、不思議なことには家に帰って風呂に入ると小腹が空いた。

 私は冷蔵庫からダイエットコーラと魚肉ソーセージを出して、コタツに入った。

 ギョニソはパッケージのフィルムを破ってそのままかぶりつくのが一番美味いというのが私の持論だ。

 ダイエットコーラはあまり好きではないが、罪悪感と美味とを秤にかけた結果である。

 そうして食べ慣れたものを味わいながら、なんやかんやあった今日を思い返すうち、だんだん腑に落ちてきたことがあった。


 あの場所での私の奇妙な存在意義。

 メイドの格好なのにメイドじゃない。

 知り合いじゃなくても話しかけることができる。

 目立つようで目立たないオレンジのリボンと、衣装。

 全部に何かの意味があったのだ。

 でもそれは、雅緋本人に確かめればいい。

 私はそう思いながら、ハンガーラックにかけた彼女からの借り物の衣装を眺めていた。



 一週間ほどして、私はメイド服を紙袋に入れて、堀道雅緋の机まで持って行った。

「堀道さん、これ、クリーニングしといたから」

 雅緋は紙袋を受け取ると、中身を確認して、

「うん。わざわざありがとうね」

 それからこう続けた。

「都鶏さん、今、時間ある?」


 私たちは打ち合わせ用の小ブースに移動した。

「パーティー、誘ってくれてありがとう。一応お礼を言っておくわ。料理おいしかったし、めったにない体験もできたし」

 雅緋は私の言葉を無視して尋ねた。

「あの紫ドレスの男と知り合い?」

「知り合いなわけないでしょう。勝手に連れってことにされただけよ」

 半分本当、半分嘘。全部真実を伝えようとするとややこしくなるから。

 雅緋の顔があからさまに安堵するのを見て、私は複雑な気分になった。

 ホッとするのはまだ早いよ、悪いけど。

 私は一番尋ねたかった質問を口にした。


「私、あのパーティーでは、パープル・ヘイズを売ってるって客に知らせる役だったのよね?」


 私が、というかリボンをつけたメイドがいれば、「パープル・ヘイズ販売中」、いなければ「今は売ってない」。

 そしてホテル側には知られないように、パープル・ヘイズを買いたい常連客と、黒服とをつなぐ役。

 私に話しかける客がいると、必ず黒服がフォローに寄ってきたのはそのため。

 仮装パーティーで紛らわしい、目立つようで目立たないメイド服は、一種のカモフラージュだ。

 そして肩で揺れるオレンジのリボンは、常連客にはよく見知った目印。

 おそらく彼ら宛の招待状には、「いつもの御品をご希望の際は、肩にオレンジのリボンをつけたメイドにお申し付けください」とでも書いてあるのだろう。


 雅緋の口元が、きゅっと引き締まる。

 どう申し開きをしたものか、言葉を探しているのだろう。

 しばしの沈黙のあと、彼女は言った。

「怪しいことをしてるわけじゃないわ。ただ、イメージ的にホテル側がいやがるから。いつもは、妹に頼んでるんだけど、もうすぐ受験だから、勉強を優先させてやりたくて……」

「背格好が似てたのね、私と」

 彼女は小さくうなずいて、手元に視線を落とした。

「黙っててごめんなさい。事前に言ったら断られると思ったから」

 それは誰でも断るだろう。と思ったけど口には出さない。

 雅緋は続けた。

「妹の進学費用のために土日だけあの宝石店でバイトしてるの。パーティーの手伝いもその延長で……あの、勝手なお願いだけど、会社の人には言わないでくれる?」

 私は口外しないことを約束し、妹さんの大学合格を願っていると言って、お互い仕事に戻ったのだった。


 ところで、例の強烈な弟を持つ形部係長だが、奇しくもこの日の終業後、一階に降りるエレベーターでばったり会った。

 彼が深刻な顔で

「ちょっと話がある」

 と言うのでついていくと、彼は会社のロビーでコーヒーを奢ってくれた。

 さすが上司、雅緋よりサービスがいい。

 で、彼の話はなにかと聞いてみれば、弟のことを口外しないでほしいという、それだけのことだった。

 一日に二度も他人から秘密を口外してくれるなと懇願されたのは、四半世紀生きてきて初めてだ。記念日認定せねば。


「言いませんよ、誰にも」


 そうこともなげに答えると、いつもスンとしている彼の顔いっぱいに、安堵と喜びの表情が現れて、私はびっくりした。喜色満面のお手本みたいな顔。

「ありがとう。すまない。恩に着る」

 私の手を取って振り回しそうになる彼を制して、いやいやいや、と私は頭を振った。

「今はそういうのをアウティングって言って、セクハラと同じくらい嫌われるんですよ。別に恩に着ていただくほどのことじゃないですって」

 これで仕事で何かミスったときはフォローしてもらえるかもしれない。



 年末が慌ただしく過ぎて年が明けた頃、例の宝石店主催のパーティーが中止になったという噂が流れてきた。

 宝石店は業務縮小となり、雅緋が土日のバイトがなくなったとぼやいていたので、私は彼女にロビーのコーヒーを奢ってやった。

(完)

※挿絵はAIにより作成しました。

※この物語はフィクションです。

紫の研究(前編)

 



 会社の同僚に誘われて、クリスマスの仮装パーティーにメイド服で参加したら、本物のメイドに間違われた。


「ちょっとそこのあなた、このお皿、下げて」

「君、新しいシャンパン持ってきてくれ」


 有名シェフ監修の料理が食べ放題というだけあって、大盛況のパーティーだ。

 ホテルの宴会場が人で埋まっている。

 場内には宝飾類の展示即売会が併設されていて、どうやらお手頃価格のおいしいランチで客を集めて、シャンパンだのワインだので気が大きくなったところで衝動買いしてもらおう、というのが業者側の魂胆らしい。

 商品はすべてガラスケースにおさまっており、立食形式なので客は飲み食いしながら自由に見て回れるようになっている。

 商談したい場合はひとまず飲食物を置いて別室へ通されるシステムらしく、宝石店のスタッフらしい黒スーツに連れられて行く客をちらほら見かけた。


 が、私のような薄給の会社員には縁のない話であるのでそれはどうでもいい。


 問題は、料理や飲み物に気を取られているうちに、そばにいたはずの同僚がいつの間にかいなくなっていたことだ。


 スマホは持ち込み禁止と受付で言われてコートと一緒にクロークに預けたため、連絡手段はない。

 そのうち飲み食いにも飽きてくる。

 仕方ないので壁際に突っ立っていたら、何だか用事を言いつけられまくり始めた。

 これは本物のメイドに間違われているんだなと気づいたけど、いちいち否定するのも面倒なので、言われるまま黙ってグラスや皿を片付けたり、新しいシャンパングラスを運んだり、何か尋ねてくる客を他のスタッフにつなげたり。飽きたら帰ろう、などと思いつつ動いていた。


 子供の頃から、周囲に流されるタイプとよく言われる。


 ちなみに仮装といってもさほど気合いの入った参加者はいない。

 女性はたいてい魔女っぽかったり、某有名テーマパークのプリンセスみたいなドレス。

 男性はスーツにマントを巻いた簡易ドラキュラ伯爵とか、チンピラみたいな海賊とか。

 そして全員、招待状と一緒に送られてきたマスクを着けている。

 目の周りだけ隠すデザインで、色はシンプルな黒。

 私は子供の頃見た某動物アニメを思い出した。

 なんだっけ、怪傑ゾロr……とかいうやつ。


 このパーティーには、一緒に来た同僚の他にも私と同じ会社の人間が何人か参加しているらしいのだが、マスク(と衣装)のせいで誰が誰だかさっぱりわからない。

 来る途中で同僚から得た情報では、参加者の中には、私が苦手な形部(かたべ)係長もいるらしい。


 社内でも有名な、カタブツ形部。


 たしかに仕事はできる。

 頭のキレる人だと思う。

 でも、周囲に厳しくて、誰かが冗談を言っても、いつもスン……と真顔。

 メガネハンサムというのだろうか、容姿はまあまあだし昇進の噂もあるので、狙ってる女子社員がいるらしいけど、浮いた噂も聞かない。

 いつも定時帰り、飲み会も参加しない。

 そのせいかどうか、うちの部署では全員参加の飲み会というものはいつしかなくなってしまった。


 ま、お酒が苦手な私には、ありがたいことではある。


 さて、そんなこんなではぐれた同僚を目で探しながら、言われるままあちらで空いた皿を下げ、こちらでグラスにシャンパンを足し、などなど、もはや本物のメイドとして時給をもらってもいいんじゃないかと思えるくらい動いていたら、さすがに小腹が空いてきた。

 客なんだから遠慮はいらぬとばかり、料理を小皿に取って食べていると、少し年かさの魔女が私に言った。

「あなた、食事なら控室でお取りなさいな。お客の料理をつまむなんて、怒られるわよ」

 パーティー参加者は全員、肩の目立つところにオレンジ色のリボンをつけている。

 私ももちろんつけているのだが、どうやらリボンは彼女の目に入っていないらしい。

 どう返答したものか、私が曖昧に

「はあ……」

 と答えると、魔女は気分を害した様子で、さらに何か言おうと口を開いた。

 と、そのとき。


「彼女はパーティーの参加者ですよ」


 男性の声が言った。

 振り返ると、メガネをかけたインテリヤクザみたいな海賊がいた。

 なんとなく見覚えのあるフレームなしメガネ。

「肩にリボンがあるでしょう」

 そう言われた魔女は私の肩を改めて見て、

「あ、あらほんと!ごめんなさい、あなたが紛らわしい格好しているものだから……」

 などと、ちょっとバツが悪そうに笑いながらそそくさと立ち去って行った。

「ありがとうございます」

 助けてもらったので礼を言うと、

「君ももう少しはっきりと、自分はお客ですと主張したまえ」

 お小言を頂戴した。


 この声、口調、どこかで……?


「あの、もしかして」

 形部係長ですか、と言いかけたそのとき、


「ミナト!」


 という声がして、なんだかキラキラしたものがこちらへ近づいてくるのが見えた。

 肩より上で切りそろえた真っ直ぐな黒髪の耳元に大ぶりのイヤリング。

 アングルカットの前髪がおしゃれだ。

 キラキラして見えるのは、着ている紫のドレスに散りばめられたラメのせいだろう。

 だけど。


 紫色のドレスを着た……女?


