2024年1月25日木曜日

紅蓮の禁呪141話「凍える世界で・八」

 


 カーテンの隙間から差し込む日差しがまぶしい。


「春香~!起きなさい!」


 台所から、母の呼ぶ声が聞こえ、春香はものぐさに布団から手だけを伸ばして枕元の目覚まし時計を見た。

 短い針の位置は、おおまかに八時。

 室内の気温はまださほど上がっていない。

 布団から出るべきかどうか逡巡していると、トドメの一声。

「朝ごはん、片付けちゃうわよ!」

 観念して布団を出た。

 パジャマの上にフリースを羽織って、のろのろとダイニングキッチンへ。

「冬休みだからっていつまでもダラダラ寝てちゃダメでしょう」

 母の小言に適当な相槌を打ちながら、春香は卓上に並んだ朝食を食べ始めた。


 休日の、いつもの風景だ。


 ここが、春香の東京の自宅ではなく、父親の単身赴任先である北九州市の社宅だということを除いては。



 紅子の父、玄蔵が何やら改まった様子で手土産を持って松居家を訪ねたのは、今から二週間ほど前のことだった。

 彼は玄関に出てきた春香と彼女の母に、しばらく実家に帰ることになった、と言った。

 つまり、一色邸を無人にするということだ。

 これは紅子の身に何かあったに違いないと思い、春香は紅子の安否を尋ねたが、彼は曖昧に言葉を濁して答えない。

 いよいよ彼女が訝しく思っていると、代わりに彼は二人に向かってこう言った。


「すみません。こんなことを言うと変だと思われるかもしれませんが、一つ忠告させてください。今すぐ東京を離れてください。今年の冬はこれから大変な寒波が来て、この街は住めなくなります」


 それだけ言い残して帰る玄蔵の後ろ姿を、春香たちは呆然と見送るしかなかった。


「紅子ちゃんのお父さん、いったい何が言いたかったのかしらねえ」

 当初、春香の母はそんなふうに冗談まじりに笑い飛ばし、気にする様子はまるでなかった。

 確かに、こと東京に関していえば、十二月に入ってからは冷え込む日が多くなってはいた。

 しかし、気象庁の予報は全国的に暖冬だったし、東京上空に居座る寒気もいずれは消えるだろうと予測されていたのだ。

 そしてそれは、玄蔵の訪問のまさに翌日から、急激な冷え込みと雪の日々が始まったあとも、変わらなかった。


 少なくとも、最初の数日は。


 気象庁が手のひらを返したように、この寒気は年明けまで終わらないと言い出し、東京の天気予報が連日雪のマークだけになるのに、さほど時間はかからなかった。

 メディアは、何百年かに一度の異常気象だと騒ぎ、一週間もすると、雪のせいで交通機関が麻痺し始めた。


 各教育機関は通勤・通学困難を理由に冬休みの開始を大幅に繰り上げ、春香の高校も大量の宿題とともに早い冬休みが始まった。

 最初は早まった冬休みを喜んでいた春香だったが、連日の雪で、友達と会うことさえ思うに任せず、だんだんうんざりし始める。

 気圧と気温の急激な変化からくる片頭痛で暗い顔をしている母と、家の中に二人きりともなれば、なおさらだ。

 そんなとき、母がこんなことを言い出した。


「ねえ春香、学校が始まるまで、お父さんのところに行かない?」


 聞けば、単身赴任中の父に電話で今の状況を相談したところ、少し狭いがこちらに来たらどうかと父から言われたのだという。

 北九州市は雪どころか、ここしばらく雨すら降らない上天気続きらしい。


 実は、冬休みに入る前、クリスマスに友達の家に集まってパーティーをしようという計画があったのだが、母がこの話を持ち出した頃には、参加する予定だった友人たちの半分以上が、寒波を避けて東京を離れてしまっていた。


