2024年12月8日日曜日

紅蓮の禁呪153話「竜と龍・十」

 


 法円を守る「壁」が復活した、まさにそのとき。

 漆黒の巨竜が再び天に向かって吠えた。

 竜の背びれは今や不気味な輝きに満ち、魚じみた青白い棘子の連なりを薄闇にくっきりと浮かび上がらせている。

 棘子の先端から激しい火花が散った、次の瞬間。

 先と同じ、凄まじい稲妻が、薄明の空を青白く照らした。


 それは本当に一瞬の出来事で、誰も再度の雷撃を覚悟する暇さえなかった。

 地鳴りのように辺りを震撼させて、耳を聾する雷鳴がとどろく。


 だが――


 龍垓の雷撃が「壁」を直撃することはなかった。


 なぜなら。


 突然、まばゆいほどの青い光と金色の稲妻が、闇を纏った青白い雷撃を弾いたからだ。

 目も眩む光が収まったあと、そこにいたのは、もう一体の巨竜。


 紺碧に輝く鱗を持ち、黄金のたてがみと雷槌をまとったそれは、薄墨の世界を鮮やかに切り裂く、一筋の青い光だった。


 己の前に立ちはだかる紺碧の竜に、黒珠の巨竜はしかし、怯むことすらなかった。


 むしろ己より一回り小さな相手を嘲笑うかのように鼻から青白い鬼火を吐くや否や、その牙を剥いて襲いかかり――


 二頭の巨竜による死闘が始まった。


 その姿はあたかも薄明の空に出現した光と闇の巨大な二重らせんのようで、青白い稲妻と黄金の稲妻が交錯し、ぶつかり合う。

 その断続的な咆哮と雷鳴は、この薄明の世界のみならず、地上に広がる無人の首都のビル群をも震わせた。


 一方。

 迦陵の相手を続けている泰蔵は、この世の超自然の力すべてをその身に集めて戦う弟子を視界の端で捉えては、面映ゆいような気分を味わっていた。


 まったくお前は大した弟子だよ――


 そう苦笑したそのとき、「引き伸ばしていた」時間が終わり、死神の鎌が目の前をかすめた。

 泰蔵は一人ではなく、二体の式鬼を伴っている上に、二秒間だけとはいえ、一秒を五倍に引き伸ばして行動できる。

 あの迦陵といえど、禁術の起動まで抑えておくなど造作もないはず――そう思われた。


 ところが驚くべきことに、迦陵は彼らとほぼ対等の動きを見せた。


 戦うほど、迦陵の纏う黒衣に、顔に、細かな裂傷が増えていく。

 けれど、少なくとも、二度と胴体から首が離れるような失態を犯すことはない。

 泰蔵たちが時間を「引き伸ばして」いるとき、迦陵はひたすら防御に徹した。

 普通の人間なら見極めようのない彼らの動きを、この黒珠の死神は恐るべき動体視力でもって見抜き、その攻撃を紙一重で躱したのである。


 そして二秒後、彼らが通常時間に戻るタイミングを狙い、一撃必殺の攻撃を仕掛けてくる。


 その手堅い戦法に、泰蔵は敵ながら舌を巻いた。

 と同時に、このまま戦いが長引き、疲れて万が一にもミスをしたら――といういやな想像が脳裏をよぎった。

 気を抜けば、今度はこちらの首が、胴体から離れることになるだろう。


 かてて加えて、巨竜たちの足元というこの場所もまた、泰蔵の神経をすり減らす原因だった。

 巨竜たちの姿は実体ではないから、踏み潰されることはない。


 とはいえ、もしも雷撃の巻き添えを食らえば、最悪、死が待っている。


 無論それは泰蔵に限った話で、迦陵には関係がない。

 たとえ直撃を受けて黒焦げになっても、この黒珠の死神は時間さえ許せば復活するだろう。

 実際のところ、泰蔵や式鬼たちによってつけられた迦陵の傷が、驚くほどの速さで元通りになっていくことに、泰蔵は気がついていた。


 黒珠の力が増している。


 そんな確信に、泰蔵はいやな汗が背を伝うのを感じた。

 力を禁術の起動に割く必要がなくなったおかげで、龍垓と迦陵に直接その力が注がれるようになったのだろう。


 この老体が保つ間に、術を起動してくれよ――


 圧倒的な力の気配を放つ龍垓と戦っている竜介のためにも、泰蔵はそう祈らずにはいられなかった。


 

 さて、少し時間を戻そう。

 竜介と泰蔵が法円の外に出て、鷹彦が「壁」を復活させた直後、黄根は紅子に向き直ると、


「紅子」


 と、改まった口調で、しかしてきぱきと言った。


「お前はこれから重大な決断を迫られるだろう。お前はすべてを終わらせねばならない」

 彼は「すべて」という言葉に力を込めた。


「怪物を永遠に葬るため、お前が最善だと思う道を選べ――己の心に従って」


 そうして、彼女の目の前の柱の上で輝いていた黄珠の上に手を一振りしてそれを消すと、彼は紅子の返事を待たずに、くるりと踵を返して法円の辺縁に建つ柱のうち一つへと遠ざかって行った。


 見回すと、他の三本の柱の傍にはすでに玄蔵と白鷺家の二人がそれぞれ立っている。

 志乃武は顔色がよくないものの、まっすぐに前を向いていた。

 彼のバックレザーのムートンコートは、右腕の前腕の途中ですっぱりと斬り落とされ、その血まみれの切り口から突き出たむき出しの腕は、白くて寒そうだ。

 今の紅子は、誰にも説明されなくとも、志乃武の身に何が起きたのか手に取るようにわかった。

 玄蔵は娘と目が合うと、ゆっくりと頷いてみせた。

 おそらく、「大丈夫だ」とか「お前ならできる」と言いたいのだろう。


 不思議だ――と、紅子は思っていた。


 心がとても静かだった。


 魂縒の前に感じていた、様々な感情――不安や緊張だけでなく、舌にまとわりつく血の味や肌の不快感、身近な人々と再会できた喜び、安堵、それに、日可理の姿を見たときの複雑な気持ちにいたるまで、雑然と心を波立たせるものすべてが、きれいに消えていた。


 まるで、磨き上げた鏡面のように、意識が澄んでいる。


 感情がなくなってしまったわけではない。

 「壁」の向こうで起きていることを五感が捉えるたびに、心は相変わらずざわつく。

 ただ、そのことに囚われたままにはならない。


 彼女は今、自己というものを完璧に制御していた。


 魂縒を受ける前、なぜあれほどまでに自分の脳裏は雑念にまみれていたのだろう、なぜつまらない雑念にいちいち心を揺らしていたのだろう、と心中で首を傾げるほどに。


 それと、もう一つ。


 これまで自分を何度か救ってくれた「力の化身」のようなものの存在を、彼女は今、はっきりと意識できるようになっていた。

 魂縒の後の昏睡が思いのほか短く――というより、一瞬で終わったのは、黒珠に支配されて自我のない状態が長く続いたため、無意識下でこの「力の化身」との同化が進んでいたおかげらしい。

 ともかくも、今すぐに再度禁術を起動できる状態であることを、紅子は素直によかったと思った。


 禁術の再起動が、一筋縄ではいかないとわかるまでは。



※挿絵はAI生成です。

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