 いや、違う。

 身体の線がばっちり出るドレスの胸元を押し上げているのは、どう見ても大胸筋だった。

 身長は、190センチ近くあるだろうか。

 ノースリーブの肩に盛り上がる上腕二頭筋と、長いスカートの前部分に開いた大きなスリットから歩くたび見え隠れする立派な下腿三頭筋。

 ちなみに腕も脚もツルツルだ。

 目元がマスクで覆われているため、詳しい顔立ちはわからないけれど、がっしりした鼻筋と顎、そして極めつけは喉仏だった。


 間違いなく男だ。とりあえず、見た目は。


 何の仮装なのか、そもそも仮装なのかどうかすらわからないが、彼(というべきだろう、たぶん)のドレスが照明を浴びて放つ輝きのみならず、その全身から漂う迫力に気押されたのだろう、彼の進行方向に沿って人垣が左右に分かれる様は、見ていて壮観だった。

 紅海を渡るモーセもかくや。

 彼は形部係長らしき人物につかつかと歩み寄ると、


「あんた、今日は一応アタシのエスコート役なんだから、勝手にどこか行っちゃうのやめてよね」


 と、子どもに注意するような口調で言ってから、こちらを見た。

 ほんの一瞬、私の肩のリボンに視線を止めてから、にっこり。小さい子供が見たら泣くんじゃないか。

「こんにちは」

 紫ドレス男は私に向かって言った。

「かわいいメイド服ね。自前なの?」

「いえ、会社の同僚から借りたんです」

 私は正直に答えた。

「このパーティーもその人と一緒に来てたんですが、はぐれちゃって」


 私は彼ら二人の関係性が気になりすぎて、思わず尋ねた。


「お二人は、お友達どうしですか?」

「いいえ、兄弟なのよ」

「アキラ!」

 紫ドレス男が即答する横で、係長らしき人物が慌てて遮ったが、もう遅い。

「大きな声出さないでよ、みっともない」

 アキラという名前らしい紫男は憮然として言った。

「あとその名前で呼ばないで。私はシオンよ、シ・オ・ン」

 噛んで含めるようにそう言われて、係長らしき男、ミナトは苦い顔になり、何やらブツブツ言いながら引き下がる。


 私は俄然この二人に興味が湧いてしまった。


 あのカタブツ形部にこんな強烈な兄弟がいる(かもしれない)のだ。面白すぎる。

 私はなんとかして(主にインテリ海賊が係長だという確証を掴むために)彼らともう少し話をしたいと思ったのだが、どういうわけか紫男のほうも私に興味津々らしく、幸いにもというべきか、我々の会話は続いた。


「このパーティーには何度かいらしてるんですか?」

 と私が尋ねると、

「いいえ、初めてなのよ。ずいぶん盛況なのね」

 あなたは?と訊かれて、私は自分もこのパーティーは初めてだと答えた。

「訊いてもいいかしら?はぐれた同僚の方って、男性?」

 私は頭を振った。

「女性です。私と同年くらいの」

「親しいの?」

 私は再度、頭を振る。

「全然。彼女がビュッフェパーティーのチケットが余ってるから行かないかって言うから来ただけです」

 すると、今まで仏頂面で黙り込んでいた係長(仮)がぼそっと言った。

「親しくない相手と一緒にメシを食ってもうまくなかろう」

「うまいまずいの問題じゃありませんよ」

 私はちょっとムッとして言い返す。

「おごりで、しかもビュッフェなら、二食分くらい余裕で食費が浮くじゃないですか。ま、都会で一人暮らしする私みたいな貧乏社畜の気持ちなんて、懐に余裕のある形部係長にはご理解いただけないでしょうけれど」


 沈黙。


 ……あれ?私、今、「形部係長」って言っちゃった……?


 相手の顔色をうかがうと、係長(仮)と目が合った。

 彼は、この世の終わりみたいな真っ青な顔で私を見ていた。


 結論。


 私が係長(仮)と心で呼んでいた男は、本当に形部係長こと形部湊(みなと)だった。

 一緒にいる紫ドレス男は彼の弟、形部洸(あきら)。

 紫男と私が互いに自己紹介しているあいだも、係長はずっと渋い顔を崩さなかった。

 よほどこのエキセントリックな兄弟のことを会社の人間に知られたくなかったのだろう。

 形部弟は、自分を西蓮寺紫音(さいれんじしおん)と呼べと言った。

 西蓮寺は母方の名字らしいが、なぜそんな通称名を名乗っているのかについては、聞きそびれた。

 宝石商の黒服が、私たち――というよりは形部兄弟に声をかけてきたからだ。


「お客様、よろしければ商品をご覧になりませんか」

 インプラントでもしてるのかと思うほど白い歯が眩しい。

「ご希望の商品のお取り寄せもできますよ」


 すると、形部弟が言った。

「ありがとう。じゃあ、パープル・ヘイズはあるかしら」


後編はこちら

2024年12月8日日曜日

紅蓮の禁呪153話「竜と龍・十」

 


 法円を守る「壁」が復活した、まさにそのとき。

 漆黒の巨竜が再び天に向かって吠えた。

 竜の背びれは今や不気味な輝きに満ち、魚じみた青白い棘子の連なりを薄闇にくっきりと浮かび上がらせている。

 棘子の先端から激しい火花が散った、次の瞬間。

 先と同じ、凄まじい稲妻が、薄明の空を青白く照らした。


 それは本当に一瞬の出来事で、誰も再度の雷撃を覚悟する暇さえなかった。

 地鳴りのように辺りを震撼させて、耳を聾する雷鳴がとどろく。


 だが――


 龍垓の雷撃が「壁」を直撃することはなかった。


 なぜなら。


 突然、まばゆいほどの青い光と金色の稲妻が、闇を纏った青白い雷撃を弾いたからだ。

 目も眩む光が収まったあと、そこにいたのは、もう一体の巨竜。


 紺碧に輝く鱗を持ち、黄金のたてがみと雷槌をまとったそれは、薄墨の世界を鮮やかに切り裂く、一筋の青い光だった。


 己の前に立ちはだかる紺碧の竜に、黒珠の巨竜はしかし、怯むことすらなかった。


 むしろ己より一回り小さな相手を嘲笑うかのように鼻から青白い鬼火を吐くや否や、その牙を剥いて襲いかかり――


 二頭の巨竜による死闘が始まった。


 その姿はあたかも薄明の空に出現した光と闇の巨大な二重らせんのようで、青白い稲妻と黄金の稲妻が交錯し、ぶつかり合う。

 その断続的な咆哮と雷鳴は、この薄明の世界のみならず、地上に広がる無人の首都のビル群をも震わせた。


 一方。

 迦陵の相手を続けている泰蔵は、この世の超自然の力すべてをその身に集めて戦う弟子を視界の端で捉えては、面映ゆいような気分を味わっていた。


 まったくお前は大した弟子だよ――


 そう苦笑したそのとき、「引き伸ばしていた」時間が終わり、死神の鎌が目の前をかすめた。

 泰蔵は一人ではなく、二体の式鬼を伴っている上に、二秒間だけとはいえ、一秒を五倍に引き伸ばして行動できる。

 あの迦陵といえど、禁術の起動まで抑えておくなど造作もないはず――そう思われた。


 ところが驚くべきことに、迦陵は彼らとほぼ対等の動きを見せた。


 戦うほど、迦陵の纏う黒衣に、顔に、細かな裂傷が増えていく。

 けれど、少なくとも、二度と胴体から首が離れるような失態を犯すことはない。

 泰蔵たちが時間を「引き伸ばして」いるとき、迦陵はひたすら防御に徹した。

 普通の人間なら見極めようのない彼らの動きを、この黒珠の死神は恐るべき動体視力でもって見抜き、その攻撃を紙一重で躱したのである。


 そして二秒後、彼らが通常時間に戻るタイミングを狙い、一撃必殺の攻撃を仕掛けてくる。


 その手堅い戦法に、泰蔵は敵ながら舌を巻いた。

 と同時に、このまま戦いが長引き、疲れて万が一にもミスをしたら――といういやな想像が脳裏をよぎった。

 気を抜けば、今度はこちらの首が、胴体から離れることになるだろう。


 かてて加えて、巨竜たちの足元というこの場所もまた、泰蔵の神経をすり減らす原因だった。

 巨竜たちの姿は実体ではないから、踏み潰されることはない。


 とはいえ、もしも雷撃の巻き添えを食らえば、最悪、死が待っている。


 無論それは泰蔵に限った話で、迦陵には関係がない。

 たとえ直撃を受けて黒焦げになっても、この黒珠の死神は時間さえ許せば復活するだろう。

 実際のところ、泰蔵や式鬼たちによってつけられた迦陵の傷が、驚くほどの速さで元通りになっていくことに、泰蔵は気がついていた。


 黒珠の力が増している。


 そんな確信に、泰蔵はいやな汗が背を伝うのを感じた。

 力を禁術の起動に割く必要がなくなったおかげで、龍垓と迦陵に直接その力が注がれるようになったのだろう。


 この老体が保つ間に、術を起動してくれよ――


 圧倒的な力の気配を放つ龍垓と戦っている竜介のためにも、泰蔵はそう祈らずにはいられなかった。


 

 さて、少し時間を戻そう。

 竜介と泰蔵が法円の外に出て、鷹彦が「壁」を復活させた直後、黄根は紅子に向き直ると、


「紅子」


 と、改まった口調で、しかしてきぱきと言った。


「お前はこれから重大な決断を迫られるだろう。お前はすべてを終わらせねばならない」

 彼は「すべて」という言葉に力を込めた。


「怪物を永遠に葬るため、お前が最善だと思う道を選べ――己の心に従って」


 そうして、彼女の目の前の柱の上で輝いていた黄珠の上に手を一振りしてそれを消すと、彼は紅子の返事を待たずに、くるりと踵を返して法円の辺縁に建つ柱のうち一つへと遠ざかって行った。


 見回すと、他の三本の柱の傍にはすでに玄蔵と白鷺家の二人がそれぞれ立っている。

 志乃武は顔色がよくないものの、まっすぐに前を向いていた。

 彼のバックレザーのムートンコートは、右腕の前腕の途中ですっぱりと斬り落とされ、その血まみれの切り口から突き出たむき出しの腕は、白くて寒そうだ。

 今の紅子は、誰にも説明されなくとも、志乃武の身に何が起きたのか手に取るようにわかった。

 玄蔵は娘と目が合うと、ゆっくりと頷いてみせた。

 おそらく、「大丈夫だ」とか「お前ならできる」と言いたいのだろう。


 不思議だ――と、紅子は思っていた。


 心がとても静かだった。


 魂縒の前に感じていた、様々な感情――不安や緊張だけでなく、舌にまとわりつく血の味や肌の不快感、身近な人々と再会できた喜び、安堵、それに、日可理の姿を見たときの複雑な気持ちにいたるまで、雑然と心を波立たせるものすべてが、きれいに消えていた。