 東京の自宅に固執する理由など、春香にはもうなかった。


 交通経路については、北九州まで行く新幹線の切符がどうにか確保できた。

 けれど、とにかくどの列車も雪で本数が減っているせいで超満員だったのは閉口した。

 春香たちと同じく大きなスーツケースを転がしている乗客も多く、


 みんな、東京から逃げようとしている――


 春香はそんなことを思った。


 到着した北九州市の太陽は、道中の疲れも吹き飛ぶほど、まぶしかった。

 父から聞いていた通り、日差しが暖かく、風さえ温い。

 天国に来たみたいね、と母娘は笑いあった。

 本当に久しぶりの、心からの笑顔だった。


 2LDKの社宅は家族三人が暮らすには思っていた以上にやや手狭だったものの、冬休みの間だけ、と思えばさほど気にもならなかった。


 だが――


「――昨日の東京の最低気温はマイナス十五度で、記録に残る東京の気温としては史上最低を更新しました。

 都内では水道管の凍結や破裂による断水が続いているほか、先日の激しい雷を伴う降雪により停電が発生しておりますが、除雪作業が追いつかず、いまだ復旧には至っておりません。

 気象庁は、年明けにはこの寒さは緩むとの見方を示しています。

 しかし、それまでの都民の生活をどうするか、政府は緊急対策本部を設けて対応を急ぐとともに、埼玉や千葉、神奈川など近県への避難を呼びかけて――」


 春香は席を立ち、つけっぱなしになっていた居間のテレビのスイッチを切った。

 陰鬱なアナウンサーの声が途切れ、母が掃除機をかける音や、洗濯機のアラーム音、外ではしゃぐ子供の声が戻ってくる。

 なんの変哲もない、日常の音。

 けれどどんなに目を背けても、日を追うごとに東京が人の住めない街になりつつあることは、間違いなかった。

 まるで、玄蔵の言葉が不気味な予言だったように。



 朝食後、身支度を整えた春香は東京から持ってきた冬休みの宿題を尻目に、チカチカと瞬いてメールの着信を告げている携帯電話のフリップを開いた。

 こちらに来てから、両親に買ってもらった少し早いクリスマスプレゼント。

 この電話のお陰で日本のあちこちに散らばってしまった友人たちと連絡を取れるようになり、寂しい思いをしなくて済んでいる。

 液晶画面にずらりと並ぶ着信一覧の中に、目当ての名前を見つけて、春香の口元はだらしなくにまにまと緩んだ。

「なぁに、一人でニヤニヤしちゃって。気持ち悪いわね」

 通りがかった母のからかう声で彼女は我に返り、慌てて電話の画面を閉じると、

「もー、ほっといてよ!」

 と、怒った口調で言い返す。

 が、嬉しさで声が笑ってしまうため、あまり迫力はない。


 彼女のお目当てとは、もちろん、藤臣の名前だ。


「わたしじゃだめですか?」

 思い切ってそう告白したあの日、藤臣の返事は、

「今はまだ他の人のことは考えられない」

 という、至極当たり前といえば当たり前のものだった。

 けれど春香は食い下がった。

「じゃあ、考えられるようになるまで、待っててもいいですか?」

 もちろん、勝手に待つだけだ。

 藤臣に他に好きな人ができても、恨んだりなんかしない。


 重い女だと嫌われるかも?


 そんな恐れが一瞬頭をもたげたが、意外にも、運命の神様は彼女に微笑んでくれた。

 藤臣は苦笑しながらも、携帯のメールアドレスを教えてくれたのだ。

 彼から来るメールに今のところロマンスの兆候などかけらもなく、内容は日常的なことばかりだが、とりあえず、彼が受験のために東京を離れていて無事なことや、名古屋の親戚の家で世話になっていることなど、近況を知ることはできている。


 クラスの友人たちとのクリスマスパーティーも、初詣もなくなってしまった。

 この冬が終わっても、また元通り学校に通えるかどうかはわからない。

 そんな中、春香にとって、藤臣からのメールは何よりの慰めで、喜びだった。

 ただ――


 春香は、携帯のアドレス帳に目を落とす。

 紅子の名前と、自宅の番号。

 今の不安や喜びを一番に分かち合いたい相手のメールアドレスは、空欄のままだ。


 この空欄が、一日も早く埋まりますように。


 春香は心から、そう願っていた。

2024年1月11日木曜日

紅蓮の禁呪140話「凍える世界で・七」

 


