2024年3月19日火曜日

紅蓮の禁呪143話「凍える世界で・十」

 

「それはありがたいけど、移動の時間がかかりすぎないか?」


 竜介が言った。

 日可理たちが今滞在している滋賀県のホテルからは、高速を飛ばしても片道三時間。

 一日で調整がうまくいくとは限らないのに、時間のロスが大きすぎる。


 しかし、術の調整について、彼女以上の助言者は望めないから、悩ましいところではある。


 すると、日可理はこともなげにこう答えた。


「わたくしが直接そちらへうかがうわけではございませんよ?」



 会合から三日目の早朝。

 日可理と約束した時間に竜介が結界石の広場に着くと、淡い水色のメイド服を着た少女がふわりとどこからともなく姿を現した。

 日可理の式鬼、朝顔である。


「おはようございます、竜介様」


 朝顔は雛人形のような白い顔にあるかなきかの笑みを浮かべると、日可理の声で言った。


 日可理は式鬼を媒体としてこの場に「来た」のだった。

 これなら移動時間はかからない。

 それに、実物の日可理と二人きりになることについて、いまだ多少なりとも心理的抵抗がある竜介にも、これは願ったりだった。


 時間が惜しい彼らは、すぐに術の調整に入った。

 竜介が二日前に術の起動に使ったのと同じ法円――龍垓の記憶と同じもの――を、自分の足元の地面に出すと、朝顔は早速その上にかがみ込み、法円を覗き込むようにして調整を始めた。


 彼らが術に使う法円は、中心の円を囲んで四つの小円が前後左右に配置され、それをさらに大きな円が囲んでいて、小円と小円の間を複雑な幾何学模様が埋めている、というのが基本的の形だ。

 幾何学模様は術によって異なっているが、雷迎術の場合は、他にも内部の小円のラインが二重になっていたり、一番外側の円のさらに外縁も幾何学模様がとり囲んでいるという違いがあった。


 これら小円のうち、術者に対して前後に並ぶ二つが力の収束と放出を制御する、いわば術の発動に最も重要な部分で、たいていの術はここを正しく調整しさえすれば、失敗することはない。

 だから、竜介も日可理も、前回の失敗の理由は、龍垓の法円をそのまま使ったがために、自分で制御できる以上の気を集めてしまったか、あるいは力の収束と発動の微妙なバランスが崩れたのだろう、ということで同意していた。


 朝顔が小円のどれかに触れるたび、法円のすべての幾何学模様が形を変えていく。


 やがて調整が終わったのか、朝顔は立ち上がって法円から距離を取ると、仕上がりを確かめるように眺めてから竜介に言った。


「では、術を立ち上げてみてください」


 竜介はうなずき、全身の気を高めた。

 彼を取り巻く青い光輝がまばゆいほどになるにつれ、逆に空はにわかに分厚い雲がわきあがって暗くなっていく。

 彼の周囲で、金色の稲妻が弾け躍る。

 周囲の木々は風もなくざわめき、驚いて飛び去る鳥の声や羽ばたきが騒がしい。

 重苦しさを増す術圧の中、竜介の視界の端では法円の周囲の小石が重力を失い、浮き上がるのが見えた。

 そのとき、くるくると形を変えていた法円の模様がぴたりと停止し、一際強く輝いた。

 一昨日はこの直後、法円に収束した超自然の力が一気に体内を駆け抜け、凄まじい衝撃と落雷で危うく大火傷を負うところだった。

 日可理の腕前を信じないわけではないが、それでも竜介は衝撃に備えて思わず身構えた。


 ところが。


 衝撃はなかった。

 それどころか、次の瞬間、法円の輝きは気が抜けたように弱くなり、術圧も消えてしまったのである。


 調整した法円では、術は起動しなかった。

 一昨日のように寝込んだりするよりはいい。

 が、逆を言えば、調整前の設定がある意味、「正しかった」ということだ。

 少なくとも、術を発動できたのだから。


 前後二つの小円だけでなく左右のものまでとなると、とたんにやることが複雑になるようで、その後、法円の調整は難航した。

 朝顔の、基、日可理の説明によると、術の威力に直接関わる前後の小円に対し、左右の小円は術を発動させる時間と空間を指定するためのものらしい。


 中の小円がすべて二重という法円は、白鷺家に伝わる古文書で見たことはあるが、実際に扱うのは初めてだ、と日可理は正直に言った。


 普通の法円とどう違うのかと竜介が尋ねると、

「より高次のエネルギーにアクセスできるので、術の威力が大幅に変わってきます」

 と、朝顔が日可理の声で答える。

「より高次のエネルギー?」

 おうむ返しに尋ねると、彼女は言った。


「御珠の力そのものということです」


 一般的な術は術者本人の持つ霊力や、天地に満ちる「気」の力を借りるが、雷迎術の法円はさらに術者の霊力の源たる御珠そのものにアクセスし、その力を利用できる、ということらしい。

 その代わり、法円の調整が間違っていれば、命取りになりかねない。

 日可理の説明を聞いて、竜介はぞっとした。

 一昨日、大した調整もせずに初見で起動して火傷と過労程度で済んだ自分は、とてつもなく幸運だったのだ。


 この日は午前にもう一回、午後にも一回と、合計三回、術の起動を試みてみたが、結局一度も術を発動させることはできなかった。

 三度目の失敗の後、朝顔が言った。


「申し訳ございません、本日はこれまでとしたいのですが、よろしゅうございますか?本宅の文書に今一度、当たってみたいのです」


 式鬼は基本的に無表情だが、日可理の声の調子から察するに、焦りと落胆が増しているようだ。

 竜介も疲労を感じていたので、彼女の申し出を快諾した。

「今日はありがとう。手間をかけさせてすまない」

 朝顔はゆっくり頭を振った。

「わたくしは当然のことをしているだけです。むしろ、汚名を雪ぐ機会をいただけて、わたくしこそお礼を申し上げます」

 ではまた明日、と言葉を残し、式鬼はその場の景色に溶け込むようにして姿を消した。



 冬の日暮れは早い。

 そして、木々が茂る山の日暮れはさらに早く、竜介が寺に戻る頃には空はまだ明るいものの、足元はすでに薄暗くなりつつあった。

 よほど憔悴が顔に出ていたのだろう、泰蔵・玄蔵親子が気を遣って、熱い風呂と少し早い夕食を用意してくれた。

 そのおかげで、落ち込んだ気分は一旦、多少上向いたけれど、未明から降り出した雨に再び彼の気持ちを空模様と同じく曇らせることとなった。


 日可理に今日の法円の調整は中止にする旨、電話をいれると、彼女も少し疲れた声で残念だと言った。

「わたくしは引き続き、書物に当たります」


 竜介も、何もしないよりはましだろうと思い、泰蔵、玄蔵の手を借りて寺の書庫から紺野家に伝わる文書を持ち出し、雷迎術に関する記述がないか調べてみることにした。


 最初は彼一人で書庫にこもるつもりだったのだが、薄暗い裸電球の明かりしかないのはまだしも、底冷えのする書庫で暖房器具を使うための電源がないのがつらくて諦めたのである。


 冷たい無情の雨はその日の夜までに雪に変わった。

 東京上空に停滞している寒波が、どうやらもうここまで来たらしい。

 そのことがさらに竜介たちの気持ちを焦らせる。


 だが、さらに翌日、新月まで残りあと二日となったところで、転機は訪れた。


※挿絵はAIイラストです。Bing Image Creatorにて生成しました。

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