 まるで、磨き上げた鏡面のように、意識が澄んでいる。


 感情がなくなってしまったわけではない。

 「壁」の向こうで起きていることを五感が捉えるたびに、心は相変わらずざわつく。

 ただ、そのことに囚われたままにはならない。


 彼女は今、自己というものを完璧に制御していた。


 魂縒を受ける前、なぜあれほどまでに自分の脳裏は雑念にまみれていたのだろう、なぜつまらない雑念にいちいち心を揺らしていたのだろう、と心中で首を傾げるほどに。


 それと、もう一つ。


 これまで自分を何度か救ってくれた「力の化身」のようなものの存在を、彼女は今、はっきりと意識できるようになっていた。

 魂縒の後の昏睡が思いのほか短く――というより、一瞬で終わったのは、黒珠に支配されて自我のない状態が長く続いたため、無意識下でこの「力の化身」との同化が進んでいたおかげらしい。

 ともかくも、今すぐに再度禁術を起動できる状態であることを、紅子は素直によかったと思った。


 禁術の再起動が、一筋縄ではいかないとわかるまでは。



※挿絵はAI生成です。

2024年11月19日火曜日

紅蓮の禁呪152話「竜と龍・九」

 玄蔵は抗弁した。

「しかし黄根さん、魂縒のあとには昏睡があります。第一、今の紅子の身体は普通の状態じゃ……」

 ところが、当の紅子はいつの間にかすっくと立ち上がっている。


「紅子?大丈夫なのか?」


 ついさっきまでふらついていたのにと訝しみながら玄蔵は声をかけるが、彼女は焦点の合わない目で前を見たまま、返事もしない。

 ただ引き寄せられるように紅子が黄珠に歩み寄る。

 玄蔵はもう一度紅子を呼ぼうとしたそのとき――


 凄まじい金色の光輝が辺りを満たした。


 閉じたまぶた越しに目を射る、あふれる光。

 その場にいた誰もが、あまりの眩しさに耐えきれず、目を閉じ顔をそむけたり手で光を遮ったが、それは文字通りほんの瞬きの間の幻のように過ぎ去った。


 紅子の様子が気になっていたものの、今の自分にできることをしなければと、眼前で復活しつつある龍垓と迦陵に意識を集中していた鷹彦も突然の光に驚いて、思わず背後を振り返った。

 だが、そこにはただ、もとの薄明の世界に、弱々しい輝きを放つ黄金の宝玉と、その前に立つ紅子の姿があるだけだった。


 今のは黄珠の……?


 頬に血色が戻ってはいるものの、顎から下を血まみれにした彼女の姿は、お世辞にも「無事」とはいえないし、さらにさっきの光が魂縒だとすれば、あとには呪的昏睡と御珠の力の減衰が待っている。


 だとしたら、ここは一旦退いて、また出直すということになるのか、と鷹彦は思った。


 実際、紅子は目を閉じたままみじろぎしない。

 黄珠の輝きも衰えている。

 彼女の最も近くに控えている玄蔵も、娘がいつ倒れてもいいように身構えているようだし、竜介と、彼に傷を癒やしてもらった志乃武、それに付き添っていた泰蔵・日可理も、心配そうに成り行きを見守っていた。


 しかし、驚いたことにまもなく黄珠は輝きを取り戻し――


 紅子の閉じていたまぶたが、開いた。


 それは、実に四千年ものあいだ、彼ら御珠の一族が切望し続けた瞬間だった。


 五つの御珠すべての力を授かる神女がこの世に現れたのだ。



 その場の誰もが、目の前の奇跡に言葉を失っていた。

 だが――そう、これで終わりではない。

 彼らにはまだ片付けねばならない勤めが残っていた。


 禁術起動という、命を賭した勤めが。


 そして、その時までは、もう一刻の猶予も残ってはいなかった。

 巨大な生き物の咆哮を思わせる、地鳴りのような轟音が周囲を震撼させたかと思うと、青白い鬼火のような稲妻が、彼らの周囲を取り巻いたのは、そのときだった。

 日可理が悲鳴をあげ、思わず耳を塞いで身体を低くする。

 残る七人も、何事かと身を固くした。

 通常なら目に見えない、鷹彦の造った超高密度の「風撃の壁」が、一瞬、青白いドーム状に浮かび上がる。

 生臭いオゾン臭が鼻を突き、静電気が彼ら八人の髪を逆立てた。


 稲妻が消えたとき、「壁」の向こうに浮かび上がったのは、巨大な竜だった。

 硬質な漆黒の鱗に青白い稲光をまとったその竜は、巨大な蛇体をくねらせて彼らのいる円形舞台の周囲にとぐろを巻き、大きく裂けた口からまた一つ、咆哮した。

 空気が、ビリビリと震える。


「鷹彦、大丈夫か!?」


 竜介が叫ぶと、


「今のところはね!」

 という返事が来た。

「けど、あと二回、今みたいな直撃をくらったらわかんねえ!」


「あの怪物は、今までどこにいたんだ?」


 玄蔵が誰にともなくつぶやくと、それを聞きとがめた黄根が答えた。


「あれは龍垓だ」


 確かに、迦陵はさきほどと同じ場所にいるが、隣にあったはずの龍垓の姿は消えている。

 そして巨大な竜から感じる、圧倒的な力の気配は、龍垓のものと同じだ。


 雷迎術、という言葉が皆の脳裏をよぎった。


 迦陵はすでに首が元通りになって、目に見えない「壁」に向かって何度か斬りつけたものの、文字通り刃が立たないとわかった今は間合いを取って様子を見ているようだ。

 一方、龍垓――もとい、彼だった竜のほうは、空に向かって巨大な口を開け、まるで辺りにわだかまる闇を吸い込んでいるように見えた。

 おそらく、次の雷撃のために力を溜めているのだろう、その鱗と背びれには不気味な青白い光が脈打ち、少しずつだがその輝きは増してきていた。


「時間がない。坊主」


 黄根が鷹彦に向かって早口で言った。


「一瞬だけ壁を消せ。お前の兄と師匠を外に出す」


 わかりました、と答える鷹彦の声を聞きながら、紅子が竜介を目で探していると、すぐとなりで声が聞こえた。


「紅子ちゃん」


「竜介」

 紅子が少し驚きながら向き直ると、彼は少しだけはにかむように微笑み、言った。

「俺、あとできみに話したいことがあるんだ」

 その言葉に、鷹彦の

「竜兄、師匠、カウントスリーで消すから出て!」

 という声がかぶる。

「三!」

「うん」

 紅子は強くうなずく。

「二!」

「うん、あたしも」

「一!」

 竜介は頷き返すと、彼女から視線をはずした。

 脳裏をよぎる「今生の別れ」、という言葉を振り払いながら、泰蔵とともに円形舞台の縁へ向かう。


 ゼロ、の声とともに周囲の景色の暗色が、心持ち深くなったようだった。


 「壁」が消えたのだ。


 そのとたん、タイミングを図っていたらしい迦陵が、間髪入れず竜介たちの間合いに入ってきた。

 彼らが押されて後退すれば、迦陵を「壁」の内側に入れてしまうことになる。

 だが、


 キィン!


 という硬質な音が薄明の世界に響き渡り、青い火花が散った。

 泰蔵が喚び出した、日可理の式鬼氷華(ひょうか)と雪華(せっか)の剣が、迦陵の刃を受け止めた音だ。

 続けて、竜介の隣にいた泰蔵の姿が消えたと思った、次の瞬間。


 迦陵の小さな身体が後ろ向きに吹き飛び、まるで入れ替わるように泰蔵の姿が現れた。


 竜介たちの背後の空中に、かすかなモアレ模様が現れたのは、そのときだった。

 「壁」が無事に復活した印だった。



(※挿絵はAIにより作成しました)

2024年10月28日月曜日

紅蓮の禁呪151話「竜と龍・八」

 


 そのときの紅子の身体は、口内の粘つく血の味や、曰く言い難い疲労感、冷えて重い手足といった不快な感覚が警鐘を鳴らしていた。

 けれど、貧血のせいでまだ意識が朦朧としていたため、それらをなんとなく疑問に思いつつもどこか夢見心地でやり過ごし、竜介の肩に自分の額を預けて、切望した再会の喜びに浸っていた。――の、だが。


 ゴホン、という遠慮がちな咳払いとともに、紅子にとってなじみ深い声が言った。


「あ~……二人とも邪魔してすまんが、そろそろいいかね?」


 聞き間違えるはずもない、父親の声。

 紅子がハッと目を開けると、竜介の肩のむこう、所在なさげにたたずむ玄蔵の姿が飛び込んできた。


「とっ、父さん!?」


 思わず声が裏返る。

 と同時に、全身の感覚が目覚めて現実がその輪郭を取り戻し、紅子は弾かれたように竜介から離れて立ち上がった――つもりだったが、目の前が不意に暗くなり、よろけて結局、二人に両側から支えられる形になってしまった。

 紅子はいたたまれなさと気まずさで変な汗が出てくるのを感じながら尋ねた。

「あの、その、なんでここに?」


「なんでって、お前を助けに来たに決まってるだろう」


 玄蔵は憮然として答える。

 紅子はようやくはっきりしてきた頭で、今自分がどこにいるのかを思い返した。

 いくら竜介でも単独でここに来れるはずがないのだ――この、空に浮かぶ邪悪な亡者の城までは。

 だとしたら、他にも同行者がいるのだろうか?

