2024年1月11日木曜日

紅蓮の禁呪140話「凍える世界で・七」

 


 エレベーターのドアが開いた。

 黒いスーツのSPに先導されて廊下に出ると、分厚い絨毯の中に靴が沈んだ。

 正面にあるナイトラウンジに準備中の札がかかっているのを虎光は横目で見ながら、SPのあとについて廊下を左奥へと進む。

 同行者は彼の隣にいる父、貴泰と、彼らの後ろを歩くもう一人の黒服SPだけだ。

 SPは二人とも片耳に揃いの黒いイヤホンをつけており、そしてどちらも、スーツの左脇に不自然なシワがあった。


 武装しているのだ。


 SPたちは虎光と同じくらい体格がよく、そのせいで日本人男性としては標準的体格である貴泰が、まるで三人のSPに護衛されているようで、ここが路上ならどこの要人かとさぞ注目を集めたことだろう。

 しかしあいにく、廊下は無人だった。

 それどころか、人の気配すらない。

 いっそ不気味なくらい静かだが、これには理由がある。


 ここは、大阪の中心部からやや外れた場所にある、高級ホテルの一つ、その最上階。


 地階の特設駐車場から直通エレベーターでしかたどり着けないこのフロアにあるのは、虎光が先に見たナイトラウンジの他に、イベントホールを兼ねた会議室と、このホテルが誇る最高級の特別客室、「ラグジュアリーデラックススイート」と呼ばれる一室、それだけだ。

 このフロアが一般客に貸し出されることはなく、だからホテルのガイドブックにも一切載ることはない。

 このフロアを借りることができるのは、国賓か、国内政府要人。

 そしてこのフロアへ立ち入ることができるのは、フロアの借り主が許可した人物とその関係者のみ。

 貴泰と虎光親子は、本日、その借り主に呼び出されてここに来たのだった。


 彼ら一行がこのフロア唯一の客室の入り口に到着すると、扉の前にいたSPがマイクを口元に寄せて言った。


「ご到着です」


 すると、豪華な彫刻を施した両開きドアの片側が中から開き、またもう一人、別のSPが現れる。

 彼は「申し訳ございませんが」と断ってから、入室前に身体検査をさせてほしいと言った。

 実はエレベーターに乗る前にも一度、虎光たちは身体検査を受けているのだが、今のこの国の状況と、ドアのむこうにいる人物の地位を考えれば、念には念を入れるということなのだろう。

