日可理の足元には、服の袖ごと切り落とされた弟の前腕があった。
切断部からこぼれた血が、黒大理石に赤いしみを作っている。
その向こうには、うずくまる弟の背中。
そして、彼の前に仁王立ちする、その力に比して驚くほど小さな、黒い死神の姿。
その鎌から滴り落ちる、血――
視界に映るすべてが、歪んで見える中、彼女はとっさに腕を拾い上げると、弟のそばに駆け寄ろうとした。
嗚咽が止まらない。
涙で濡れた頬が凍えるようだ。
冷たく乾いた空気が、喘ぐ喉に刺さる。
けれど、彼女は恐ろしさですくむ足を、必死で前に出した。
気に入っていた白いファーのついたダウンコートが、見る間に血で汚れていく。
血のついた手で涙を拭ったせいで、顔も赤黒く汚れてしまった。
もう、異能は使えない。
切断された腕など運んでも役に立つとは思えない。
ただひたすら、無意識の行動だった。
迦陵がその手の鎌をひと振りすれば、二人とも命はない。
それでも、だからこそ、どうせすべてが終わるなら、志乃武のそばにいたい。
と、そのとき。
不意に軽くなった術圧が、彼女の足を止めた。
その瞬間、その場にいた全員が、法円の中に視線を走らせ、異変を目の当たりにしていた。
本来、黄珠が載るべき饕餮紋の柱――その柱の前にいた伺候者が、突然、文字通り崩れ落ちたのだ。
その肉体を構成していた細胞一つ一つが、なんの前触れもなく黒い砂と化した。
砂は見る間に人の形を失い、ざあっと音を立てて黒大理石の床に広がると、中身を失った黒衣が、その砂山の上にかぶさった。
迦陵が小さく舌打ちするのを、日可理は聞いた。
「術圧に負けたか……」
かすれた声で、黒珠の王がそうつぶやくのを、すぐそばで竜介が耳にした、次の瞬間。
詠唱が途切れ――
術圧が、完全に消えた。
それは天与の静寂だった。
そのとき、世界に、光が戻った。
日可理は、力が戻るのを感じた。
目の前では、志乃武の身体を再び白い輝きが包むのが見える。
これで、志乃武を助けることができるかもしれない――
だが、その安堵は次の瞬間、絶望に塗りつぶされた。
迦陵が右手の鎌を下から大きくすくい上げようとするのが視界に入ったからだ。
鎌の動線の先には、志乃武の首がある。
間に合わない――
「志乃武さん!!」
声を振り絞り日可理はそう叫ぶと、無我夢中で弟に背後から覆いかぶさった。
もしかすると、迦陵の刃なら、二人とも一刀両断されるかもしれない。
それでも、そうせずにいられなかった。
ところが。
強く目を閉じ、その瞬間を待つ彼女に、志乃武が言った。
「日可理、目を開けて」
彼に促されて目を開けたとき、最初に目に入ったのは、迦陵の巨大な鎌の切っ先。
それと、もう一つ、見覚えのある両刃の剣。
剣に沿って視線を上げると、その先には、彼女が作って泰蔵に託した式鬼のうち一体、氷華がいた。
左手に目を転じると、そこには雪華。
彼らの剣が、迦陵の刃を止めていた。
以前にも書いたが、あるじの持つ能力を式鬼は受け継ぐ。
つまり、雪華・氷華は今、泰蔵と同じく、一秒を五倍にした速さで動ける。
迦陵の動きを封じるなど、今の彼らには児戯に等しい。
迦陵が体勢を整えようと刃を引きかけた、そのとき、その背後に影がさした――そう日可理には見えた。
次の瞬間、影は泰蔵の姿に戻ると、
「悪く思うなよ」
迦陵にむかってそう言うなり、手にした偃月刀を一閃した。
ごとん。
重い音とともに、迦陵の首が、黒大理石の床に転がる。
その音は、まるで形勢逆転の合図のようだった。
「よっしゃあ、遊びの時間は終わりだぜ!!」
鷹彦の吠えるような叫びとともに、凄まじいつむじ風が巻き起こる。
それは彼と玄蔵の手を煩わせていた「雑色」二体の呪符を斬り捨て、法円内部に残る三体の伺候者たちを黒砂に変え、そして――
そして、法円中央に立つ小さな黒衣のフードを、剥ぎ取った。
フードから長い黒髪がこぼれた。
紅玉を散りばめた髪飾りで古風に結われた髪。
血の気のない頬の肉は落ち、黒ぐろとした目が大きく、細い顎が鋭角を描いている。
やつれて面変りしている。が、しかし、それは確かに――
紅子だった。
※挿絵はAIで作成しました。
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