 ちょうどそのとき、


「小僧」


 今度は紅子が知らない声が聞こえた。

 竜介が振り返った先を見ると、険しい顔に蓬髪の老人が、今まで気づかなかったのが不思議なくらいすぐそばに立っていた。

 知らない顔だが、どことなく見覚えがあるような気もする。

 そんな紅子の視線を尻目に、老人は頭を倒して自分の背後を示して言った。


「白鷺家のせがれが限界だ。早く行ってやれ」


 そこには泰蔵と、白鷺家の二人がいた。


 彼ら冷たい床の上に座りこみ、泰蔵が青白い顔でぐったりしている志乃武の体重を支え、日可理はその傍らで弟の右前腕を白く輝く両手でじっと固定しているようだ。

 光の中に浮かび上がるその腕はむき出しで、血まみれだった。


「そうでしたね」

 と竜介は言って、玄蔵に紅子を預けて立ち上がると同時に、自分が着ていたファー付きの分厚いモッズコートを脱いで彼女の肩にかけた。


「またあとで、紅子ちゃん」


 そう言い残して彼は彼女のそばを離れ、泰蔵たちのほうへ向かった。

 泰蔵と日可理は彼の姿を認めると、ほっとした様子で頬を緩めた。


 紅子はこのときようやく、自分がいるのは直径数十メートルほどの円形に平たく削り出された一枚の岩盤の上だということに気づいた。

 岩盤は冷たい光沢を放つ黒い岩で、滑らかに磨き上げられた床には、繊細な幾何学模様が掘られているのが、薄明の中でもうっすらとわかる。


 竜介の青い光が志乃武の右腕を包み、紙のようだった志乃武の頬に少しずつだが血の気が戻っていくのが見えると、紅子もまた安堵の息をついた。

 安心すると、いつまでも父親に抱えられているのが気恥ずかしくなり、

「父さん、もう大丈夫だから」

 と、離れようとしたが、立ち上がろうとするとまた立ち眩みに襲われて座り込んでしまった。

「無理するな。お前は死にかけたんだぞ」

 そんな大げさな、と紅子は一笑に付しかけたが、胸のあたりがごわごわするのが気になって触れると、手のひらにべっとりと血がついてぎょっとなった。

「何、この血!?」

「お前、何も憶えてないのか」

 玄蔵は、紅子が封滅の禁術を起動したが、黒珠の伺候者が術圧のせいか「自壊」して術が失敗したことなど、自分が知っている範囲で娘に語った。

 それから、あの険しい顔つきの老人を手で示して、


「我々がここまで来れたのは、こちらの黄根さんのおかげだ。お前の母方の祖父に当たる人だよ」

 と、言った。

「それに、お前の命が助かったのも、黄根さんが竜介くんに力を貸してくれたからだ」


 紅子は黄根老人を見た。

 この人が――

 目の前の老人の顔が、記憶の片隅にあった、白珠の魂縒で最後に見た幻と重なる。

 黙ってこちらを見ている黄根に、紅子は言った。

「あの、初めまして。色々とお世話になって、ありがとうございます」

 だが、老人は表情を崩すことなく、


「礼を言うのはまだ早いようだぞ」


 と、あごで竜介たちがいるのとは別の方角を示した。


 そこにいたのは、鷹彦だ。

 彼は舞台の縁の近くに立って、こちらに背を向けたまま、青い光を放っている。

 一瞬、彼が何をしているのか理解できず、紅子は彼に声をかけようと息を吸い込む。

 しかし、次の瞬間、鷹彦の放つ青い光輝の向こう側、夕暮れのような薄明の中で、大小二体のシルエットがうごめいているのを目にして、紅子の吸い込んだ息はそのまま固まることになった。


 その二つのシルエットは、龍垓と迦陵のものだ。


 どことなく人間離れした動きだったが、すぐにわかった。

 龍垓は折れ曲がった首から偃月刀を抜くと、両手で首の位置をまっすぐに直そうとしている。

 迦陵にはそもそも首がなかったが、胴体が手探りで首を探し当てたところだった。

 

 全身に冷水を浴びせられたような気がした。


 竜介と再会できただけですべてが大団円を迎えたような気でいたが、まだ何も終わっていなかったのだ。


「動き出したな……」


 黄根が苦々しげにつぶやくのが聞こえた。


「もはや猶予はない。紅子」


 呼ばれて向き直ると、ぎろり、と大きな目で見据えられ、紅子は思わず姿勢を正す。


「は、はい」


「お前には今から、黄珠の魂縒を受けてもらう」


 そう言うと同時に、彼は目の前の饕餮紋が刻まれた角柱――禁術起動中にはそこに炎珠があったが、今は何もない――の上に手をかざす。

 その手が金色に輝き、次の瞬間、角柱の上に黄金に輝く宝玉が現れた。

 説明がなくとも、わかった。


 黄珠だ。



※挿絵はAIによるものです

2024年9月22日日曜日

紅蓮の禁呪150話「竜と龍・七」


 「わたしがお前の力を増幅させる」


 黄根は宣言した。


「この娘の――紅子の命を、取り戻すんだ」


 彼と、紅子を抱えてうずくまる竜介を囲み、金色の法円が黒大理石の上で回転している。

 虫の羽音のようなかすかなハミング音に合わせて、その幾何学模様を複雑に変化させながら。

 竜介は視線を上げて黄根の顔を見た。

 正面にひざまずいている黄根と、間近に目が合う。

 こんなに近くで、この老人の顔をかつて見たことはなかった。

 金色の光輝に包まれているそれは、彼がよく知っているとおりに、威圧的で険しく厳しい。


 しかし――


 今はそれが、不思議なほど、この上なく頼もしく思えた。

 老人の口調が、自信に満ちているからだろうか?

 できるかもしれない。

 そんな気持ちが、ふつふつと湧き上がる。


 たとえ自分の命に替えても、彼女を取り戻す。


 竜介は答えた。


「わかりました。やります」



 ――寒い。


 闇の中に、彼女はいた。

 時の流れさえ凍てつく寒さと、永遠の闇。

 その中で、固く目を閉じ、膝を抱え、小さく小さく丸まっている。


 寒さをしのぐため――だけではない。


 彼女は何かをその胸に抱え込んでいた。

 その「何か」を守るために、ひたすら丸くなっている。


 それは、小さな炎だった。


 胸の奥の、小さな熱と光。


 いつからこうしているのかも、もうわからない。

 自分が何かを待っていたような気がするけれど、いったい何を待っていたのかすら思い出せない。

 それでも、この炎だけは、これだけは守らねばならない。

 これだけは、消してはならない。

 たとえその理由さえもはや思い出せなくても。


 そんな彼女に、闇がささやく。

 無駄だ、と。


 無駄なことだ。

 お前が忘れてしまったように、お前が待つものも、お前を忘れてしまった。

 もうすべてを手放してしまえ。

 楽になれ。


 闇にとって、彼女の炎は目障りなのだ。

 この炎のせいで、彼女を凍えさせ、完全に取り込むことができないのだから。

 彼女は闇の邪悪さを本能的に感じ取っている。

 だから、守りをさらに固くする。


 けれど――


 炎は少しずつ、その勢いを失いつつあった。

 それは今や小さな灯火(ともしび)となり、吐息のささやかな一吹きで消えてしまいそうだ。

 同時に、押し寄せる絶望が、心を蝕んでいく。


 なんだか、疲れたな……。

 手放してしまおうか……。


 そんな彼女の気持ちを鋭く感じ取り、闇が邪悪な歓喜に震える。

 それさえ、彼女はもうどうでもいいと感じ始めていた、そのとき。


 何かが――「だれか」が、彼女を呼んだ。


 聞いたことのある声だった。

 ずっと待ち望んでいた声だった。


「紅子」

 それはたしかにそう言った。


 炎がにわかに勢いを取り戻し、その熱と光が彼女の心をほどいていく。

 膝を抱えていた腕を解き、ゆっくりと起き上がる。


 闇が怯む。


 固く閉じていた彼女の双眸は今、開かれ、赤く燃えている。

 戻りたい。

 戻らなければ。


 周囲は上下すらわからない無限の闇だ。

 だが、彼女はふらつきながらも立ち上がった。

 闇はそんな彼女を威嚇するかのように、恐ろしい咆哮を響かせる。

 凍てつく吐息とともに針のような氷のつぶてが、彼女に襲いかかる。


 しかし、その攻撃はどれも彼女を傷つけることはできなかった。


 次の瞬間、彼女の足元から、オレンジ色の花びらのような炎が勢いよく燃え上がり、彼女の全身を繭のように包んだからだ。


 炎は灼熱の盾となって、闇が繰り出すあらゆる残忍な殺意の具象を防ぎ、さらには金色の火の粉を吐きながら、その赤い牙と舌で、見る間に闇を切り裂き駆逐していった。


 たった四つの御珠だけで強行された禁術で力尽きたはずの彼女の、どこにそんな力が残っていたのだろう?


