人の意識を神的領域にまで引き上げるための手法は、断食や滝行など肉体的な限界を究める苦行から、酒や向精神作用のある薬草・菌類などを用いた儀式に至るまで、有史以前から枚挙にいとまがない。
それはとりもなおさず、己という雑念にまみれた存在を超えた先に、何かがあると人が強く信じてきた所以であろう。
舞踏や音楽も、古来より人と神とをつなぐよすがであり、人の意識を高みへと導くものとされてきたわけだが――
今、世界を震撼させている「音」は、歌や音楽というよりはもっと原始的なものだ。
神女の喉から――否、その全身から放たれているその「音」こそ、術を起動するための最後の鍵だった。
紅子にとって、これは二度目の儀式となるが、黒珠のときよりも澄んだ音に聞こえるのは、五つ目の魂縒を受けたせいだろうか。
自分の身体が――おそらく玄蔵や黄根老人、白鷺家の二人と同じく――凄まじい術圧に耐えているのを感じる。
対して紅子は、自分の意識が「音」によって押し上げられるように感じていた。
さらに遠く、さらに高く――
時間の感覚は消失し、一瞬とも永遠とも思える旅の果て、彼女がたどりついたそこには、「彼ら」がいた。
紅子の目に――意識のみの状態なので、この表現は正確ではないのだが、視覚として彼女が感じたという意味で――最初、「彼ら」は五色に輝くモヤか霞の塊のようだった。
それが次第に形がはっきりしてきて、やがてそれぞれ御珠を表す色の長衣をまとい、フードを目深にかぶった巨人の姿となった。
フードの中の顔はわからない。
全身を覆う長衣のせいで、性別も、年齢も不明だ。
これは「彼ら」の仮の姿だ、と紅子の脳裏を直観がよぎる。
「彼ら」は本来は実体を持たず、ただ純粋な力の存在なのだ。
今は紅子の無意識が、自分にとってわかりやすい姿を彼らに投影しているにすぎない。
そう、「彼ら」はまるで鏡のように、認識者の無意識によって姿を変えてしまう。
すなわち、「彼ら」を母性的な存在だと捉える者には女神の姿となるし、「彼ら」の強大な力を恐れる者には、見るもおぞましい怪物となるということだ。
過去、魂縒を四つの御珠からしか受けずに禁術を立ち上げた神女が命を落とした原因は、おそらくそこにあると思われた。
御珠の一族にとって、魂縒とは「意識を高位に引き上げる」手段であり、とくに炎珠の神女は、五つの魂縒によって人として到達しうる最高位、いわゆる「悟り」の境地を手に入れてきた。
そして禁術は本来、「彼ら」、つまりさらに人智を超えた高位の存在とつながるための手段だったのだが、長らく黒珠を封印する術としてのみ使われてきたために、「封滅・封禁術」と誤認されて伝わってしまったのである。
この神域にたどり着くに足るレベルにまで意識を十分に引き上げることができなかった神女たちが、「彼ら」の純粋で巨大な力に恐怖し、哀れにも自ら精神を崩壊させ
てしまったことは想像に難くない。
黒珠の伺候者たちによる最初の禁術が完全に起動していたなら、紅子も同じ道をたどったことだろう。
しかし。
今の紅子の中に、恐怖はない。
ただ、「彼ら」を神々しいと思う。
そして「彼ら」は、歓迎という以上に直接的な「愛」ともいうべき温もりで、彼女の意識を包んでいた。
ここではどんな望みもかなう。
直観がそう告げる。
ここはすべての始まりであり終わり。
時間は存在せず、過去も未来もすべてがここにある。
善も悪も存在しない、あらゆる現世の価値観から切り離された、神々の住まう常世の国なのだ。
いかなる望みも、願った瞬間にかなう――
それを直観したとき、紅子は初めて畏怖を感じた。
自分の心の動き一つで、世界が変わってしまうかもしれない。