 エレベーターのドアが開いた。

 黒いスーツのSPに先導されて廊下に出ると、分厚い絨毯の中に靴が沈んだ。

 正面にあるナイトラウンジに準備中の札がかかっているのを虎光は横目で見ながら、SPのあとについて廊下を左奥へと進む。

 同行者は彼の隣にいる父、貴泰と、彼らの後ろを歩くもう一人の黒服SPだけだ。

 SPは二人とも片耳に揃いの黒いイヤホンをつけており、そしてどちらも、スーツの左脇に不自然なシワがあった。


 武装しているのだ。


 SPたちは虎光と同じくらい体格がよく、そのせいで日本人男性としては標準的体格である貴泰が、まるで三人のSPに護衛されているようで、ここが路上ならどこの要人かとさぞ注目を集めたことだろう。

 しかしあいにく、廊下は無人だった。

 それどころか、人の気配すらない。

 いっそ不気味なくらい静かだが、これには理由がある。


 ここは、大阪の中心部からやや外れた場所にある、高級ホテルの一つ、その最上階。


 地階の特設駐車場から直通エレベーターでしかたどり着けないこのフロアにあるのは、虎光が先に見たナイトラウンジの他に、イベントホールを兼ねた会議室と、このホテルが誇る最高級の特別客室、「ラグジュアリーデラックススイート」と呼ばれる一室、それだけだ。

 このフロアが一般客に貸し出されることはなく、だからホテルのガイドブックにも一切載ることはない。

 このフロアを借りることができるのは、国賓か、国内政府要人。

 そしてこのフロアへ立ち入ることができるのは、フロアの借り主が許可した人物とその関係者のみ。

 貴泰と虎光親子は、本日、その借り主に呼び出されてここに来たのだった。


 彼ら一行がこのフロア唯一の客室の入り口に到着すると、扉の前にいたSPがマイクを口元に寄せて言った。


「ご到着です」


 すると、豪華な彫刻を施した両開きドアの片側が中から開き、またもう一人、別のSPが現れる。

 彼は「申し訳ございませんが」と断ってから、入室前に身体検査をさせてほしいと言った。

 実はエレベーターに乗る前にも一度、虎光たちは身体検査を受けているのだが、今のこの国の状況と、ドアのむこうにいる人物の地位を考えれば、念には念を入れるということなのだろう。