 否、これは彼女「だけ」の力ではなかった。

 彼女に「戻ってこい」と呼びかける、その声の力。

 彼女を待つ人達の、心の声の力だった。


 そして――


 そして、彼女は戻ってきた。


 現実に戻ってきた彼女が最初に感じたこと、それは口の中の金気臭い血の味と、寒さと、そして強く抱きしめられている温もりだった。


 知っている匂いだった。


 目を開くと、懐かしい青い光の向こうに、確かに彼がいた。

 心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「竜……介」


 血が乾いて動かしにくい口で、そう呼んでみる。

 涙があふれた。


「紅子……!紅子ちゃん!」


 闇の中で聞いた声。

 それが潤んで聞こえたのは、気のせいではないようだ。

 竜介の頬にも、涙の筋が光っている。


「これ……夢じゃない、よね?」


 紅子がかすれた声で尋ねると、竜介は泣き笑いの顔になって、強く頭を振った。

「夢なもんか!君は、戻ってきたんだ」

 そうして、彼は紅子を抱きしめると、その耳元で言った。


「君は、帰ってきた……もう、どこへも行かないでくれ」



※挿絵はAI生成です。

2024年9月11日水曜日

紅蓮の禁呪149話「竜と龍・六」


 龍垓は、己の腹心の首がその胴を離れても、目もくれなかった。

 その代わりというように、竜介と黄根の間合いにより一層深く踏み込む。


 そのとき、鷹彦の起こした風撃の余波が彼らを襲った。


 激しい風に思わず目をかばう竜介。

 と、その瞬間、あのぞっとするほど強大な力の気配が消えた。

 慌てて視界を確保すると、すぐそこにあった黒い壁のような鎧がない。


 否。


 それは移動していた。

 十メートルばかり遠くに――つまり、法円の中央に。


 風で剥ぎ取られたフードから現れた、白い顔に、彼の目は釘付けになった。

 血の気はなく、目は落ちくぼんでいるけれど、それはたしかに紅子だ。


 そして、その背後には、龍垓の姿があった。

 小柄な紅子に比べ、その巨躯はまさにそびえるが如くだったが、今、それは更に大きく見えた。


 なぜなら、長剣を振りかざしていたからだ。


 ぎらつく長剣の切っ先が、スローモーションのように、紅子の頭頂へ吸い込まれていく。


 竜介は叫ぼうとした。

 駆け出そうとした。

 これが悪夢なら今すぐ醒めてくれと願った。

 せっかくここまでたどり着いたのに。

 目の前に彼女がいるのに。


 これで、終わりなのか――やはり、遅かったのか。何もかも。


 ところが。


 龍垓の剣が、少女の髪に今にも触れるというとき、突然ぴたりと止まった。


 次の瞬間、龍垓の足元に金色の法円が現れたと思うと、その姿は消え、再び現れたのは、竜介の目の前、元いた場所。

 大剣がいきなり頬をかすめるほどの距離に出現し、竜介は思わず飛び退る。

 が、龍垓は動かない。

 その喉元から偃月刀の切っ先が飛び出していることに竜介が気づくのに、さほど時間はかからなかった。


 龍垓の巨躯が前のめりに崩れ落ち、黒大理石に打ち付けられた鎧が、ガシャーン!と驚くほど大きな音を立てる。

 その後ろから姿を現したのは、黄根だった。

 彼は足元の巨大な黒い金属の塊を見下ろし、独り言のように言った。


「これでしばらくは動けまい」


 黒珠の王は――少し離れた場所で首と胴体がばらばらになって倒れている迦陵もそうだが――彼の言う通り、ぴくりとも動かない。

 驚くべきは、血や体液の類が一切、流れ出ていないことだ。

 彼らが人間どころかこの世界の一般的な「生物」ですらないのだ、と竜介は改めて思う。


「全員、早く舞台に上がれ」


 黄根が呼びかける。

 龍垓も迦陵も、炎珠の神女に焼かれたわけではないから、影にはならない。

 しばらく経てばまた動き出すだろう。


「立てるかね」

 泰蔵は、床に座り込んだままの志乃武に手を貸して立たせてやると、舞台の階段を上がるのを支えた。

 そばには日可理が付き添っているが、彼女では弟の体重を支えきれなかったのだ。

「ありがとうございます」

 二人がユニゾンで礼を言う。

 日可理は弟の切り取られた腕を傷口にぴったり押し当てている。

 力が復活した今、止血はできているようだが、痛みを完璧に消したり、もとに戻すのは、彼らでは無理のようだ。


「坊主、お前はこの舞台の周りに風で壁を作れ。破られるなよ」


 黄根に坊主呼ばわりされた上にそう念押しされて、鷹彦は一瞬ムッとした顔をする。

 が、


「紅子!?」


 玄蔵の悲鳴のような声が、和らぎかけた空気を再び凍りつかせた。

 円形舞台の中央。

 そこでは紅子が、糸の切れた人形のようにくたくたと崩れていくところだった――大量の、血を吐きながら。

 玄蔵が駆け寄り、竜介と鷹彦、それに黄根が続く。


「紅子、紅子……!!」

 娘を抱え起こしながら呼びかける父親の悲痛な声。

 竜介がそばに膝をつくと、玄蔵は今まで見たことのないすがるような目で言った。


「竜介くん、助けてくれ。君なら、できるだろう!?」


 そう言われて、差し出された紅子の身体を受け取る。

 しかし――


 その身体は、凍っているのかと思うほど冷たかった。

 薄く開かれた目に光はなく、紙のように白い顔に、乾き始めた血糊だけが、禍々しく赤い。

 それは、死者の顔だった。


「紅子ちゃん、助かるよな?なあ、竜兄?」

 鷹彦の声が、どこか遠くから聞こえるようだ。


 絶望、という言葉が竜介の脳裏をよぎる。


 ここまで来たのに。

 やっと……やっと会えたのに。

 遅すぎた。全部、何もかも、遅すぎたんだ。


 視界がゆがむ。

 全身の力が抜けていく。


 と、そのとき。

 いきなり視界が明るくなった。

 黒大理石の床に、竜介と紅子を囲む小さな金色の法円が広がっている。

 気のせいだろうか、ほのかに温かい。


「坊主、玄蔵さん、悪いがあんたらはこの法円から出てくれ」


 黄根老人が言った。

 二人が金色の法円の外に出るのを確かめると、竜介に向き直る。


「しっかりしろ、小僧」


 老人はぎょろりと左目で彼をにらみつけ、言った。


「今、このときのことを、わたしは何度も何度も見てきた。そしてこのときのために、ここまで来たのだ」


 まだ間に合う。


 黄根老人は、たしかにそう言った。



※挿絵はAIによって作成しました。

2024年8月30日金曜日

紅蓮の禁呪148話「竜と龍・五」

 


 日可理の足元には、服の袖ごと切り落とされた弟の前腕があった。

 切断部からこぼれた血が、黒大理石に赤いしみを作っている。

 その向こうには、うずくまる弟の背中。

 そして、彼の前に仁王立ちする、その力に比して驚くほど小さな、黒い死神の姿。

 その鎌から滴り落ちる、血――


 視界に映るすべてが、歪んで見える中、彼女はとっさに腕を拾い上げると、弟のそばに駆け寄ろうとした。


 嗚咽が止まらない。

 涙で濡れた頬が凍えるようだ。

 冷たく乾いた空気が、喘ぐ喉に刺さる。

 けれど、彼女は恐ろしさですくむ足を、必死で前に出した。

 気に入っていた白いファーのついたダウンコートが、見る間に血で汚れていく。

 血のついた手で涙を拭ったせいで、顔も赤黒く汚れてしまった。


 もう、異能は使えない。

 切断された腕など運んでも役に立つとは思えない。

 ただひたすら、無意識の行動だった。


 迦陵がその手の鎌をひと振りすれば、二人とも命はない。

 それでも、だからこそ、どうせすべてが終わるなら、志乃武のそばにいたい。


 と、そのとき。


 不意に軽くなった術圧が、彼女の足を止めた。


 その瞬間、その場にいた全員が、法円の中に視線を走らせ、異変を目の当たりにしていた。


 本来、黄珠が載るべき饕餮紋の柱――その柱の前にいた伺候者が、突然、文字通り崩れ落ちたのだ。

 その肉体を構成していた細胞一つ一つが、なんの前触れもなく黒い砂と化した。

 砂は見る間に人の形を失い、ざあっと音を立てて黒大理石の床に広がると、中身を失った黒衣が、その砂山の上にかぶさった。


 迦陵が小さく舌打ちするのを、日可理は聞いた。


「術圧に負けたか……」


 かすれた声で、黒珠の王がそうつぶやくのを、すぐそばで竜介が耳にした、次の瞬間。


 詠唱が途切れ――

 術圧が、完全に消えた。


 それは天与の静寂だった。


 そのとき、世界に、光が戻った。

 日可理は、力が戻るのを感じた。

 目の前では、志乃武の身体を再び白い輝きが包むのが見える。


 これで、志乃武を助けることができるかもしれない――


 だが、その安堵は次の瞬間、絶望に塗りつぶされた。

 迦陵が右手の鎌を下から大きくすくい上げようとするのが視界に入ったからだ。

 鎌の動線の先には、志乃武の首がある。


 間に合わない――


「志乃武さん!!」


 声を振り絞り日可理はそう叫ぶと、無我夢中で弟に背後から覆いかぶさった。

 もしかすると、迦陵の刃なら、二人とも一刀両断されるかもしれない。

 それでも、そうせずにいられなかった。


 ところが。


 強く目を閉じ、その瞬間を待つ彼女に、志乃武が言った。


「日可理、目を開けて」


 彼に促されて目を開けたとき、最初に目に入ったのは、迦陵の巨大な鎌の切っ先。

 それと、もう一つ、見覚えのある両刃の剣。


 剣に沿って視線を上げると、その先には、彼女が作って泰蔵に託した式鬼のうち一体、氷華がいた。

 左手に目を転じると、そこには雪華。


 彼らの剣が、迦陵の刃を止めていた。


 以前にも書いたが、あるじの持つ能力を式鬼は受け継ぐ。

 つまり、雪華・氷華は今、泰蔵と同じく、一秒を五倍にした速さで動ける。

 迦陵の動きを封じるなど、今の彼らには児戯に等しい。


 迦陵が体勢を整えようと刃を引きかけた、そのとき、その背後に影がさした――そう日可理には見えた。


 次の瞬間、影は泰蔵の姿に戻ると、


「悪く思うなよ」


 迦陵にむかってそう言うなり、手にした偃月刀を一閃した。


 ごとん。


 重い音とともに、迦陵の首が、黒大理石の床に転がる。

 その音は、まるで形勢逆転の合図のようだった。


「よっしゃあ、遊びの時間は終わりだぜ!!」


 鷹彦の吠えるような叫びとともに、凄まじいつむじ風が巻き起こる。

 それは彼と玄蔵の手を煩わせていた「雑色」二体の呪符を斬り捨て、法円内部に残る三体の伺候者たちを黒砂に変え、そして――

 そして、法円中央に立つ小さな黒衣のフードを、剥ぎ取った。


 フードから長い黒髪がこぼれた。

 紅玉を散りばめた髪飾りで古風に結われた髪。

 血の気のない頬の肉は落ち、黒ぐろとした目が大きく、細い顎が鋭角を描いている。


 やつれて面変りしている。が、しかし、それは確かに――


 紅子だった。


※挿絵はAIで作成しました。

2024年8月11日日曜日

紅蓮の禁呪147話「竜と龍・四」

 


 人の声とは思えない音だった。

 息継ぎもなく、一定の抑揚とともに繰り返されるうねり。

 太古の力を孕むその音は、最初の抑揚の区切りが終わるまで一つの音だったのが、新たな音のうねりに入るとき、四つ――おそらく伺候者たち――の音が加わって五重唱となった。


 のしかかるような術圧。


 黒帝宮を包む氷殻を形成する力場が、この恐るべき音を非可聴音に変換し、増幅する。

 文字通り、世界を揺さぶるために。


 同時に、法円の中では、対角線上に立つ四本の列柱のうち、二つの饕餮紋上に、それぞれ見覚えのある白珠と碧珠、そして三つ目に、忌まわしい青白い鬼火をまとった黒い宝珠――黒珠が現れた。


 中央の柱には、真紅の宝珠、炎珠が輝いている。


 禁術を止めねばならない。

 今すぐに。

 彼らの行く手を阻むのは、迦陵とたった二体残った雑色のみ。

 もとより迦陵を引き受けるつもりの泰蔵が、竜介と黄根にそっと視線を送る。


 しかし。


 彼らは動かなかった――否、動けなかった。


 法円の外の壇上。

 何もなかった空間に突然黒い波紋のようなものが現れたかと思うと、それはあっという間に大きくなり、波間の闇から「彼」が姿を現した。

 「雑色」たちと迦陵がその場に膝をつき、頭を垂れる。


 黒い鎧を身に着けた隆々たる体躯に、黒い巻き毛に縁取られた美麗な白い顔。


 龍垓だった。


 巨大な氷殻の内部であるこの黒帝宮は、意外にも頬に当たる空気が地上よりも生温い。

 しかし今、この亡者たちのあるじを中心に、周囲の気温は急激に冷え始めていた。

 それが気のせいではない証拠に、龍垓の足元の黒大理石に、白く霜が降り始めている。

 

