2024年5月2日木曜日

紅蓮の禁呪144話「竜と龍・一」

 


 そのかすかな術圧を感じたとき、龍垓はわずかに頬を緩め、迦陵は眉を顰めた。


 黒帝宮の前庭、迷宮庭園。

 「庭園」とは名ばかりの廃墟である。

 植栽に水を供給するために引かれた水路は虚ろにひび割れ、立ち枯れた植物たちの枝や根がはびこり、庭園を飾る列柱や彫像を痛めつけている。

 今にも倒壊しそうな木々や柱から幾重にも垂れ下がる枯れた地衣類の影は、不気味な亡者の群れのようだ。

 しかし今、気の遠くなるほど永い時間放置されてきたその廃園の中で、往年の輝きを取り戻しつつある場所があった。


 庭園中央にある、円形広場。


 つややかな黒大理石を敷き詰めて造られたその場所は、同じ黒大理石の列柱に囲まれ、中央には直径十メートル程度の円形舞台が設けられている。

 床から舞台までは同心円状に段差の低い階段が二段。

 この円形広場周辺と、そこから宮殿までの通路だけは、地衣類や植物の根などが取り払われ、昔ながらの美しい床面が顔をのぞかせていた。

 舞台の上には床材と同じ黒大理石の円柱が、正方形を描くように四つとその対角線が交わる中央に一つ、建っている。

 大人の胴回りくらいの太さに、腰くらいの高さのその円柱には、他の列柱とは違い精緻な饕餮文が彫り込まれていて、彼らはそれらに瑕疵がないか確かめて回っていた。


 彼らが術圧を感じたのは、そのときのことだった。


 それは遠くで投げ入れられた小石が水面に起こした波紋のように微かなものだったが、彼らはその術圧が雷迎術のものであることを即座に感じ取った。


「主上……」


 迦陵が苦々しい気持ちで言いかける。

 が、龍垓はそれを皆まで聞く前に遮った。


「儀式の日延べはせぬ」


 そのきっぱりした口調に、迦陵は眉間のしわを深めたが、何も言わなかった。

 闇が最も深く、黒珠の力が高まる冬の新月。

 これを逃せば禁術の起動が難しいことは、迦陵もよく知るところだからである。


 しかし、と迦陵は思う。


 たった今雷迎術を発動させたのは、おそらくあの竜介という碧珠の若者であろう。

 彼が龍垓と同じ顕化の持ち主であることを、迦陵たちは日可理の記憶のおかげで知っている。


 そして、今の術圧が彼ら黒珠のもとにも届くであろうことは、碧珠の者たちも承知しているはずだと迦陵は思っていた。

 つまり、これは彼らからの事実上の宣戦布告なのだ、と。

 新月の夜、彼らがこの黒帝宮へ来るつもりであることは間違いない。

 もとより喜んで相手になるつもりではある。

 ただ一つ、懸念があるとすれば、自分が「影」になってしまった場合、再び受肉するまで龍垓を一人にしてしまうことだけが心苦しい。


「そう案ずるな」


 不機嫌に黙り込む部下をどう思ったか、饕餮文の確認を終えた龍垓は迦陵を振り返ると、再び口を開いた。

「向こうから封滅の術を受けに来るのだ、引導くらい渡してやろうではないか」

 黒珠の王は自分のそばに寄り添うもう一つの人影に一瞥を送り、そう言ってほくそ笑む。

 迦陵はもはや何も反駁せず、

「御意」

 とただ一言返して頭を垂れた。


 封滅を受ける前、己が何者であったかという個人としての記憶など、とうにない。

 残っているのは主への忠義のみ。

 その思いが己の姿を人として保てている所以だとすれば――

 ならば、その忠義を全うすることの他に、進む道があろうか。


 宮殿内へ戻った彼らを、黒い長衣を着てフードを目深にかぶった「影」が出迎えた。

 フードの奥の闇に、白木の仮面が浮かんで見える。

 迦陵たちが「雑色(ぞうしき)」と呼んで使っている者たちである。

 雑足の長衣の中身は半実体の「影」だが、仮面の額に刻まれた呪符が、不安定な半実体である彼らに仮の実体を与えている。

 個々の記憶や性格などは失われているため、ただ言われたことを言われた通りにこなすだけの存在だ。

 それでも頭数が多ければそれなりに役に立つ。

 龍垓たちを出迎えた雑足は、風が吹き抜けるような音で言葉をつむぎ、伺候者の受肉が完了したことを告げた。


「間に合ったな」


 満足げにうなずく主を、迦陵は複雑な思いで見ていた。

 封滅の儀を他日とする理由はもうない。

 新月は、明日に迫っている。

 再び闇に沈むか、それとも勝利を手にして呪われた楽園を築くか。


 いずれにしても、明日、すべてが終わるのだ。


 ***


 新月当日、朝。

 竜介たち紺野家の三兄弟と泰蔵・玄蔵親子、白鷺家の姉弟、そして黄根老人の八人は、紺野家から最寄りのヘリポートに集まっていた。

 当初の計画では、ここから東京のわだつみホールディングス本社ビルまで白鷺家のVTOL機で一直線の予定だった。

 ところが、新月が近くなるにつれ、東京の気候はどんどん不安定になり、連日零下二十度を下回る極寒と、断続的に襲ってくる激しい雪雷による停電とで、あらゆる航空機に飛行許可が降りなくなっていた。

 本社ビルの屋上ヘリポートには融雪器もあるが、停電ではおそらく機能していないだろう。

 何より、ヘリコプターなどの垂直離着陸機は、雪上着陸ができない。

 ローターの風が巻き上げた雪で視界がホワイトアウトすれば、墜落の危険があるからだ。

 青梅市まではかろうじて飛行許可が降りたのでVTOLを使えるが、そこからは陸路ということになった。

 新月を迎えるのは夕方六時四十三分。

 黒珠がその時刻に封滅の儀式を始めることは、日可理が迦陵と共有した記憶からの情報なので、間違いない。

 それまでに彼らは本社ビルにたどり着いていなければならない。

 青梅市の民間ヘリポートはきれいに除雪されていて、虎光が操縦するVTOL機は無事着陸することができた。

 さらにそこから先の道路も、消防庁の除雪車が特別に先導してくれる手筈になっていた。

 通常なら本社ビルがある新宿までは、一般道を通ったとしても二時間もあれば余裕で着ける距離である。

 しかし、除雪車は作業中、一般車両と同じ速度では走れない。

 それに、竜介たちが乗る十人乗りワゴン車も、念のためチェーンを巻いているため、いつも通りの速度を出すのは危険だ。

 そんな理由から、通常の倍以上の時間をかけてのドライブとなったわけだが、これは彼らにとって、久しぶりにじっくりと東京の街並みを眺める機会ともなった。


 まだ日暮れ前だというのに、空にかかった分厚い雲のせいで薄暗い街並みには灯る明かりもない。

 沈黙している街灯や信号機からぶら下がるつららが、まるでうなだれているようだった。

 切れた送電線があちこちで地面に垂れ下がっているが、これも火花が散っていたりすることなく、ただ静かに凍っている。

 安全のため送電をやめているのか、それとも変電所自体がこの寒さで支障をきたしているのかは、わからない。


 あらゆるものが雪と氷に閉ざされた廃墟。


 それが、彼らが久しぶりに見た東京の姿だった。



*筆者注:挿絵はAIによるもので、実在の建物とは関係ありません

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