 これも彼らの仕事なので、虎光も貴泰も二度目の身体検査に甘んじたのだった。


 ようやく許されて入室したそこは、ヴィクトリア様式のインテリアでまとめられた瀟洒な応接室だった。

 入って正面にあるバルコニー付きの大きなフランス窓は、周囲に高い建物がないこともあって空が広く、開放感がある。

 冬至が近いにしては暖かな午後の光が差し込み、眼下に大阪の街並みを一望できるこの部屋は、なるほど要人の起居する場所にふさわしい。

 大阪の中心部にそびえる摩天楼もここから見ると、西日を受けて輝く水晶の林のように見える。

 虎光は思った。


 今の東京とはまるで別世界だな、と。


 部屋の中央に据えられた豪華なソファセットでは、壮年の男性と老人の二人が何やら話し込んでいた。

 壮年男性の背後には、メガネをかけた明らかにSPではなさそうなひょろりとした三〇代くらいの若い男がかしこまっている。

 三人とも仕立てのいいスーツ姿で、壮年男性と老人は議員バッジをつけていた。

 虎光は彼らの双方に見覚えがあった――主に、テレビや新聞などメディア上で。

 一人はこの国の政治を束ねる時の首相。

 もう一人は与党にいくつかある派閥のうち一つの長老だが、首相が所属する派閥ではない――というか、正確に言うなら対立派閥のはずだ。


 今がどれほどの非常時かよくわかる、などと虎光が思っていると、彼らの姿を認めた二人はソファから立ち上がり、貴泰のほうへ歩み寄ってきた。


「久しぶり」


 首相がそう言って貴泰と親しげに握手を交わすと、老人も同様に彼に握手を求め、


「紺野くんだね。黄根から話は聞いているよ」

 次いで、隣りにいる虎光に目をやり、ざっくばらんな口調で言った。

「君の社も、セキュリティサービスを始めたのかね?」


 虎光が吹き出しそうになるのをこらえていると、貴泰が憮然として言った。


「これは私の愚息です」


 おやそれは失敬、と、老人はわざとなのか何なのか大げさに頭を掻く。

 しかし貴泰は表情を変えず、老人のことを虎光に、虎光を老人に、淡々と紹介しただけだった。

 虎光が

「お目にかかれて光栄です。紺野虎光と申します」

 と右手を出すと、老人はその手を握り返し、貴泰に言った。

「立派なご令息で羨ましい限りだ」

 取ってつけたような世辞だが、この老人の持つ雰囲気のせいか、悪い気はしない。

 そのまま彼もこの会談に同席するつもりなのかと思いきや、老翁は

「それじゃ墨塚(すみづか)くん、私はこれで」

 と、首相に一礼すると、ソファに戻らず踵を返した。

 首相はすぐに後ろに控えていたメガネに合図すると、老人を追いかけさせた。

「お見送りいたします」

 メガネのものらしい声のあと、扉のオートロックが閉まる音。

 絨毯が分厚いせいで靴音はなく、まもなく静寂が戻ると、墨塚は貴泰たちに、呼んでおいて茶も出せないことをわびつつソファを勧め、自らも元の場所に腰を落ち着けた。

 虎光が部屋の隅に相変わらず立っている二人のSPにちらりと視線を走らせると、墨塚が言った。


「すまないね。気が散るだろうが、彼らも仕事なのでね」

「ああ、いいえ」

 虎光が慌てて頭を振る。

「お前さんも大変だな」

 貴泰がやや同情的に言うと、墨塚は肩をすくめた。

「それだけ自分がこの国に必要とされていると思えば、悪くないさ」

 それから彼は虎光に視線を移し、

「虎光くんはずいぶん大きくなったなぁ。見違えたよ」

 と、今更ながら驚いて見せる。

 貴泰とこの墨塚首相は大学時代からの友人で、虎光が小さい頃、何度か紺野邸に遊びに来たことがある。

 確か、彼には兄の竜介と同い年の息子がいたはずだ、と虎光が思っていると、貴泰が尋ねた。

「朗(あきら)くんは元気かね」

 墨塚は頷き、

「おかげさまで。もうすぐ二人目の孫が生まれるんだが、東京があの状態だから、病院選びに苦労しているようだ」

「一人目はたしか、泰己(たいき)くんだったか」

「二歳になったよ。今、うちで預かってるが、やんちゃでかなわん」

 墨塚の口調はしかし、孫がかわいくてならない祖父の顔だ。

「そいつは何よりだ」

 貴泰が相槌を打ちながら、ちらちらと意味ありげにこちらを見るので、虎光が居心地の悪い思いをしていると、


「東京から首都を移転させろと紺野が電話で言ったときは耳を疑ったが、まさか本当にこんなことが起きるとはな。今は、忠告に感謝している」


 墨塚がさらりと話題を変えた。


 貴泰が墨塚に東京からの首都移転を進言したとき、当初はけんもほろろの対応だったようだ。

 無理もない。

 今年は暖冬の予報だったし、そもそも都市がその機能を失うほどの異常気象が起きるなどと言われて誰がにわかにそれを信じるだろうか。

 だが、白鷺家や黄根家までが政府に同じ進言をしたことから、政府もこれは検討に値する事態らしいと思い始めた。


 そして、異変は二週間ほど前――ちょうど玄蔵が竜介と一緒に一色家を出た頃――から始まった。


 夜半をすぎると雪がちらつき、昼をすぎても気温が上がらなくなった。

 溶けない雪の上にまた雪が降り、昼間も雪が降るようになると、それはあっという間に根雪に変わる。


 除雪をしても切りなく積もる雪と、気象庁が史上最低気温を報じる日々が続き――

 今、東京は雪と氷に埋もれようとしていた。

 黄根老人の予言通りに。




*(筆者注)挿絵はBing Image Creatorで制作しました。実在するものではありません。

春ディズニー2024・三日目

 楽しい旅行ですが、最終日となりました。 おまけに雨模様☔ この日はマジミュもクラビも一回目公演が午後1時以降。 で、エントリーしてみましたが… 結果、  全 滅  (# ゚Д゚)💢 春休みで混雑してるし土曜日だし、というのはわかりますが、それでも今回、三日間の旅行で  エ ン...