 凄まじい冷気と、恐るべき力の気配。


 龍垓と見(まみ)えるのが初めてではない竜介でさえ、慣れることがないこの圧迫感に、残る六人が圧倒されないわけはなかった。

 多少のことでは顔色を変えない黄根さえも、心なしか青ざめた顔で黒珠の王を凝視している。


 龍垓は足下を睥睨すると、口の端を歪めて嗤った。


「我が城へ、よくぞ参った」

 闇の王はそう言って、己が腰に佩(は)いた大剣をすらりと抜き放つ。

「本日よりここが汝らの墓所とならん。名誉と思うがいい」


 その言葉が合図だったかのように、周囲が暗くなった。

 気のせいではない。

 竜介たち七人が放っていた光輝が、一斉に消えたのだ。


 禁術の準備が整い、起動を開始したということだろう。

 異能(ちから)が使えなくなった。


 驚き動揺する竜介に、龍垓の大剣が容赦なく襲いかかる。

 竜介は持っていた偃月刀でかろうじて受けるが、衝撃が重く、思わず後退してしまう。

 鷹彦と玄蔵も、残っていた「雑色」でそれぞれ手一杯だ。


 白鷺家の姉弟は、式鬼や呪符が使えなくなった。

 氷華と雪華もただの紙片に戻り、ひらりと黒大理石の床に落ちる。

 次の瞬間、それらの紙片を蹴散らすようにして、迦陵が泰蔵の間合いに入った。


 速い。


 異能が使えない泰蔵に、迦陵の刃を避ける術はもはやない。


「泰蔵さん!!」

「親父っ!!」

 志乃武と玄蔵の叫び声と、日可理の悲鳴が交錯する。

 が、まさに間一髪。

 死神の大鎌は、またしてもその威力を振るいそびれた。

 今度は黄根が、「雑色」から奪った二本の偃月刀を使い、見事な両刀術で迦陵の刃を止めたのである。


「すまん」


 泰蔵が前方の迦陵に視線を固定したままつぶやくように言うと、黄根も同じく迦陵を見たまま、左手の偃月刀を泰蔵に素早く押し付ける。


「今はいい」


 早口でそう返し、「行くぞ」と一言。

 今度はこちらから、小さな黒衣の間合いに入る。

 禁術のほうに黒珠の力を傾注しているため、迦陵も龍垓も異能を使うことはない。

 純粋に、膂力(りょりょく)のみがものをいう戦いだ。


 そして迦陵は、泰蔵と黄根の二人を相手に、互角以上だった。


 小さな黒衣の振るう二本の鎌が彼ら二人を振り回す様は、まるで台風の目のようだ。

 泰蔵も黄根も、その着衣に、皮膚に、少しずつ刃のあとが増えていくが、それを厭(いと)う様子はない。

 むしろ、怪我を承知で間合いに踏み込んでいるきらいすらある。


 実は、彼らの視界の端には、法円に忍び寄る日可理と志乃武の姿があった。


 法円の周囲に結界の術圧は感じられない。

 伺候者たちも異能を使えないのであれば、彼ら二人でどうにかできる可能性はある。


 泰蔵は日可理たちとは反対側に視線を走らせた。

 龍垓は重い鎧を着けたまま、まるでハンデを楽しむかのように竜介の相手をしている。

 日可理たちがいるのは、法円を挟んでちょうど龍垓の背後だから、気づかれる恐れはまずない。


 迦陵だけをこちらに引き付けておけばいい――


 やたら踏み込んでいく泰蔵の意図を、黄根もまた察していた。


 日可理と志乃武は黒大理石の舞台を回り込み、幅広の階段を上がって、今しも法円の中に立つ一体の伺候者の背後に近づきつつあった。

 だが、目前の伺候者が纏う黒いローブに、志乃武が掴みかかろうとした、その瞬間。


 彼の左手の肘から先が、消えた。


 すべてがスローモーションのようだった。

 志乃武の前には、いつの間にか迦陵がいて、振り上げた片方の刃から、赤い液体が滴り落ちていた。

 生臭い匂いが鼻をつく。


 血だ。


 下から上に跳ね上げるように切り取られた腕は、空中に赤い血の弧を描き、次いで、ボトリ、と重い音を立てて、志乃武のすぐ背後に落ちた。


「何人たりとも、邪魔はさせぬ」

「いやぁぁぁっ!!志乃武さんっ!!」


 迦陵の声。

 日可理の悲鳴。


 そのどちらも、激痛と闘う志乃武の耳には、どこか遠くから聞こえるようだった。

「ぅぐっ……!!」

 絶叫を噛み殺し、彼は残った右手で血が吹き出す左腕を押さえようとしたが、力が入らない。

 目の前が暗くなり、膝から力が抜けていく。

 志乃武は自分の血溜まりの中に崩れ落ちた。


 明るくなったり暗くなったりを繰り返す視界に、自分と迦陵の間に割って入る泰蔵の背中が見えたと思った、そのとき。


 不意に、術圧が軽くなった。


※挿絵はAI画像です。

2024年6月29日土曜日

紅蓮の禁呪146話「竜と龍・三」

 


 いつの間に――!?


 そう思うほど気配をまったく感じさせず、迦陵は竜介たち七人の行く手を阻む形で、法円のある舞台へと続く階段に立っていた。


 濃い瘴気のせいで、黒珠の気配が分かりづらくなっている。


 そんなことを思いながら、竜介は攻撃に備えた。

 七人の発する光が列柱の燐光を圧倒する。

 迦陵の背後で影が深くなった。


 ざわり。


 影はうごめき、次の瞬間、黒い長衣を着てフードをかぶった人の形に分かれたと思うと、彼らに向かってきた。

 その数、十体。

 息遣いも足音もなく、滑るようなその動きは黒衣をまとった幽鬼の群れのようだ。

 さっきの「影」とさほど変わらない、そうたかをくくったらしい鷹彦がつぶやく。


「また『影』か」


 だが、それを聞きとがめた竜介は、


「こいつらは『雑色(ぞうしき)』だ。実体があるぞ」


 早口で警告した。

 その言葉が聞こえたかのように、黒い長衣の下から現れた偃月刀(えんげつとう)が、ぎらりと光る。


「まじかよ!」


 急襲を受けた鷹彦は、急ぎ「かまいたち」で応戦するが、相手は本当に実体があるのかと疑うほど手応えがない。

 切り捨てたはずの黒衣は、すぐに元通りになる。

 それなのに、振り下ろされる偃月刀は確かに実体があり、「かまいたち」で受けると、火花が飛び散った。


 いわば空を舞う刀剣だけを相手にしているようなものだ。


「くそっ、これじゃきりがないぞ!」


 そんな切羽詰まった声が、玄蔵から聞こえた。

 重力を操るほかは体術しか手がない彼は防戦一方で、鷹彦以上に苦戦を強いられていた。

 かろうじて避けた刃の切っ先にコートを切り裂かれ、そこここにほころびができている。


「フードの中の呪符を斬れ!」


 竜介が鷹彦に向かってそう叫ぶのが聞こえたが、雜色の太刀筋は思いのほか鋭く、玄蔵がフードの中に手を伸ばせるような隙はない。


 と、そのとき。


 玄蔵に激しく斬り掛かっていた雑色が、突然、黒い霧が文字通り霧散するように消え、その向こうから黄根が姿を現した。


 彼は別の雑色から奪ったらしい偃月刀を今まさに振り下ろしたところで、その刃で両断されたらしい呪符が、ひらりと玄蔵の目の前をよぎる。

 黄根は持ち主のいなくなった偃月刀を地面に落ちる直前に素早く拾い上げると、刃を下にして、驚き立ちすくむ玄蔵にむかって投げてよこした。


「すみません」


 投げられた偃月刀の柄を危なげなく受け取り、玄蔵が思わずそう言うと、


「謝る必要などない」


 また一体、斬り掛かってきた雑色を切り捨てながら、黄根はそっけなく応じる。

 変わらない仏頂面。

 だが、玄蔵には今、その横顔がこの上なく頼もしかった。

 彼は言った。


「はい。ありがとうございます」



 一方。


「生きていたか」

「ええ。お生憎さま」


 法円が刻まれた舞台の縁に立つ迦陵に、日可理が応じる。

 迦陵が小柄なせいで、彼らの目線はほぼ同じ高さだ。

 雜色たちは皆、竜介たち四人を相手にしており、日可理と志乃武、それに泰蔵の三人の前には、迦陵しかいない。


 しかし、この黒衣の死神は、その気配だけで彼らを圧倒した。

 ただ、日可理だけが、その身の内に燃える激しい怒りで、相手が発する恐るべき冷気を撥ね退けている。

 その表情は、赤ん坊の頃から一緒にいる志乃武でさえ見たことがないような殺気に満ちていた。


「来るだろうと思っていた」

「雪辱を果たしに参りました」


 日可理の言葉に、迦陵はわずかに目を細める。

 それは、嘲笑、とも取れる顔だった。


「……貴様ごときが?」


 その言葉が終わる前に、小さな黒衣が彼らの目の前から消えた。

 語尾の「が?」という音だけが、まるで無人の空間から発せられたように思われた、次の瞬間。


 キンッという硬質な音が一つ――いや、二つが重なって聞こえた。

 それは、死神の鎌が、獲物の命を仕留めた音だったろうか?


 否。


 迦陵の両手の甲からそれぞれ伸びた、三日月型の鎌。

 それらが描く弧の先に、すでに日可理の姿はなく――


 代わってそこにいたのは、泰蔵だった。


 そして、彼の首に今にも吸い込まれようとしていた死神の刃を止めていたのは、朱色の房飾りがついた、二振りの剣。


 その柄の先には、白い水干姿の少女たちがいた。


 黒髪をそろって下げ角髪(みずら)に結い、絵巻物から抜け出たような出で立ちの「彼ら」は、白皙の顔に細い切れ長の一重まぶたという古典雛のような顔も瓜二つで、ただ、それぞれの額にある雪の結晶のような文様と、薄青い氷でできた小さなツノだけが、見分ける目印となっていた。


 そう、「彼ら」は人ではない。

 日可理が泰蔵に託した、雪華と氷華、二体の式鬼だ。


 迦陵は新手の出現に、一旦、手の甲の鎌を消して後ろへ跳び、間合いを取った。

 雪華と氷華も体勢を戻し、上段の構えを取る。

 氷華が左利きなので、彼らの動きはちょうど合わせ鏡のようだ。


「今のうちに、早く!」


 泰蔵は迦陵を見据えたまま、白鷺家の姉弟を鋭く促す。


「はい!」


 二人は法円が怪しい光を放つ舞台へ向かった。

 迦陵は、彼らに一瞥すらくれない。

 それは、氷華・雪華に牽制されているからだと――三人はそう思っていた。


 だが、違った。


「もう、遅い……」


 迦陵の口から、かすかなため息とともにもれた言葉。


 その次の瞬間、地の底から響くような、「詠唱」が聞こえた。

 地鳴りのようだが、それは確かに「声」だった。


 日可理と志乃武は、舞台上に駆け上がることはできなかった。


 禁術が始動し、法円の周囲に発生した力場が、彼らを弾き飛ばしたのだ。



※筆者注:挿絵はAIによって生成しました。

2024年5月30日木曜日

紅蓮の禁呪145話「竜と龍・二」

 

