なんだか妙な展開になってきたぞ。
ホテルの廊下を歩きながら、私は思った。
私の前には、パーティー会場で声をかけてきた黒服と、形部兄弟の背中が並んでいる。
分厚い絨毯が全員の足音を吸い込んでしまう。
パーティー会場とは対象的な静かさだ。
先頭を歩いていた黒服は、「第一会議室」という札がかかった観音開きの大きな扉の前で立ち止まると、ノックした。
中から扉が開くと、黒服は私たち三人を先に通してから、扉を閉じる。
「パープル・ヘイズ、ある?」
私も何度かパーティー会場でそう訊かれた。
私はもちろんわからない。だから他のスタッフに繋ごうとすると、タイミングよく宝石商の黒服の一人が現れて、客たちを連れて行く。
そんなわけで、私はてっきり宝飾品のブランド名か何かだと思っていた。
ところが、私たちが連れて行かれた部屋には、宝飾品のたぐいはまったく見当たらなかった。
部屋の片側には、壁に沿って簡素な長机が置かれ、電気湯沸かしポットが数台と、未使用らしく伏せて置かれているティーカップとソーサーが数セット。
さらにその奥には、いろいろな大きさの化粧箱と、サンプルと書かれた小瓶が並んでいる。
落ち着いた紫色の化粧箱の天面には、
「Purple Haze」
という金文字が並んでいて、パーティー会場の半分くらいの広さのこの部屋では、それだけが唯一華やかな雰囲気をまとっていた。
長机の反対側は、通路を挟んで小さな丸テーブルが十五個ばかりと、それぞれにソファが二脚ずつ、やや詰め込み気味な距離感で並べられている。
白いカバーのかかった卓上には、飾り気のない白いティーポットと、同じく白いソーサー付きティーカップだけ。
席に着いているのが全員、仮装パーティーの客なので、ごてごてした格好と簡素なテーブルセットのコントラストがなんとも珍妙だ。
さらにいうと、テーブルはほぼ満席状態だが、一人客が多いせいか、全員がおしゃべりもほとんどせずただしずしずとお茶を飲んでいるだけなのも、なんだか異質な気がした。
茶菓子のないお茶会?
などと思っている私の横で、形部兄弟が謎の目配せを交わした、そのとき。
「えっ、ちょっとなんで連れて来ちゃうの」
すぐそばで聞き覚えのある声が言った。
それは誰あろう、私をこのパーティーに連れてきた同僚、堀道雅緋(ほりみちみやび)の声だった。
私と同じメイド服だが、パーティーの客であることを示すオレンジのリボンを外している。
会場で見当たらなかったはずだ。こんな別室にいたとは。
私は少し腹が立った。席を外すなら事前にそう言えばいいのに。
「堀道さん。私、はぐれたと思って探してたんだけど」
そう咎め立てると、なぜか室内にいた全員が――形部兄弟も含めて――何かいわくありげにこちらを振り向き、名指しされた当人はぎょっとした様子であたふたと周りを見ながら、唇の前に人差し指を立てて小声で言った。
「ちょっ、ここで名前呼びはやめて」
私が口を開こうとするのを片手で制し、彼女は私たちを連れてきた黒服に、
「このリボン着けてるメイドはこっちに来させないでって言ったでしょう」
すると、きつい口調で叱られた黒服はしどろもどろ。
「え、でも……連れだっていうから……」
雅緋は大げさにため息をつき、何か彼に言おうとしたのだが、
「そろそろ失礼するよ」
恰幅の良い海賊船長が雅緋に声をかけてきた。
雅緋は慌てて居住まいを正して本日はお越しいただきまして、などなど長々と謝礼の意を述べ、
「会場にお戻りですか?」
と尋ねた。
だが、相手が帰ると言うので、彼女は
「承知いたしました」
と答えてから、件の黒服くんに命じた。
「玄関までお送りしてください」
黒服は雅緋に小声で、すみません、と謝ると、海賊船長を案内して部屋を出て行った。
扉が閉まるのを見届けてから、彼女は私たちに――というか、形部兄弟に向き直り、
「大変失礼いたしました。ご試飲ですね」
と、たった今、空いたばかりのテーブルに私たちを誘導しようとする。
が、紫音はそれを制して言った。
「それより、」
一段と声をひそめて続ける。
「ヘイズがほしいんだけど」
