カーテンの隙間から差し込む日差しがまぶしい。
「春香~!起きなさい!」
台所から、母の呼ぶ声が聞こえ、春香はものぐさに布団から手だけを伸ばして枕元の目覚まし時計を見た。
短い針の位置は、おおまかに八時。
室内の気温はまださほど上がっていない。
布団から出るべきかどうか逡巡していると、トドメの一声。
「朝ごはん、片付けちゃうわよ!」
観念して布団を出た。
パジャマの上にフリースを羽織って、のろのろとダイニングキッチンへ。
「冬休みだからっていつまでもダラダラ寝てちゃダメでしょう」
母の小言に適当な相槌を打ちながら、春香は卓上に並んだ朝食を食べ始めた。
休日の、いつもの風景だ。
ここが、春香の東京の自宅ではなく、父親の単身赴任先である北九州市の社宅だということを除いては。
紅子の父、玄蔵が何やら改まった様子で手土産を持って松居家を訪ねたのは、今から二週間ほど前のことだった。
彼は玄関に出てきた春香と彼女の母に、しばらく実家に帰ることになった、と言った。
つまり、一色邸を無人にするということだ。
これは紅子の身に何かあったに違いないと思い、春香は紅子の安否を尋ねたが、彼は曖昧に言葉を濁して答えない。
いよいよ彼女が訝しく思っていると、代わりに彼は二人に向かってこう言った。
「すみません。こんなことを言うと変だと思われるかもしれませんが、一つ忠告させてください。今すぐ東京を離れてください。今年の冬はこれから大変な寒波が来て、この街は住めなくなります」
それだけ言い残して帰る玄蔵の後ろ姿を、春香たちは呆然と見送るしかなかった。
「紅子ちゃんのお父さん、いったい何が言いたかったのかしらねえ」
当初、春香の母はそんなふうに冗談まじりに笑い飛ばし、気にする様子はまるでなかった。
確かに、こと東京に関していえば、十二月に入ってからは冷え込む日が多くなってはいた。
しかし、気象庁の予報は全国的に暖冬だったし、東京上空に居座る寒気もいずれは消えるだろうと予測されていたのだ。
そしてそれは、玄蔵の訪問のまさに翌日から、急激な冷え込みと雪の日々が始まったあとも、変わらなかった。
少なくとも、最初の数日は。
気象庁が手のひらを返したように、この寒気は年明けまで終わらないと言い出し、東京の天気予報が連日雪のマークだけになるのに、さほど時間はかからなかった。
メディアは、何百年かに一度の異常気象だと騒ぎ、一週間もすると、雪のせいで交通機関が麻痺し始めた。
各教育機関は通勤・通学困難を理由に冬休みの開始を大幅に繰り上げ、春香の高校も大量の宿題とともに早い冬休みが始まった。
最初は早まった冬休みを喜んでいた春香だったが、連日の雪で、友達と会うことさえ思うに任せず、だんだんうんざりし始める。
気圧と気温の急激な変化からくる片頭痛で暗い顔をしている母と、家の中に二人きりともなれば、なおさらだ。
そんなとき、母がこんなことを言い出した。
「ねえ春香、学校が始まるまで、お父さんのところに行かない?」
聞けば、単身赴任中の父に電話で今の状況を相談したところ、少し狭いがこちらに来たらどうかと父から言われたのだという。
北九州市は雪どころか、ここしばらく雨すら降らない上天気続きらしい。
実は、冬休みに入る前、クリスマスに友達の家に集まってパーティーをしようという計画があったのだが、母がこの話を持ち出した頃には、参加する予定だった友人たちの半分以上が、寒波を避けて東京を離れてしまっていた。
東京の自宅に固執する理由など、春香にはもうなかった。
交通経路については、北九州まで行く新幹線の切符がどうにか確保できた。
けれど、とにかくどの列車も雪で本数が減っているせいで超満員だったのは閉口した。
春香たちと同じく大きなスーツケースを転がしている乗客も多く、
みんな、東京から逃げようとしている――