 夕暮れのほのかな残光が消え去ると、分厚い黒雲に覆われた街は闇に沈んだ。

 雲の奥で閃く稲妻が、ほんの気まぐれのように、時折、辺りを青白く照らす。

 それを除けば、明かりと呼べるのは先行する除雪車と、彼らの車の四つのヘッドライトだけだ。

 人工的な白い光が、雪と氷のせいで色を失った無人の街をさらに不気味に演出する。


 彼らが目的地に到着したのは、時計の針が午後六時半を過ぎて、三十五分に近づきつつある頃だった。


 案内はここまでという当初の取り決めがあったので、除雪車はビルの前でUターンすると、次の作業場所へ向かって行った。

 この寒波のせいで、除雪車や雪上車は仕事が目白押しなのだ。

 去り際、除雪車の作業員は車の窓を開けると、ワゴン車の運転席にいる虎光にむかって、何度もこう念押しした。


「必ず半刻以内にはここから来た道を戻ってくださいよ!」


 このとき、それまで降りしきっていた雪はやみ、風も弱まっていた。

 しかし、今の都内の気候はあまりにも不安定だ。

 彼らも仕事柄、いつまた猛吹雪が襲ってくるかわからないような場所に一般車両を置き去りにしたくはなかったのだろう。

 虎光自身も、なるべく早くここを立ち去ったほうがいいとは思っていた。

 けれど、それは後部座席にいる面々の意見次第だ。

 ヘッドライトの中に浮かび上がる本社ビルの地下駐車場入口は、シャッターが降りている。

 彼はシャッターを開ける鍵をセキュリティから預かって来ているが、今目の前にあるそれは、どう見ても凍りついて動きそうにない。

 そしてたとえ中に入れたとしても、停電でエレベーターが動かないため、最上階までは階段で行くしかない。


「ここからどうします?」


 彼が運転席から肩越しに尋ねると、


「ここで降りる」


 相変わらず苦虫を噛み潰したような顔で、黄根が言った。


「中には入れませんよ」

「わかっている」

 鷹彦の忠告を、黄根はうるさそうに手を振って制した。


「今ならば、地上から直接行ける。黒帝宮を囲む力場が弱まっているからな」


 そう言って、虎光に車のスライドドアを開けるよう促す。

 竜介が慌てて尋ねた。

「もう儀式が始まっているんですか?」

 力場が弱まっているということは、黒珠の力が儀式の立ち上げに使われているということだ。


「まだだ。だが、もうまもなくだ」


 黄根が短くそれだけ答えたちょうどそのとき、車のドアが開放され、凍てつく外気が一気に流れ込んできた。

 黄根を除く車内の全員が、急激な寒さに思わず身を縮めるが、それもほんの一瞬だった。


「急ぎましょう」


 一番ドアに近い日可理が先陣を切って雪と氷の中へ出て行く。

「滑るから気をつけてください」

 続いて出た志乃武が、あとの五人にそう声をかけた。

 オートモードになっている車載ヒーターが、下がった室温を元に戻そうと凄まじい勢いで温風を吐いているが、この寒気にはとうてい太刀打ちできそうもない。

 虎光は着ていたダウンジャケットのファスナーを首元まで上げながら、今朝見た天気予報を思い出す。

 たしか、東京の予想平均気温は零下二十度だった。

 七人が降りるのを見計らってドアを閉めたら、窓を開ける。

 冷気に噛みつかれる痛みをこらえながら顔を出し、エンジン音に負けないよう彼は叫んだ。


「みんな気を付けて!」


 ヘッドライトに浮かぶ全員が彼にむかってそれぞれ会釈をしたり頷いて見せ、彼の兄弟たち二人は片手を上げた。


「母さんたちを頼んだぞ!」


 竜介の声が返ってきたと思った、次の瞬間。


 金色の法円が七人を囲むように現れ、彼らの姿は跡形もなく消えたのだった。



 不帰の旅路は、その先に待つものの重さとは対象的に、あまりにもあっけなく終わった。


 一瞬、視界が暗くなって地面がなくなり、空間識失調に襲われる。


 竜介と黄根老人を除くあとの五人にとって、それは事前の説明もなく恐怖の経験だったと思われるが、誰も――鷹彦でさえ、悲鳴を上げたりすることはなかった。

 なぜなら、視界と重力が戻ったと同時に、首の後ろに強烈な痛痒感を覚えたからだ。


 自分たちが今、紛れもなく黒珠の根城にいるという証だった。


 彼らが最初に目にしたものは、不気味な燐光を放つ一メートルほどの列柱。

 次いで、夕暮れのような薄明の中に浮かび上がる、つややかな黒曜石を敷き詰めた広場と、それを取り囲む広大な廃園だった。

 黒い床面に映りこむ列柱の青白い燐光は、少々不気味ではあるが、幻想的と言えなくもない。

 広場中央には、同じく列柱に囲まれた円形の舞台。


 舞台の床には幾何学模様の法円が刻まれ、弱いながらもすでに燐光を放っていた。


 術圧はない――まだ。


 だが、それも時間の問題に思われた。

 舞台上には、すでに人影があったからだ。


 法円の対角線上に四つ。中央に一つ。


 皆、黒い長衣を着て、フードを目深に被っている。

 中央の一人は、他の四人と比べ小柄だった。

 他の四人との違いは他にもあり、中央の者の長衣には、赤くきらめく宝石が散りばめられた瀟洒な縫い取りが施されている。


 その人影に、竜介の目は惹きつけられた。


 が、そのとき、燐光や薄明の弱い光が届かない廃園の闇の中から、まるで闇そのものが分かれるように、いくつもの黒い影が彼らめがけて襲いかかってきた。

 鷹彦が軽く舌打ちする。


「っち、おいでなすったか」


 だが、


「待て」


 風で影を散らそうとする彼を、竜介と黄根がほぼ同時に止めた。

「これは実体のない『影』だ。俺たちには何もできない」

 竜介がそう言ったが、

「え?そうなの?」

 きょとん顔で長兄を振り返る彼の青く輝く身体を、「影」たちが次々にすり抜けていく。

 黄根が呆れたような口調で言った。


「坊主……お前は今、我々が来たことを龍垓たちに大声で教えているのだぞ」


 彼らが黒帝宮にいることを、もしかしたら龍垓たちは「影」からの報告ですでに知っていたかもしれない。

 が、力を使うことは、その情報に加えて、自分たちがすでに禁術を乗っ取る計画を実行に移したと言っているようなものだ。

 黄根の指摘に、鷹彦は青い光を急ぎ消す。

 しかし、


「もう遅い」


 彼ら七人のうちの誰のものでもない、だがよく知った声が聞こえた。


 迦陵だった。


※挿絵はCopilot Designerで生成したAIイラストです。

2024年5月2日木曜日

紅蓮の禁呪144話「竜と龍・一」

 


 そのかすかな術圧を感じたとき、龍垓はわずかに頬を緩め、迦陵は眉を顰めた。


 黒帝宮の前庭、迷宮庭園。

 「庭園」とは名ばかりの廃墟である。

 植栽に水を供給するために引かれた水路は虚ろにひび割れ、立ち枯れた植物たちの枝や根がはびこり、庭園を飾る列柱や彫像を痛めつけている。

 今にも倒壊しそうな木々や柱から幾重にも垂れ下がる枯れた地衣類の影は、不気味な亡者の群れのようだ。

 しかし今、気の遠くなるほど永い時間放置されてきたその廃園の中で、往年の輝きを取り戻しつつある場所があった。


 庭園中央にある、円形広場。


 つややかな黒大理石を敷き詰めて造られたその場所は、同じ黒大理石の列柱に囲まれ、中央には直径十メートル程度の円形舞台が設けられている。

 床から舞台までは同心円状に段差の低い階段が二段。

 この円形広場周辺と、そこから宮殿までの通路だけは、地衣類や植物の根などが取り払われ、昔ながらの美しい床面が顔をのぞかせていた。

 舞台の上には床材と同じ黒大理石の円柱が、正方形を描くように四つとその対角線が交わる中央に一つ、建っている。

 大人の胴回りくらいの太さに、腰くらいの高さのその円柱には、他の列柱とは違い精緻な饕餮文が彫り込まれていて、彼らはそれらに瑕疵がないか確かめて回っていた。


 彼らが術圧を感じたのは、そのときのことだった。


 それは遠くで投げ入れられた小石が水面に起こした波紋のように微かなものだったが、彼らはその術圧が雷迎術のものであることを即座に感じ取った。


「主上……」


 迦陵が苦々しい気持ちで言いかける。

 が、龍垓はそれを皆まで聞く前に遮った。


「儀式の日延べはせぬ」


 そのきっぱりした口調に、迦陵は眉間のしわを深めたが、何も言わなかった。

 闇が最も深く、黒珠の力が高まる冬の新月。

 これを逃せば禁術の起動が難しいことは、迦陵もよく知るところだからである。


 しかし、と迦陵は思う。


 たった今雷迎術を発動させたのは、おそらくあの竜介という碧珠の若者であろう。

 彼が龍垓と同じ顕化の持ち主であることを、迦陵たちは日可理の記憶のおかげで知っている。


 そして、今の術圧が彼ら黒珠のもとにも届くであろうことは、碧珠の者たちも承知しているはずだと迦陵は思っていた。

 つまり、これは彼らからの事実上の宣戦布告なのだ、と。

 新月の夜、彼らがこの黒帝宮へ来るつもりであることは間違いない。

 もとより喜んで相手になるつもりではある。

 ただ一つ、懸念があるとすれば、自分が「影」になってしまった場合、再び受肉するまで龍垓を一人にしてしまうことだけが心苦しい。


「そう案ずるな」


 不機嫌に黙り込む部下をどう思ったか、饕餮文の確認を終えた龍垓は迦陵を振り返ると、再び口を開いた。

「向こうから封滅の術を受けに来るのだ、引導くらい渡してやろうではないか」

 黒珠の王は自分のそばに寄り添うもう一つの人影に一瞥を送り、そう言ってほくそ笑む。

 迦陵はもはや何も反駁せず、

「御意」

 とただ一言返して頭を垂れた。


 封滅を受ける前、己が何者であったかという個人としての記憶など、とうにない。

 残っているのは主への忠義のみ。

 その思いが己の姿を人として保てている所以だとすれば――

 ならば、その忠義を全うすることの他に、進む道があろうか。


 宮殿内へ戻った彼らを、黒い長衣を着てフードを目深にかぶった「影」が出迎えた。

 フードの奥の闇に、白木の仮面が浮かんで見える。

 迦陵たちが「雑色(ぞうしき)」と呼んで使っている者たちである。

 雑足の長衣の中身は半実体の「影」だが、仮面の額に刻まれた呪符が、不安定な半実体である彼らに仮の実体を与えている。

 個々の記憶や性格などは失われているため、ただ言われたことを言われた通りにこなすだけの存在だ。

 それでも頭数が多ければそれなりに役に立つ。

 龍垓たちを出迎えた雑足は、風が吹き抜けるような音で言葉をつむぎ、伺候者の受肉が完了したことを告げた。


「間に合ったな」


 満足げにうなずく主を、迦陵は複雑な思いで見ていた。

 封滅の儀を他日とする理由はもうない。

 新月は、明日に迫っている。

 再び闇に沈むか、それとも勝利を手にして呪われた楽園を築くか。


 いずれにしても、明日、すべてが終わるのだ。


 ***


 新月当日、朝。

 竜介たち紺野家の三兄弟と泰蔵・玄蔵親子、白鷺家の姉弟、そして黄根老人の八人は、紺野家から最寄りのヘリポートに集まっていた。

 当初の計画では、ここから東京のわだつみホールディングス本社ビルまで白鷺家のVTOL機で一直線の予定だった。

 ところが、新月が近くなるにつれ、東京の気候はどんどん不安定になり、連日零下二十度を下回る極寒と、断続的に襲ってくる激しい雪雷による停電とで、あらゆる航空機に飛行許可が降りなくなっていた。

