2025年3月19日水曜日

紅蓮の禁呪156話「禁術始動・三」

 


 禁術が起動した後のことはよく憶えていない。

 凄まじい術圧と目の前の碧珠の強すぎる輝きに思わず目を閉じた次の瞬間、玄蔵は不意に身体が軽くなり、同時にまぶた越しに突き刺すようだったまばゆさが消えていることに気づいた。

 そういえば、耳を聾する龍垓の咆哮も、紅子が発していた、全身の細胞一つひとつが震えるようなあの「音」も、いつしか聞こえなくなっている。

 静かだった。


 黒珠は封じられたのだろうか?

 禁術はそんなに一瞬で終わるものなのか?


 訝りながらも目を開ける。

 そこには、饕餮文が刻まれた柱と、黒大理石の舞台、そして薄明に沈む黒珠の宮殿と廃園――があるはずだった。


 ところが、まず玄蔵の目に入ったのは見慣れた山門だった。


 小鳥の声と山間を渡る風の音、遠くから聞こえる街の喧騒が耳に届く中、彼は慌てて視線を巡らせた。

 どこもかしこも一面の雪で照り返しがまぶしい。

 けれど、目を細めていても見違えるわけがない。


 そこは自分の生家――泰蔵の寺の前庭だった。


 キンと冷えた風が頬に触れ、雪に埋もれた足先は氷のように凍え始めている。

 夢ではない。

 黒珠の宮城で最後に見たのと同じ場所に泰蔵や鷹彦、日可理の姿もあった。

 彼らも玄蔵同様、目に見えて当惑している様子だったが、互いの姿を認めるや、安堵の表情を浮かべる。

 新雪のあちこちに志乃武、竜介そして紅子の三人が倒れているのもすぐに見つけた。


 しかし、黄根老人の姿だけは、どこにもなかった。


 神出鬼没のあの老翁のこと、きっと自分の力を使って帰宅したのだろう――

 その場では互いにそう言い合って納得し、黄根家にはあとで連絡を入れることにして、彼らはとりあえず目の前の三人を目の前の家に運び入れ介抱することにした。


 家の時計は朝の八時をすぎたところだった。

 冷凍庫のように冷え切っていた屋内が暖房で温まると、ほどなくして竜介が意識を取り戻した。

 紅子の安否を気にする彼に、そばで志乃武の服――右袖がなく、血まみれの――を着替えさせていた玄蔵が、娘は無事だと伝えていると、別室でこちらも紅子の血だらけの服を着替えさせていた日可理が、当惑した様子で彼らのいる客間に入ってきた。

 紅子に何かあったのかと玄蔵が尋ねると、彼女は頭を振り、

「紅子さまのお着替えは問題なく終わりました。ただ……」

 と、続けた。


「実は、わたくしの力が使えなくなってしまったのです。式鬼も、法円も呼び出せなくて……。皆様はいかがですか?」


 玄蔵と竜介は驚き当惑して顔を見合わせる。

 日可理の質問に彼らが答えようとしたそのとき、再び襖が開いて、今度は鷹彦が顔をのぞかせた。

「竜兄、気がついたんだ!よかった~!」

 彼は兄の顔を見るなり、一瞬、嬉しそうにそう言ったが、すぐに伝えなければならないことを思い出したらしく、神妙な顔に戻り、

「……っと、それで、師匠が今、うちの母屋(おもや)――紺野家の本邸――に電話しておふくろさんと話してるんだけど、今さっき黄根家から母屋に連絡があって」

 と、少し早口になる。

 黄根家からの電話によると、と彼は言った。


「黄根さん、亡くなったんだと」



 その日は思いの外、長い一日になった。

 紅子と志乃武の容態が不明なため、当初は救急車を呼ぼうという意見もあったが、泰蔵から連絡を受けた英莉が紺野家と古馴染みの病院に話を通してくれ、彼女の車でそこの救急外来まで二人を運べることとなった。

