人の声とは思えない音だった。
息継ぎもなく、一定の抑揚とともに繰り返されるうねり。
太古の力を孕むその音は、最初の抑揚の区切りが終わるまで一つの音だったのが、新たな音のうねりに入るとき、四つ――おそらく伺候者たち――の音が加わって五重唱となった。
のしかかるような術圧。
黒帝宮を包む氷殻を形成する力場が、この恐るべき音を非可聴音に変換し、増幅する。
文字通り、世界を揺さぶるために。
同時に、法円の中では、対角線上に立つ四本の列柱のうち、二つの饕餮紋上に、それぞれ見覚えのある白珠と碧珠、そして三つ目に、忌まわしい青白い鬼火をまとった黒い宝珠――黒珠が現れた。
中央の柱には、真紅の宝珠、炎珠が輝いている。
禁術を止めねばならない。
今すぐに。
彼らの行く手を阻むのは、迦陵とたった二体残った雑色のみ。
もとより迦陵を引き受けるつもりの泰蔵が、竜介と黄根にそっと視線を送る。
しかし。
彼らは動かなかった――否、動けなかった。
法円の外の壇上。
何もなかった空間に突然黒い波紋のようなものが現れたかと思うと、それはあっという間に大きくなり、波間の闇から「彼」が姿を現した。
「雑色」たちと迦陵がその場に膝をつき、頭を垂れる。
黒い鎧を身に着けた隆々たる体躯に、黒い巻き毛に縁取られた美麗な白い顔。
龍垓だった。
巨大な氷殻の内部であるこの黒帝宮は、意外にも頬に当たる空気が地上よりも生温い。
しかし今、この亡者たちのあるじを中心に、周囲の気温は急激に冷え始めていた。
それが気のせいではない証拠に、龍垓の足元の黒大理石に、白く霜が降り始めている。
凄まじい冷気と、恐るべき力の気配。
龍垓と見(まみ)えるのが初めてではない竜介でさえ、慣れることがないこの圧迫感に、残る六人が圧倒されないわけはなかった。
多少のことでは顔色を変えない黄根さえも、心なしか青ざめた顔で黒珠の王を凝視している。
龍垓は足下を睥睨すると、口の端を歪めて嗤った。
「我が城へ、よくぞ参った」
闇の王はそう言って、己が腰に佩(は)いた大剣をすらりと抜き放つ。
「本日よりここが汝らの墓所とならん。名誉と思うがいい」
その言葉が合図だったかのように、周囲が暗くなった。
気のせいではない。
竜介たち七人が放っていた光輝が、一斉に消えたのだ。
禁術の準備が整い、起動を開始したということだろう。
異能(ちから)が使えなくなった。
驚き動揺する竜介に、龍垓の大剣が容赦なく襲いかかる。
竜介は持っていた偃月刀でかろうじて受けるが、衝撃が重く、思わず後退してしまう。
鷹彦と玄蔵も、残っていた「雑色」でそれぞれ手一杯だ。
白鷺家の姉弟は、式鬼や呪符が使えなくなった。
氷華と雪華もただの紙片に戻り、ひらりと黒大理石の床に落ちる。
次の瞬間、それらの紙片を蹴散らすようにして、迦陵が泰蔵の間合いに入った。
速い。
異能が使えない泰蔵に、迦陵の刃を避ける術はもはやない。
「泰蔵さん!!」
「親父っ!!」
志乃武と玄蔵の叫び声と、日可理の悲鳴が交錯する。
が、まさに間一髪。
死神の大鎌は、またしてもその威力を振るいそびれた。
今度は黄根が、「雑色」から奪った二本の偃月刀を使い、見事な両刀術で迦陵の刃を止めたのである。
「すまん」
泰蔵が前方の迦陵に視線を固定したままつぶやくように言うと、黄根も同じく迦陵を見たまま、左手の偃月刀を泰蔵に素早く押し付ける。
「今はいい」
早口でそう返し、「行くぞ」と一言。
今度はこちらから、小さな黒衣の間合いに入る。
禁術のほうに黒珠の力を傾注しているため、迦陵も龍垓も異能を使うことはない。
純粋に、膂力(りょりょく)のみがものをいう戦いだ。
そして迦陵は、泰蔵と黄根の二人を相手に、互角以上だった。
小さな黒衣の振るう二本の鎌が彼ら二人を振り回す様は、まるで台風の目のようだ。
泰蔵も黄根も、その着衣に、皮膚に、少しずつ刃のあとが増えていくが、それを厭(いと)う様子はない。
むしろ、怪我を承知で間合いに踏み込んでいるきらいすらある。
実は、彼らの視界の端には、法円に忍び寄る日可理と志乃武の姿があった。
法円の周囲に結界の術圧は感じられない。
伺候者たちも異能を使えないのであれば、彼ら二人でどうにかできる可能性はある。
泰蔵は日可理たちとは反対側に視線を走らせた。
龍垓は重い鎧を着けたまま、まるでハンデを楽しむかのように竜介の相手をしている。
日可理たちがいるのは、法円を挟んでちょうど龍垓の背後だから、気づかれる恐れはまずない。
迦陵だけをこちらに引き付けておけばいい――
やたら踏み込んでいく泰蔵の意図を、黄根もまた察していた。
日可理と志乃武は黒大理石の舞台を回り込み、幅広の階段を上がって、今しも法円の中に立つ一体の伺候者の背後に近づきつつあった。
だが、目前の伺候者が纏う黒いローブに、志乃武が掴みかかろうとした、その瞬間。
彼の左手の肘から先が、消えた。
すべてがスローモーションのようだった。
志乃武の前には、いつの間にか迦陵がいて、振り上げた片方の刃から、赤い液体が滴り落ちていた。
生臭い匂いが鼻をつく。
血だ。
下から上に跳ね上げるように切り取られた腕は、空中に赤い血の弧を描き、次いで、ボトリ、と重い音を立てて、志乃武のすぐ背後に落ちた。
「何人たりとも、邪魔はさせぬ」
「いやぁぁぁっ!!志乃武さんっ!!」
迦陵の声。
日可理の悲鳴。
そのどちらも、激痛と闘う志乃武の耳には、どこか遠くから聞こえるようだった。
「ぅぐっ……!!」
絶叫を噛み殺し、彼は残った右手で血が吹き出す左腕を押さえようとしたが、力が入らない。
目の前が暗くなり、膝から力が抜けていく。
志乃武は自分の血溜まりの中に崩れ落ちた。
明るくなったり暗くなったりを繰り返す視界に、自分と迦陵の間に割って入る泰蔵の背中が見えたと思った、そのとき。
不意に、術圧が軽くなった。
※挿絵はAI画像です。
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