 本社ビルの屋上ヘリポートには融雪器もあるが、停電ではおそらく機能していないだろう。

 何より、ヘリコプターなどの垂直離着陸機は、雪上着陸ができない。

 ローターの風が巻き上げた雪で視界がホワイトアウトすれば、墜落の危険があるからだ。

 青梅市まではかろうじて飛行許可が降りたのでVTOLを使えるが、そこからは陸路ということになった。

 新月を迎えるのは夕方六時四十三分。

 黒珠がその時刻に封滅の儀式を始めることは、日可理が迦陵と共有した記憶からの情報なので、間違いない。

 それまでに彼らは本社ビルにたどり着いていなければならない。

 青梅市の民間ヘリポートはきれいに除雪されていて、虎光が操縦するVTOL機は無事着陸することができた。

 さらにそこから先の道路も、消防庁の除雪車が特別に先導してくれる手筈になっていた。

 通常なら本社ビルがある新宿までは、一般道を通ったとしても二時間もあれば余裕で着ける距離である。

 しかし、除雪車は作業中、一般車両と同じ速度では走れない。

 それに、竜介たちが乗る十人乗りワゴン車も、念のためチェーンを巻いているため、いつも通りの速度を出すのは危険だ。

 そんな理由から、通常の倍以上の時間をかけてのドライブとなったわけだが、これは彼らにとって、久しぶりにじっくりと東京の街並みを眺める機会ともなった。


 まだ日暮れ前だというのに、空にかかった分厚い雲のせいで薄暗い街並みには灯る明かりもない。

 沈黙している街灯や信号機からぶら下がるつららが、まるでうなだれているようだった。

 切れた送電線があちこちで地面に垂れ下がっているが、これも火花が散っていたりすることなく、ただ静かに凍っている。

 安全のため送電をやめているのか、それとも変電所自体がこの寒さで支障をきたしているのかは、わからない。


 あらゆるものが雪と氷に閉ざされた廃墟。


 それが、彼らが久しぶりに見た東京の姿だった。



*筆者注:挿絵はAIによるもので、実在の建物とは関係ありません

2024年3月19日火曜日

紅蓮の禁呪143話「凍える世界で・十」

 

「それはありがたいけど、移動の時間がかかりすぎないか?」


 竜介が言った。

 日可理たちが今滞在している滋賀県のホテルからは、高速を飛ばしても片道三時間。

 一日で調整がうまくいくとは限らないのに、時間のロスが大きすぎる。


 しかし、術の調整について、彼女以上の助言者は望めないから、悩ましいところではある。


 すると、日可理はこともなげにこう答えた。


「わたくしが直接そちらへうかがうわけではございませんよ?」



 会合から三日目の早朝。

 日可理と約束した時間に竜介が結界石の広場に着くと、淡い水色のメイド服を着た少女がふわりとどこからともなく姿を現した。

 日可理の式鬼、朝顔である。


「おはようございます、竜介様」


 朝顔は雛人形のような白い顔にあるかなきかの笑みを浮かべると、日可理の声で言った。


 日可理は式鬼を媒体としてこの場に「来た」のだった。

 これなら移動時間はかからない。

 それに、実物の日可理と二人きりになることについて、いまだ多少なりとも心理的抵抗がある竜介にも、これは願ったりだった。


 時間が惜しい彼らは、すぐに術の調整に入った。

 竜介が二日前に術の起動に使ったのと同じ法円――龍垓の記憶と同じもの――を、自分の足元の地面に出すと、朝顔は早速その上にかがみ込み、法円を覗き込むようにして調整を始めた。


 彼らが術に使う法円は、中心の円を囲んで四つの小円が前後左右に配置され、それをさらに大きな円が囲んでいて、小円と小円の間を複雑な幾何学模様が埋めている、というのが基本的の形だ。

 幾何学模様は術によって異なっているが、雷迎術の場合は、他にも内部の小円のラインが二重になっていたり、一番外側の円のさらに外縁も幾何学模様がとり囲んでいるという違いがあった。


 これら小円のうち、術者に対して前後に並ぶ二つが力の収束と放出を制御する、いわば術の発動に最も重要な部分で、たいていの術はここを正しく調整しさえすれば、失敗することはない。

 だから、竜介も日可理も、前回の失敗の理由は、龍垓の法円をそのまま使ったがために、自分で制御できる以上の気を集めてしまったか、あるいは力の収束と発動の微妙なバランスが崩れたのだろう、ということで同意していた。


 朝顔が小円のどれかに触れるたび、法円のすべての幾何学模様が形を変えていく。


 やがて調整が終わったのか、朝顔は立ち上がって法円から距離を取ると、仕上がりを確かめるように眺めてから竜介に言った。


「では、術を立ち上げてみてください」


 竜介はうなずき、全身の気を高めた。

 彼を取り巻く青い光輝がまばゆいほどになるにつれ、逆に空はにわかに分厚い雲がわきあがって暗くなっていく。

 彼の周囲で、金色の稲妻が弾け躍る。

 周囲の木々は風もなくざわめき、驚いて飛び去る鳥の声や羽ばたきが騒がしい。

 重苦しさを増す術圧の中、竜介の視界の端では法円の周囲の小石が重力を失い、浮き上がるのが見えた。

 そのとき、くるくると形を変えていた法円の模様がぴたりと停止し、一際強く輝いた。

 一昨日はこの直後、法円に収束した超自然の力が一気に体内を駆け抜け、凄まじい衝撃と落雷で危うく大火傷を負うところだった。

 日可理の腕前を信じないわけではないが、それでも竜介は衝撃に備えて思わず身構えた。


 ところが。


 衝撃はなかった。

 それどころか、次の瞬間、法円の輝きは気が抜けたように弱くなり、術圧も消えてしまったのである。


 調整した法円では、術は起動しなかった。

 一昨日のように寝込んだりするよりはいい。

 が、逆を言えば、調整前の設定がある意味、「正しかった」ということだ。

 少なくとも、術を発動できたのだから。


 前後二つの小円だけでなく左右のものまでとなると、とたんにやることが複雑になるようで、その後、法円の調整は難航した。

 朝顔の、基、日可理の説明によると、術の威力に直接関わる前後の小円に対し、左右の小円は術を発動させる時間と空間を指定するためのものらしい。


 中の小円がすべて二重という法円は、白鷺家に伝わる古文書で見たことはあるが、実際に扱うのは初めてだ、と日可理は正直に言った。


 普通の法円とどう違うのかと竜介が尋ねると、

「より高次のエネルギーにアクセスできるので、術の威力が大幅に変わってきます」

 と、朝顔が日可理の声で答える。

「より高次のエネルギー?」

 おうむ返しに尋ねると、彼女は言った。


「御珠の力そのものということです」


 一般的な術は術者本人の持つ霊力や、天地に満ちる「気」の力を借りるが、雷迎術の法円はさらに術者の霊力の源たる御珠そのものにアクセスし、その力を利用できる、ということらしい。

 その代わり、法円の調整が間違っていれば、命取りになりかねない。

 日可理の説明を聞いて、竜介はぞっとした。

 一昨日、大した調整もせずに初見で起動して火傷と過労程度で済んだ自分は、とてつもなく幸運だったのだ。


 この日は午前にもう一回、午後にも一回と、合計三回、術の起動を試みてみたが、結局一度も術を発動させることはできなかった。

 三度目の失敗の後、朝顔が言った。


「申し訳ございません、本日はこれまでとしたいのですが、よろしゅうございますか?本宅の文書に今一度、当たってみたいのです」


 式鬼は基本的に無表情だが、日可理の声の調子から察するに、焦りと落胆が増しているようだ。

 竜介も疲労を感じていたので、彼女の申し出を快諾した。

「今日はありがとう。手間をかけさせてすまない」

 朝顔はゆっくり頭を振った。

「わたくしは当然のことをしているだけです。むしろ、汚名を雪ぐ機会をいただけて、わたくしこそお礼を申し上げます」

 ではまた明日、と言葉を残し、式鬼はその場の景色に溶け込むようにして姿を消した。



 冬の日暮れは早い。

 そして、木々が茂る山の日暮れはさらに早く、竜介が寺に戻る頃には空はまだ明るいものの、足元はすでに薄暗くなりつつあった。

 よほど憔悴が顔に出ていたのだろう、泰蔵・玄蔵親子が気を遣って、熱い風呂と少し早い夕食を用意してくれた。

 そのおかげで、落ち込んだ気分は一旦、多少上向いたけれど、未明から降り出した雨に再び彼の気持ちを空模様と同じく曇らせることとなった。


 日可理に今日の法円の調整は中止にする旨、電話をいれると、彼女も少し疲れた声で残念だと言った。

「わたくしは引き続き、書物に当たります」


 竜介も、何もしないよりはましだろうと思い、泰蔵、玄蔵の手を借りて寺の書庫から紺野家に伝わる文書を持ち出し、雷迎術に関する記述がないか調べてみることにした。


 最初は彼一人で書庫にこもるつもりだったのだが、薄暗い裸電球の明かりしかないのはまだしも、底冷えのする書庫で暖房器具を使うための電源がないのがつらくて諦めたのである。


 冷たい無情の雨はその日の夜までに雪に変わった。

 東京上空に停滞している寒波が、どうやらもうここまで来たらしい。

 そのことがさらに竜介たちの気持ちを焦らせる。


 だが、さらに翌日、新月まで残りあと二日となったところで、転機は訪れた。


※挿絵はAIイラストです。Bing Image Creatorにて生成しました。

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カイロ歴史地区観光 エジプト滞在最終日 です~! 本日のお土産屋さんタスク😂はカルトゥーシュのお店だったんですが、ガイドさんによると 「オーナーが寝坊したので11時過ぎないと開かない」 というホントかウソかわからない理由で後回しになりました😂 この日の行き先は旧カイロ地区。 ...