 ちなみに紅子と志乃武が意識不明になった理由については、

「早朝、本邸から寺のほうへ山伝いに移動しようとして雪で道を見失ったらしく、到着が遅いので探しに行った泰蔵が倒れている二人を見つけた」

 ということにしておいた。

 早めに出勤してきた滝口と斎に留守を任せて、泰蔵の寺までやってきた英莉の車は普通のセダンだが、後部座席とトランクがつながるようになっている。

 彼女はフラットにした後部座席に紅子と志乃武の二人を寝かせ、助手席には志乃武の家族である日可理を乗せて、病院へ出発して行った。

 玄蔵は義父の生家である黄根家に悔みの電話を入れ、葬いの日取りなど聞いたりしてから、ようやく一息入れる時間ができた。

 台所で竜介と鷹彦が作ってくれた多めの朝食を泰蔵と平らげたあと、彼ら四人はしばし仮眠を取ることにしたが、その眠りはそれから二時間ほどで遮られることとなる。

 それは病院に行った英莉からの電話で、連絡が早かったのは、紅子も志乃武も命に別状がなかったからだ。

 二人とも軽い脱水症状と貧血、過労のほかは健康状態にとくに異常がないということで、報告を受けた四人は全員、安堵した。

 医師は言った。

 念のため一晩、様子を見ますが、明日には目を覚ますでしょう――などなど。

 そして、志乃武はまさしく医師の見立て通り、翌日の昼近くに意識を取り戻した。


 しかし――紅子の場合は、その見立てははずれてしまった。


 * * *


「玄蔵おじさん、こんにちは。あ、師匠も来てたんですね」

 そう言って病室に顔を出したのは、虎光だった。

「やあ、虎光くん。いらっしゃい」

「おう、来たか」

 ここは本来二人部屋だが、今は片方のベッドは空いているので、気兼ねなく話せるのがありがたい。

 それぞれに挨拶を返す玄蔵と泰蔵の表情が、思いの外明るいことに虎光は少しホッとしながら、消毒の匂いがする白いベッドに仰臥する紅子の顔を伺う。

 白い顔がいつもより少し血色よく見えるのは、窓から差し込む暖かな午後の日差しのせいだろうか。

 ベッドの傍らにはバイタルや輸液をモニターしている機器が、規則正しい電子音で彼女の命の音を刻んでいた。

 紅子が眠り続けて、今日で五日目になる。

 CTやMRIなど、できる検査はすべてやったが、どこにも異常は見つからなかった。

 医師の説明によると、彼女はただ「眠っている」のだ。

 それなら、目覚めるのをひたすら信じて待つしかない。

 落ち込んでいても事態は変わらないなら、せめて明るく過ごすのだというのが、泰蔵・玄蔵父子の考えらしいが、それでも不安に駆られることもあるだろう。

 だから、連日、紺野家本邸の誰かが見舞いに行くように気を配っていた。

 特に竜介は毎日来ていたのだが、五日目の今日、彼の姿はここにない。

「兄貴が、師匠とおじさんによろしく伝えてくれと言ってました」

「そういえば今日出発だったな」

 泰蔵が思い出したように言うと、玄蔵が、

「送って来たのかね?」

「はい、ついさっき駅まで」

 虎光は続けて、竜介から預かってきたと言って、小さな紙袋を取り出した。

「紅子ちゃんが目を覚ましたら、渡してほしいそうです」

 玄蔵は無言だったが、泰蔵は

「なんだ、菓子類か?」

 と興味津々で紙袋を受け取ると、ためつすがめつ眺めた。

 それは黒くて張りのある厚手の紙でできていて、イタリック体で書かれたブランド名か何かが小さく箔押しされ、持ち手に赤いリボンが結ばれている。

 一見して、ちょっとした気軽なプレゼント、という雰囲気ではない。

「なんだ、意外に重いな。腕時計かな」

「まあヒントとして言えるのは、昨日、兄貴が自分のといっしょに買ってたってことくらいですかね」

 虎光が思わせぶりに言うと、それまで黙っていた玄蔵の頬がぴくりと動いた。


「まさか……指輪……!?」


「いやいや、そんな大げさなものじゃないですって」

 虎光が慌てて否定すると、泰蔵も

「それはさすがに気が早すぎるだろう。鷹彦じゃあるまいし」

 と呆れ顔で言う。

 だが玄蔵は納得しない。

「でも、見るからに高そうだし……念のため中身を確認したほうが」

 などと言い出すので、泰蔵はやれやれと言わんばかりに額を押さえ、虎光は苦笑とともに泰蔵の手から紙袋を取り返して玄蔵から遠ざけた。

「困ったな。紅子ちゃん宛てなんですってば」

「紅子はまだ未成年なんだから、親のわたしが確かめる必要が」

 ある、と玄蔵が言いかけたそのとき。

 かすかに、「うーん」と誰かがうめいた。

 三人は顔を見合わせ、自分たちでないと目で頷き合うと、紅子を見た。

 彼女は大きく伸びをすると、眠そうに目をこすりながら、言った。


「んー……もう、うるさいなぁ……よく寝てたのに、枕元で騒がないでよ」


※挿絵はAI生成です。

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