すると、雅緋は再び、承知いたしました、とかしこまると、私と形部兄をとりあえず椅子に座らせてから、紫音と二人、紫の小箱が並ぶ長机のほうへ移動した。
彼らはそこで顔をくっつけるようにしてひそひそ話をしていたと思うと、わりとすぐに戻ってきた。
紫音はにっこりして私に言った。
「私たちこれで帰るけど、あなたどうする?」
私が雅緋を見ると、彼女はどうぞ、というように頷いたので、お言葉に甘えて帰ることにする。
雅緋は室内にいた他の黒服を呼んで、私たちをホテルの玄関ホールまで送るように指示した。
クロークで手荷物や上着を受け取ったあと、私がスマホを出して自宅までの経路を検索しようとしたとき、車で近くの駅まで送ろうと形部兄が申し出てくれたので、ありがたく受けることにする。
言っておくが、いくら流されやすい私とて知らない男の車にほいほい乗ったりはしない。あくまでも彼が同じ会社に勤める上司だからだ。
しかしまあ本音を言えば、これで立食式で疲れた脚を休ませられると内心嬉しかったことは否めない。
地下駐車場へ向かうエレベーターに乗り込み人目がなくなると、誰からともなくマスクをはずして互いの顔を確認し合う形になった。
「あーもう、やっとスッキリした。このマスク、やたら目の周りがムレない?」
そんな文句を言いながらバッグからコンパクトを出し化粧を直す紫音は、隣に立つ係長とよく似た整った顔立ちで、二人に血縁があることは確かなようだ。
彼に習って、私もメイク崩れをチェックしていたところ、エレベーターが止まった。
高級車がずらりと並ぶ薄暗い地下駐車場の中、彼らが私に「どうぞ」とドアを開けてくれたのは、国産メーカー製でありふれた中型の白いフォードアセダンだった。
彼らは紳士的に私に後部座席を勧めてくれ、兄は運転席、弟は助手席におさまる。
「都鶏(つげ)くんは〇〇駅まで送ればいいんだな」
車をスタートさせながらそう確認する係長に、私は「お願いします」と返す。
と、紫音が何か思い出したようにシートベルトを締める手を止めて、
「そうそう、これ渡しておくわ」
身体をねじって私のほうに小さなカードを渡してきた。
「車の中でごめんなさい。ホテルだと人目が気になっちゃって」
それは彼の名刺だった。
西蓮寺紫音という彼の通称名と、「サイレン探偵事務所所長」という肩書、そして紫色のロゴマークは、魚のヒレのような飾りをつけた中世風の兜をかぶる女性の横顔が単純化されて描かれていた。
車が地上へ出た。
空はもう暗かったけれど、クリスマスイルミネーションのおかげで道路は昼間なみに明るい。
「探偵さんだったんですね」
私が話しかけると、紫音は肩越しに、
「便利屋みたいなものよ。浮気調査からペットの捜索まで色々やってるから、困ったことがあったらお気軽に相談してね」
と、ウインクをよこした。
私は言った。
「訊いていいですか?」
「いいわよ」
紫音は前を向いたまま答える。
「ただし、守秘義務があるから、私が答えられるかどうかは質問によるけど」
「あのパーティーで、私、パープル・ヘイズはあるかってしょっちゅう訊かれましたけど、パープル・ヘイズって何ですか?」
「あのパーティーを主催してる宝石店が、副業的に売ってるお茶のブランド名」
「ただのお茶をなんでコソコソ隠れるようにして別室で飲むんですか」
彼は軽い口調で答えた。
「大麻茶だからよ」
た、大麻!?
「あの、麻薬の大麻ですか!?」
「まあ世間的にはそういう認識よね~」
苦笑交じりにそう言って、紫音は大麻から取れる薬効成分には大きく二つあって、そのうちのCBD(カンナビジオール)と呼ばれる成分は中毒性がなく、最近は抗うつ作用や鎮痛作用などを期待してハーブティーやアロマオイルにCBDを添加したものが合法的に売られているのだと説明してくれた。
「つまり、あの部屋で売られてたパープル・ヘイズはそういうお茶ってわけ。でも、やっぱりイメージがよくないから、別室でああやって売ってるんでしょうね」
「じゃあ、紫音さんが買った”ヘイズ”もそういうCBD入りのお茶なんですか?」
一瞬の沈黙。
あれ、私なんかまずいこと訊いた?
