龍垓は、己の腹心の首がその胴を離れても、目もくれなかった。
その代わりというように、竜介と黄根の間合いにより一層深く踏み込む。
そのとき、鷹彦の起こした風撃の余波が彼らを襲った。
激しい風に思わず目をかばう竜介。
と、その瞬間、あのぞっとするほど強大な力の気配が消えた。
慌てて視界を確保すると、すぐそこにあった黒い壁のような鎧がない。
否。
それは移動していた。
十メートルばかり遠くに――つまり、法円の中央に。
風で剥ぎ取られたフードから現れた、白い顔に、彼の目は釘付けになった。
血の気はなく、目は落ちくぼんでいるけれど、それはたしかに紅子だ。
そして、その背後には、龍垓の姿があった。
小柄な紅子に比べ、その巨躯はまさにそびえるが如くだったが、今、それは更に大きく見えた。
なぜなら、長剣を振りかざしていたからだ。
ぎらつく長剣の切っ先が、スローモーションのように、紅子の頭頂へ吸い込まれていく。
竜介は叫ぼうとした。
駆け出そうとした。
これが悪夢なら今すぐ醒めてくれと願った。
せっかくここまでたどり着いたのに。
目の前に彼女がいるのに。
これで、終わりなのか――やはり、遅かったのか。何もかも。
ところが。
龍垓の剣が、少女の髪に今にも触れるというとき、突然ぴたりと止まった。
次の瞬間、龍垓の足元に金色の法円が現れたと思うと、その姿は消え、再び現れたのは、竜介の目の前、元いた場所。
大剣がいきなり頬をかすめるほどの距離に出現し、竜介は思わず飛び退る。
が、龍垓は動かない。
その喉元から偃月刀の切っ先が飛び出していることに竜介が気づくのに、さほど時間はかからなかった。
龍垓の巨躯が前のめりに崩れ落ち、黒大理石に打ち付けられた鎧が、ガシャーン!と驚くほど大きな音を立てる。
その後ろから姿を現したのは、黄根だった。
彼は足元の巨大な黒い金属の塊を見下ろし、独り言のように言った。
「これでしばらくは動けまい」
黒珠の王は――少し離れた場所で首と胴体がばらばらになって倒れている迦陵もそうだが――彼の言う通り、ぴくりとも動かない。
驚くべきは、血や体液の類が一切、流れ出ていないことだ。
彼らが人間どころかこの世界の一般的な「生物」ですらないのだ、と竜介は改めて思う。
「全員、早く舞台に上がれ」
黄根が呼びかける。
龍垓も迦陵も、炎珠の神女に焼かれたわけではないから、影にはならない。
しばらく経てばまた動き出すだろう。
「立てるかね」
泰蔵は、床に座り込んだままの志乃武に手を貸して立たせてやると、舞台の階段を上がるのを支えた。
そばには日可理が付き添っているが、彼女では弟の体重を支えきれなかったのだ。
「ありがとうございます」
二人がユニゾンで礼を言う。
日可理は弟の切り取られた腕を傷口にぴったり押し当てている。
力が復活した今、止血はできているようだが、痛みを完璧に消したり、もとに戻すのは、彼らでは無理のようだ。
「坊主、お前はこの舞台の周りに風で壁を作れ。破られるなよ」
黄根に坊主呼ばわりされた上にそう念押しされて、鷹彦は一瞬ムッとした顔をする。
が、
「紅子!?」
玄蔵の悲鳴のような声が、和らぎかけた空気を再び凍りつかせた。
円形舞台の中央。
そこでは紅子が、糸の切れた人形のようにくたくたと崩れていくところだった――大量の、血を吐きながら。
玄蔵が駆け寄り、竜介と鷹彦、それに黄根が続く。
「紅子、紅子……!!」
娘を抱え起こしながら呼びかける父親の悲痛な声。
竜介がそばに膝をつくと、玄蔵は今まで見たことのないすがるような目で言った。
「竜介くん、助けてくれ。君なら、できるだろう!?」
そう言われて、差し出された紅子の身体を受け取る。
しかし――
その身体は、凍っているのかと思うほど冷たかった。
薄く開かれた目に光はなく、紙のように白い顔に、乾き始めた血糊だけが、禍々しく赤い。
それは、死者の顔だった。
「紅子ちゃん、助かるよな?なあ、竜兄?」
鷹彦の声が、どこか遠くから聞こえるようだ。
絶望、という言葉が竜介の脳裏をよぎる。
ここまで来たのに。
やっと……やっと会えたのに。
遅すぎた。全部、何もかも、遅すぎたんだ。
視界がゆがむ。
全身の力が抜けていく。
と、そのとき。
いきなり視界が明るくなった。
黒大理石の床に、竜介と紅子を囲む小さな金色の法円が広がっている。
気のせいだろうか、ほのかに温かい。
「坊主、玄蔵さん、悪いがあんたらはこの法円から出てくれ」
黄根老人が言った。
二人が金色の法円の外に出るのを確かめると、竜介に向き直る。
「しっかりしろ、小僧」
老人はぎょろりと左目で彼をにらみつけ、言った。
「今、このときのことを、わたしは何度も何度も見てきた。そしてこのときのために、ここまで来たのだ」
まだ間に合う。
黄根老人は、たしかにそう言った。
※挿絵はAIによって作成しました。
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