2023年8月11日金曜日

紅蓮の禁呪第98話「月の魔法・五」

  真夜中の庭を歩き出すと、月がこちらをうかがうようについてきた。

 夜気は、いつしか晩秋らしい冷たさに変わっていて、肌寒いと感じた瞬間、紅子は小さなくしゃみをしていた。

 思わず二の腕を両手でつかむと、何か温かいものがふわりと彼女の肩を包んだ。

 竜介が肩にかけていた丹前。

「竜介、寒くない?」

「俺は酒が入ってるから大丈夫」

 そう言って微笑む竜介を、月明かりが照らし出す。

 紅子は礼を言って丹前に袖を通した。

 その胸に、小さなさざなみが立つのを感じながら。

 早く布団にもどりたいと思う一方で、もう少しこの時間が続けばいいとも思う、この気持ちはいったい何なのだろう。

 白い月の光に浮かぶ庭には虫の声もなく、聞こえるのは時おり響く鹿威しと、二足の下駄が玉砂利を踏む音だけ。


 まるで、この世界で今、生きて動いているのが彼ら二人だけであるかのように――


「月がきれいだね」


 黙っていると妙に居心地が悪くて、紅子は何気なくそう言った。

 すると、竜介が少し間を置いてから、


「知ってる?それ、『愛しています』って意味らしいぜ」


 一瞬の沈黙。

 紅子は全身がかあっと熱くなるのを感じた。

「あっ、あたしっ、ぜ全然そんなつもりじゃ!」

 うろたえて噛みまくりながら必死に弁解しようとする彼女に、竜介は笑いながら両手で押し止める仕草をした。

「わかってるって」

 そう言って、空を見上げる。

「確かに、きれいだ」

 夜空に冴え渡る光を、二人は立ち止まり、しばし眺めた。

 静寂が、彼らを優しく包み込む。


 ずっとこんな日が続くといいのに――


 そんな思いが、紅子の胸をひたひたと満たしていく。

 と、そのとき、


「ずっとこんな日が続くといいのにな」


 竜介の声が言った。

 自分が思っていたままの言葉に、紅子は驚いて竜介を見た。

 彼もこちらを見ていた。


 二つの視線が重なる。


 どこか遠くから、サイレンの音が響いてくるのを、紅子は耳にした。

 それがまもなく遠ざかり、夜の静寂(しじま)に消えていったとき、訪れた沈黙を破ったのは、紅子だった。


「黒珠を封印し終わったら、竜介は、また外国に行くの?」


「えらく気の早い話だな」

 少し呆れたように笑うと、竜介は紅子を目でうながし、再び歩き出した。

「多分ね。帰国したときは、君ん家に挨拶に寄らせてもらうよ。また東京で会おう」

「そのときはちゃんとヒゲをそって、玄関から来てよね」

「仰せのとおりに」

 他愛のない会話に気分が軽くなっていく。

「あのさ、つまんないこと訊いていい?」

 紅子は自分が使っている客間が見えてきたことを意識しながら言った。


「顕化って、要するに背中に毛が生えてるんだよね?学校のプール授業のときとか、どうしてたの?」


 しばしの沈黙のあと、竜介が言った。

「……師匠に剃ってもらってた」

「そうなんだ」

「見たい?」

「へ?」

「見せてあげるよ」

 そう言うが早いか、竜介が着ていた寝間着のをやおらはだけ始めたので、紅子は慌てて自分で自分を目隠しし、

「ちょっ、そこまで頼んでない!見せなくていいってば!」

 すると、いかにも面白そうな竜介の声が聞こえた。


「なーんてな」


 は?

 なーんてな?

 紅子が恐る恐る顔から両手をはがすと、寝間着の胸元を元通りにした竜介が、ニヤニヤ笑いを浮かべてこちらを見ていた。


「顕化は生まれて数ヶ月で全部抜けちまうんだよ。師匠から聞かなかった?」


 紅子はまたもや真っ赤になる。

「もーっ、またそうやってからかう!」

 頭から湯気を出しそうな勢いで殴りかかる彼女を軽々かわすと、竜介はさも楽しそうに、

「ほらほら、君の部屋に着いたよ」

 と笑いながら言った。

「おやすみ、また明日」

 そう言われたあとも、紅子はしばらく憮然とした顔で竜介をにらんでいたが、「おやすみ」を返す代わりに、特大のアカンベーとともに

「バーカ」

 と言い捨てて、濡れ縁に上がった。

 部屋に入って、障子を閉めるために振り返ると、竜介はまだ同じ場所にいて、こちらを見ていた。

「竜介、部屋に戻りなよ」

「君がおやすみって言ってくれたらね」

「なにそれ」

 バカなの?と紅子は言いかけて、やめた。

 月の光の下で、一人佇む竜介の笑みは、なぜか少し寂しく見えた。


「おやすみっ」


 できる限りそっけなく言って、後ろ手に障子を閉めると、紅子はそのまま耳を澄ました。

 庭の玉砂利を踏む音が、少しずつ遠くなって、聞こえなくなるまで。


 布団に入ろうとして、竜介の丹前を借りたままだったことにようやく気づく。

 丹前からは、抱き寄せられたときに嗅いだ彼の香りが漂い、それはいつのまにか彼女の寝間着にも遷っていた。

 少しほろ苦いような、甘い香り。

 紅子は、自分の胸の奥に、小さな赤い炎が揺れているのを感じた。


 その炎の名前もまだ知らないまま――


 彼女は、竜介の匂いに抱かれて、眠った。

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