 これも彼らの仕事なので、虎光も貴泰も二度目の身体検査に甘んじたのだった。


 ようやく許されて入室したそこは、ヴィクトリア様式のインテリアでまとめられた瀟洒な応接室だった。

 入って正面にあるバルコニー付きの大きなフランス窓は、周囲に高い建物がないこともあって空が広く、開放感がある。

 冬至が近いにしては暖かな午後の光が差し込み、眼下に大阪の街並みを一望できるこの部屋は、なるほど要人の起居する場所にふさわしい。

 大阪の中心部にそびえる摩天楼もここから見ると、西日を受けて輝く水晶の林のように見える。

 虎光は思った。


 今の東京とはまるで別世界だな、と。


 部屋の中央に据えられた豪華なソファセットでは、壮年の男性と老人の二人が何やら話し込んでいた。

 壮年男性の背後には、メガネをかけた明らかにSPではなさそうなひょろりとした三〇代くらいの若い男がかしこまっている。

 三人とも仕立てのいいスーツ姿で、壮年男性と老人は議員バッジをつけていた。

 虎光は彼らの双方に見覚えがあった――主に、テレビや新聞などメディア上で。

 一人はこの国の政治を束ねる時の首相。

 もう一人は与党にいくつかある派閥のうち一つの長老だが、首相が所属する派閥ではない――というか、正確に言うなら対立派閥のはずだ。


 今がどれほどの非常時かよくわかる、などと虎光が思っていると、彼らの姿を認めた二人はソファから立ち上がり、貴泰のほうへ歩み寄ってきた。


「久しぶり」


 首相がそう言って貴泰と親しげに握手を交わすと、老人も同様に彼に握手を求め、


「紺野くんだね。黄根から話は聞いているよ」

 次いで、隣りにいる虎光に目をやり、ざっくばらんな口調で言った。

「君の社も、セキュリティサービスを始めたのかね?」


 虎光が吹き出しそうになるのをこらえていると、貴泰が憮然として言った。


「これは私の愚息です」


 おやそれは失敬、と、老人はわざとなのか何なのか大げさに頭を掻く。

 しかし貴泰は表情を変えず、老人のことを虎光に、虎光を老人に、淡々と紹介しただけだった。

 虎光が

「お目にかかれて光栄です。紺野虎光と申します」

 と右手を出すと、老人はその手を握り返し、貴泰に言った。

「立派なご令息で羨ましい限りだ」

 取ってつけたような世辞だが、この老人の持つ雰囲気のせいか、悪い気はしない。

 そのまま彼もこの会談に同席するつもりなのかと思いきや、老翁は

「それじゃ墨塚(すみづか)くん、私はこれで」

 と、首相に一礼すると、ソファに戻らず踵を返した。

 首相はすぐに後ろに控えていたメガネに合図すると、老人を追いかけさせた。

「お見送りいたします」

 メガネのものらしい声のあと、扉のオートロックが閉まる音。

 絨毯が分厚いせいで靴音はなく、まもなく静寂が戻ると、墨塚は貴泰たちに、呼んでおいて茶も出せないことをわびつつソファを勧め、自らも元の場所に腰を落ち着けた。

 虎光が部屋の隅に相変わらず立っている二人のSPにちらりと視線を走らせると、墨塚が言った。


「すまないね。気が散るだろうが、彼らも仕事なのでね」

「ああ、いいえ」

 虎光が慌てて頭を振る。

「お前さんも大変だな」

 貴泰がやや同情的に言うと、墨塚は肩をすくめた。

「それだけ自分がこの国に必要とされていると思えば、悪くないさ」

 それから彼は虎光に視線を移し、

「虎光くんはずいぶん大きくなったなぁ。見違えたよ」

 と、今更ながら驚いて見せる。

 貴泰とこの墨塚首相は大学時代からの友人で、虎光が小さい頃、何度か紺野邸に遊びに来たことがある。

 確か、彼には兄の竜介と同い年の息子がいたはずだ、と虎光が思っていると、貴泰が尋ねた。

「朗(あきら)くんは元気かね」

 墨塚は頷き、

「おかげさまで。もうすぐ二人目の孫が生まれるんだが、東京があの状態だから、病院選びに苦労しているようだ」

「一人目はたしか、泰己(たいき)くんだったか」

「二歳になったよ。今、うちで預かってるが、やんちゃでかなわん」

 墨塚の口調はしかし、孫がかわいくてならない祖父の顔だ。

「そいつは何よりだ」

 貴泰が相槌を打ちながら、ちらちらと意味ありげにこちらを見るので、虎光が居心地の悪い思いをしていると、


「東京から首都を移転させろと紺野が電話で言ったときは耳を疑ったが、まさか本当にこんなことが起きるとはな。今は、忠告に感謝している」


 墨塚がさらりと話題を変えた。


 貴泰が墨塚に東京からの首都移転を進言したとき、当初はけんもほろろの対応だったようだ。

 無理もない。

 今年は暖冬の予報だったし、そもそも都市がその機能を失うほどの異常気象が起きるなどと言われて誰がにわかにそれを信じるだろうか。

 だが、白鷺家や黄根家までが政府に同じ進言をしたことから、政府もこれは検討に値する事態らしいと思い始めた。


 そして、異変は二週間ほど前――ちょうど玄蔵が竜介と一緒に一色家を出た頃――から始まった。


 夜半をすぎると雪がちらつき、昼をすぎても気温が上がらなくなった。

 溶けない雪の上にまた雪が降り、昼間も雪が降るようになると、それはあっという間に根雪に変わる。


 除雪をしても切りなく積もる雪と、気象庁が史上最低気温を報じる日々が続き――

 今、東京は雪と氷に埋もれようとしていた。

 黄根老人の予言通りに。




*(筆者注)挿絵はBing Image Creatorで制作しました。実在するものではありません。

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