「目がいいのね」
本気で感心しているのか、それとも皮肉なのか、よくわからないため息とともに彼は言った。
「見る?」
私が何も言わないうちに、彼は紫の小箱を肩越しに投げてよこした。
タバコの箱くらいのサイズだが、意外に重い。
中身は圧縮して売られている中国茶みたいな感じなのだろうか。
「HAZE」と金文字で書かれた瀟洒なラベルのほかは、中身の見当がつきそうなものは何もなかった。
「中身は私も知らないの」
紫音が言った。
「ただの高級なお茶なのかもしれないし、それとも他の何かかもしれない。私がクライアントに頼まれたのは、ただあのパーティーで”ヘイズ”を手に入れてきてほしい、それだけ」
それって……。
私が口を開こうとしたそのとき、係長が言った。
「都鶏くん、着いたぞ」
私は紫音に小箱を返すと、お礼を言って車を降りた。
すると、紫音が助手席の窓を開けてにっこり手を振りながら、言った。
「またね」
あれだけさんざ飲み食いしたのに、不思議なことには家に帰って風呂に入ると小腹が空いた。
私は冷蔵庫からダイエットコーラと魚肉ソーセージを出して、コタツに入った。
ギョニソはパッケージのフィルムを破ってそのままかぶりつくのが一番美味いというのが私の持論だ。
ダイエットコーラはあまり好きではないが、罪悪感と美味とを秤にかけた結果である。
そうして食べ慣れたものを味わいながら、なんやかんやあった今日を思い返すうち、だんだん腑に落ちてきたことがあった。
あの場所での私の奇妙な存在意義。
メイドの格好なのにメイドじゃない。
知り合いじゃなくても話しかけることができる。
目立つようで目立たないオレンジのリボンと、衣装。
全部に何かの意味があったのだ。
でもそれは、雅緋本人に確かめればいい。
私はそう思いながら、ハンガーラックにかけた彼女からの借り物の衣装を眺めていた。
一週間ほどして、私はメイド服を紙袋に入れて、堀道雅緋の机まで持って行った。
「堀道さん、これ、クリーニングしといたから」
雅緋は紙袋を受け取ると、中身を確認して、
「うん。わざわざありがとうね」
それからこう続けた。
「都鶏さん、今、時間ある?」
私たちは打ち合わせ用の小ブースに移動した。
「パーティー、誘ってくれてありがとう。一応お礼を言っておくわ。料理おいしかったし、めったにない体験もできたし」
雅緋は私の言葉を無視して尋ねた。
「あの紫ドレスの男と知り合い?」
「知り合いなわけないでしょう。勝手に連れってことにされただけよ」
半分本当、半分嘘。全部真実を伝えようとするとややこしくなるから。
雅緋の顔があからさまに安堵するのを見て、私は複雑な気分になった。
ホッとするのはまだ早いよ、悪いけど。
私は一番尋ねたかった質問を口にした。
「私、あのパーティーでは、パープル・ヘイズを売ってるって客に知らせる役だったのよね?」
私が、というかリボンをつけたメイドがいれば、「パープル・ヘイズ販売中」、いなければ「今は売ってない」。
そしてホテル側には知られないように、パープル・ヘイズを買いたい常連客と、黒服とをつなぐ役。
私に話しかける客がいると、必ず黒服がフォローに寄ってきたのはそのため。
仮装パーティーで紛らわしい、目立つようで目立たないメイド服は、一種のカモフラージュだ。
そして肩で揺れるオレンジのリボンは、常連客にはよく見知った目印。
おそらく彼ら宛の招待状には、「いつもの御品をご希望の際は、肩にオレンジのリボンをつけたメイドにお申し付けください」とでも書いてあるのだろう。
雅緋の口元が、きゅっと引き締まる。
どう申し開きをしたものか、言葉を探しているのだろう。
しばしの沈黙のあと、彼女は言った。
「怪しいことをしてるわけじゃないわ。ただ、イメージ的にホテル側がいやがるから。いつもは、妹に頼んでるんだけど、もうすぐ受験だから、勉強を優先させてやりたくて……」
「背格好が似てたのね、私と」
彼女は小さくうなずいて、手元に視線を落とした。
「黙っててごめんなさい。事前に言ったら断られると思ったから」
それは誰でも断るだろう。と思ったけど口には出さない。
雅緋は続けた。
「妹の進学費用のために土日だけあの宝石店でバイトしてるの。パーティーの手伝いもその延長で……あの、勝手なお願いだけど、会社の人には言わないでくれる?」
私は口外しないことを約束し、妹さんの大学合格を願っていると言って、お互い仕事に戻ったのだった。
ところで、例の強烈な弟を持つ形部係長だが、奇しくもこの日の終業後、一階に降りるエレベーターでばったり会った。
彼が深刻な顔で
「ちょっと話がある」
と言うのでついていくと、彼は会社のロビーでコーヒーを奢ってくれた。
さすが上司、雅緋よりサービスがいい。
で、彼の話はなにかと聞いてみれば、弟のことを口外しないでほしいという、それだけのことだった。
一日に二度も他人から秘密を口外してくれるなと懇願されたのは、四半世紀生きてきて初めてだ。記念日認定せねば。
「言いませんよ、誰にも」
そうこともなげに答えると、いつもスンとしている彼の顔いっぱいに、安堵と喜びの表情が現れて、私はびっくりした。喜色満面のお手本みたいな顔。
「ありがとう。すまない。恩に着る」
私の手を取って振り回しそうになる彼を制して、いやいやいや、と私は頭を振った。
「今はそういうのをアウティングって言って、セクハラと同じくらい嫌われるんですよ。別に恩に着ていただくほどのことじゃないですって」
これで仕事で何かミスったときはフォローしてもらえるかもしれない。
年末が慌ただしく過ぎて年が明けた頃、例の宝石店主催のパーティーが中止になったという噂が流れてきた。
宝石店は業務縮小となり、雅緋が土日のバイトがなくなったとぼやいていたので、私は彼女にロビーのコーヒーを奢ってやった。
(完)
※挿絵はAIにより作成しました。
※この物語はフィクションです。
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