けれど、彼女の中でずっと響き続けている一つの言葉が、その畏れを振り払う。
すべてを終わらせるのだ。
それは、まるで黄根老人がすぐそばでそう「言っている」かのようだった。
他ならぬ自分自身のものでもある、そのたった一つの望みを、彼女は「彼ら」に伝えたところ、「彼ら」は少なからず驚いたようだった。
ざわめきが、さざなみのように紅子の意識を撫でた。
ここではいかなる望みもかなう。
その望みは世界を変えるだろう。
それでも望むのか?と念押しするような「彼ら」の躊躇が伝わってきたが、同時にそれは、紅子の躊躇でもあった。
脳裏を、数々の見知った顔がよぎる。
彼らを落胆させてしまうだろうか。
怒らせることになるかもしれない。
それでも――
終わらせねばならないのだ。
今ここで、すべてを。
* * *
雷迎術を起動した次の一瞬は、生きた心地がしない。
自分の身体がまるで液体になったような、なんとも心許ない体感だけを残して、残りの感覚はすべて消失してしまう。
実際のところ、この術は物理的な肉体を、物質と霊体の中間のようなものに根本から組み替えてしまうらしいから、感覚が消えるその一瞬、術者は限りなく死に近い経験をしているのかもしれない。
自分がこれを味わうのは今回で二度目だが、おそらく何度やっても慣れることはないだろう――と竜介は思い、彼が日可理から受けた黒珠の記憶の中にいる龍垓も、同じことを感じていたと気づいて、妙な親しみを覚えた。
術による肉体変成は凄まじい発光と発熱反応を引き起こす。
術者本人にとっては数分にも感じられる変成だが、客観的な時間ではほんのコンマ一秒ほどの出来事だ。
その一瞬で周囲には熱風とプラズマの嵐が発生、急激な気温の変化で空気中の水蒸気が霧を作る。
視界の消失。
しかし、彼が得た新たな「身体」には、物理的視界などもはや必要ない――今や森羅万象あらゆる超自然の力に自在にアクセスできるのだから。
龍垓が変化した巨竜の凄絶な雷撃を受けても、静電気に触れたときのように感じるだけで、硬質な鱗はびくともしない。
爪と牙が火花を散らし、欠けた鱗が弾け飛ぶ。
鱗の下の皮膚が切り裂かれても、鈍い痛みがあるだけ。
御珠からの力の供給のおかげで、その傷もたちまち消える。
俺は今、不死身だ、と竜介は思った。
身の内から湧き上がる超自然の力、それを振るい戦う高揚感、万能感、解放感。
人だったときの自分が、ひどく矮小で弱々しく思われる。
龍垓がこの術を「何度も使うべきではない」と考えていたのは、この感覚に慣れすぎてしまうことを恐れたのかもしれない。
ぶつかり合う光と闇。
紅子たちが今しも禁術を立ち上げようとしている法円めがけて、黒珠の二度目の雷撃が放たれ、それを防ごうとして黒い巨竜の前に立った竜介は、相手の左頬の黒鱗がわずかに裂け、赤黒く焼けただれたような傷が覗いていることに気づいた。
彼がつけた傷――ではない。そうであれば、すぐに癒えてしまうはずだ。
そのとき。
凄まじい術圧が法円から同心円を描いて広がった。
禁術が起動した。
黒い巨竜の左頬の傷が見る間に広がり始め、黒曜石のような鱗が剥がれ落ちる。
巨竜の咆哮に、世界が震える。
その声は、苦痛の悲鳴か、それとも勝者への呪詛か――
戦いが終わる予感の中、竜介は不意に虚無感に襲われた。
百年後か、千年後かはわからない。
けれど、いつか封印がほころびたとき、自分たちの子孫はまたこうして命のやり取りをするのだろうか。
人ならざる力を持ち、口にはできない秘密を抱えたままで、また何百年も血を継いでいく……。
この「呪いと祝福」から救われる日が、今すぐでなくていい、いつか来るようにと――彼は祈った。
0 件のコメント:
コメントを投稿