2024年10月28日月曜日

紅蓮の禁呪151話「竜と龍・八」

 


 そのときの紅子の身体は、口内の粘つく血の味や、曰く言い難い疲労感、冷えて重い手足といった不快な感覚が警鐘を鳴らしていた。

 けれど、貧血のせいでまだ意識が朦朧としていたため、それらをなんとなく疑問に思いつつもどこか夢見心地でやり過ごし、竜介の肩に自分の額を預けて、切望した再会の喜びに浸っていた。――の、だが。


 ゴホン、という遠慮がちな咳払いとともに、紅子にとってなじみ深い声が言った。


「あ~……二人とも邪魔してすまんが、そろそろいいかね?」


 聞き間違えるはずもない、父親の声。

 紅子がハッと目を開けると、竜介の肩のむこう、所在なさげにたたずむ玄蔵の姿が飛び込んできた。


「とっ、父さん!?」


 思わず声が裏返る。

 と同時に、全身の感覚が目覚めて現実がその輪郭を取り戻し、紅子は弾かれたように竜介から離れて立ち上がった――つもりだったが、目の前が不意に暗くなり、よろけて結局、二人に両側から支えられる形になってしまった。

 紅子はいたたまれなさと気まずさで変な汗が出てくるのを感じながら尋ねた。

「あの、その、なんでここに?」


「なんでって、お前を助けに来たに決まってるだろう」


 玄蔵は憮然として答える。

 紅子はようやくはっきりしてきた頭で、今自分がどこにいるのかを思い返した。

 いくら竜介でも単独でここに来れるはずがないのだ――この、空に浮かぶ邪悪な亡者の城までは。

 だとしたら、他にも同行者がいるのだろうか?

 ちょうどそのとき、


「小僧」


 今度は紅子が知らない声が聞こえた。

 竜介が振り返った先を見ると、険しい顔に蓬髪の老人が、今まで気づかなかったのが不思議なくらいすぐそばに立っていた。

 知らない顔だが、どことなく見覚えがあるような気もする。

 そんな紅子の視線を尻目に、老人は頭を倒して自分の背後を示して言った。


「白鷺家のせがれが限界だ。早く行ってやれ」


 そこには泰蔵と、白鷺家の二人がいた。


 彼ら冷たい床の上に座りこみ、泰蔵が青白い顔でぐったりしている志乃武の体重を支え、日可理はその傍らで弟の右前腕を白く輝く両手でじっと固定しているようだ。

 光の中に浮かび上がるその腕はむき出しで、血まみれだった。


「そうでしたね」

 と竜介は言って、玄蔵に紅子を預けて立ち上がると同時に、自分が着ていたファー付きの分厚いモッズコートを脱いで彼女の肩にかけた。


「またあとで、紅子ちゃん」


 そう言い残して彼は彼女のそばを離れ、泰蔵たちのほうへ向かった。

 泰蔵と日可理は彼の姿を認めると、ほっとした様子で頬を緩めた。


 紅子はこのときようやく、自分がいるのは直径数十メートルほどの円形に平たく削り出された一枚の岩盤の上だということに気づいた。

 岩盤は冷たい光沢を放つ黒い岩で、滑らかに磨き上げられた床には、繊細な幾何学模様が掘られているのが、薄明の中でもうっすらとわかる。


 竜介の青い光が志乃武の右腕を包み、紙のようだった志乃武の頬に少しずつだが血の気が戻っていくのが見えると、紅子もまた安堵の息をついた。

 安心すると、いつまでも父親に抱えられているのが気恥ずかしくなり、

「父さん、もう大丈夫だから」

 と、離れようとしたが、立ち上がろうとするとまた立ち眩みに襲われて座り込んでしまった。

「無理するな。お前は死にかけたんだぞ」

 そんな大げさな、と紅子は一笑に付しかけたが、胸のあたりがごわごわするのが気になって触れると、手のひらにべっとりと血がついてぎょっとなった。

「何、この血!?」

「お前、何も憶えてないのか」

 玄蔵は、紅子が封滅の禁術を起動したが、黒珠の伺候者が術圧のせいか「自壊」して術が失敗したことなど、自分が知っている範囲で娘に語った。

 それから、あの険しい顔つきの老人を手で示して、


「我々がここまで来れたのは、こちらの黄根さんのおかげだ。お前の母方の祖父に当たる人だよ」

 と、言った。

「それに、お前の命が助かったのも、黄根さんが竜介くんに力を貸してくれたからだ」


 紅子は黄根老人を見た。

 この人が――

 目の前の老人の顔が、記憶の片隅にあった、白珠の魂縒で最後に見た幻と重なる。

 黙ってこちらを見ている黄根に、紅子は言った。

「あの、初めまして。色々とお世話になって、ありがとうございます」

 だが、老人は表情を崩すことなく、


「礼を言うのはまだ早いようだぞ」


 と、あごで竜介たちがいるのとは別の方角を示した。


 そこにいたのは、鷹彦だ。

 彼は舞台の縁の近くに立って、こちらに背を向けたまま、青い光を放っている。

 一瞬、彼が何をしているのか理解できず、紅子は彼に声をかけようと息を吸い込む。

 しかし、次の瞬間、鷹彦の放つ青い光輝の向こう側、夕暮れのような薄明の中で、大小二体のシルエットがうごめいているのを目にして、紅子の吸い込んだ息はそのまま固まることになった。


 その二つのシルエットは、龍垓と迦陵のものだ。


 どことなく人間離れした動きだったが、すぐにわかった。

 龍垓は折れ曲がった首から偃月刀を抜くと、両手で首の位置をまっすぐに直そうとしている。

 迦陵にはそもそも首がなかったが、胴体が手探りで首を探し当てたところだった。

 

 全身に冷水を浴びせられたような気がした。


 竜介と再会できただけですべてが大団円を迎えたような気でいたが、まだ何も終わっていなかったのだ。


「動き出したな……」


 黄根が苦々しげにつぶやくのが聞こえた。


「もはや猶予はない。紅子」


 呼ばれて向き直ると、ぎろり、と大きな目で見据えられ、紅子は思わず姿勢を正す。


「は、はい」


「お前には今から、黄珠の魂縒を受けてもらう」


 そう言うと同時に、彼は目の前の饕餮紋が刻まれた角柱――禁術起動中にはそこに炎珠があったが、今は何もない――の上に手をかざす。

 その手が金色に輝き、次の瞬間、角柱の上に黄金に輝く宝玉が現れた。

 説明がなくとも、わかった。


 黄珠だ。



※挿絵はAIによるものです

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