春香はそんなことを思った。
到着した北九州市の太陽は、道中の疲れも吹き飛ぶほど、まぶしかった。
父から聞いていた通り、日差しが暖かく、風さえ温い。
天国に来たみたいね、と母娘は笑いあった。
本当に久しぶりの、心からの笑顔だった。
2LDKの社宅は家族三人が暮らすには思っていた以上にやや手狭だったものの、冬休みの間だけ、と思えばさほど気にもならなかった。
だが――
「――昨日の東京の最低気温はマイナス十五度で、記録に残る東京の気温としては史上最低を更新しました。
都内では水道管の凍結や破裂による断水が続いているほか、先日の激しい雷を伴う降雪により停電が発生しておりますが、除雪作業が追いつかず、いまだ復旧には至っておりません。
気象庁は、年明けにはこの寒さは緩むとの見方を示しています。
しかし、それまでの都民の生活をどうするか、政府は緊急対策本部を設けて対応を急ぐとともに、埼玉や千葉、神奈川など近県への避難を呼びかけて――」
春香は席を立ち、つけっぱなしになっていた居間のテレビのスイッチを切った。
陰鬱なアナウンサーの声が途切れ、母が掃除機をかける音や、洗濯機のアラーム音、外ではしゃぐ子供の声が戻ってくる。
なんの変哲もない、日常の音。
けれどどんなに目を背けても、日を追うごとに東京が人の住めない街になりつつあることは、間違いなかった。
まるで、玄蔵の言葉が不気味な予言だったように。
朝食後、身支度を整えた春香は東京から持ってきた冬休みの宿題を尻目に、チカチカと瞬いてメールの着信を告げている携帯電話のフリップを開いた。
こちらに来てから、両親に買ってもらった少し早いクリスマスプレゼント。
この電話のお陰で日本のあちこちに散らばってしまった友人たちと連絡を取れるようになり、寂しい思いをしなくて済んでいる。
液晶画面にずらりと並ぶ着信一覧の中に、目当ての名前を見つけて、春香の口元はだらしなくにまにまと緩んだ。
「なぁに、一人でニヤニヤしちゃって。気持ち悪いわね」
通りがかった母のからかう声で彼女は我に返り、慌てて電話の画面を閉じると、
「もー、ほっといてよ!」
と、怒った口調で言い返す。
が、嬉しさで声が笑ってしまうため、あまり迫力はない。
彼女のお目当てとは、もちろん、藤臣の名前だ。
「わたしじゃだめですか?」
思い切ってそう告白したあの日、藤臣の返事は、
「今はまだ他の人のことは考えられない」
という、至極当たり前といえば当たり前のものだった。
けれど春香は食い下がった。
「じゃあ、考えられるようになるまで、待っててもいいですか?」
もちろん、勝手に待つだけだ。
藤臣に他に好きな人ができても、恨んだりなんかしない。
重い女だと嫌われるかも?
そんな恐れが一瞬頭をもたげたが、意外にも、運命の神様は彼女に微笑んでくれた。
藤臣は苦笑しながらも、携帯のメールアドレスを教えてくれたのだ。
彼から来るメールに今のところロマンスの兆候などかけらもなく、内容は日常的なことばかりだが、とりあえず、彼が受験のために東京を離れていて無事なことや、名古屋の親戚の家で世話になっていることなど、近況を知ることはできている。
クラスの友人たちとのクリスマスパーティーも、初詣もなくなってしまった。
この冬が終わっても、また元通り学校に通えるかどうかはわからない。
そんな中、春香にとって、藤臣からのメールは何よりの慰めで、喜びだった。
ただ――
春香は、携帯のアドレス帳に目を落とす。
紅子の名前と、自宅の番号。
今の不安や喜びを一番に分かち合いたい相手のメールアドレスは、空欄のままだ。
この空欄が、一日も早く埋まりますように。
春香は心から、そう願っていた。
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