2023年8月3日木曜日

紅蓮の禁呪11話「傷跡」

  思い出せ――

 夢の中で、何かが、彼女にささやく。

 こんな苦しみが、こんな痛みが、以前にもあった。

 心の奥に封じ込めていた苦悩を――思い出せ。

 あれは――いつのことだった?

 そうだ、二年前の冬だった。たいていの学校で、卒業式が間近に迫る頃。

 彼女は中学二年で、この季節、少女達にはありふれた悩みを持っていた。

 つまり、ずっと好きだった先輩が卒業してしまうのを、このまま黙って見送るか、どうか。

 幸い、彼女の想い人には、恋人がいるといううわさも聞かず、一縷いちるの望みはあった……たぶん。

 親友にも再三、相談した。

 彼女の親友は、そのさばさばした性格のなせる技か否か、男子生徒に友人がたくさんいたから、情報収集にはもってこいだったのだ。

 とはいえ、本人は恋愛にてんでうとく、肝心かんじんの悩み相談のほうは、からきしだったのだけれど。

 あたしも紅子みたいな性格だったら、卒業までに先輩ともっと仲良くなれたかもしれないのに。

 そんな風にうらやんだことも、一度ならずあったが、今となっては性格を改善している時間などない。

 彼女は何度となくため息をつき、悩みあぐね――そうして、決めた。

 当たって砕けるしかない。

 親友には、この決意は内緒ないしょにしておいた。

 そのほうが、うまくいったときの驚きと喜びも、倍になるというものだ。

 ダメだったときは――一緒に泣いてもらおう。


 Xデーを卒業式の一週間前に決め、それがあと数日に迫った、ある日。

 彼女は親友を捜して、校内を歩き回っていた。

 一緒にお昼を食べようと思っていたのに、姿が見あたらない。

 ようやく見つけたとき、友人は裏庭にいた。

「紅子」

そう呼ぼうとした。

 しかし、彼女の声はのどの奥に詰まったまま、出てくることはなかった。

 親友の傍らにもうひとつ、人影が見え、それがほかならぬ「彼」であることに気付いてしまったのだ。

 彼女の胸に、緊張と不安が走った。

「これ、お返しします」

 親友の、よく通る声が聞こえた。

 彼女はその手に持った水色の封書を、「彼」に渡すところだった。

「……好きな人がいるの?」

 相手の問いかけに、彼女はかぶりを振る。

「あたし……こういうことに興味ないんです。それに」

吐息が、白くこごる。

「あたしの親友が、先輩のことを好きなんです。だから……」

 その後のことは、よく憶えていない。

 気がつくと、教室に戻っていて――

 そう、それから何日か経って、電話がかかってきたのだ。「彼」から。

 その人は、涼やかな声で、彼女に尋ねた。

 今度の日曜、空いてる?と。

「ロードショウの券が2枚あるんで、一緒にどうかなと思って」

 彼女に否やのあろうはずがない。

 けれど、待ち合わせの時刻と場所を決め、さよならを言って受話器を置いたとたん、言いしれぬ不安に襲われた。

 紅子のことを、好きだったんじゃ……?

 ふられたから、あたしに乗り換えようとか?

 これはチャンスなんだろうか、それとも……。

 彼女は、わき上がってくる不安と悲観的観測を振り払った。

 どんな理由にせよ、好きな人とデートできるんだもの!そのことだけを考えて、楽しまなきゃ……いい思い出になるように。

 当日はたしかに、この上ないくらい楽しい一日となった。

 別れの間際、彼女が、

「あの……また、会ってもらえますか?」

と、尋ねるまでは。

 彼の顔から、先までの優しい笑顔が消えた。

「……ごめん」

 長い沈黙のあと、絞り出すような声で彼は言った。

「今日、君を誘ったのは……一色に頼まれたから、なんだ。自分より、ずっといい子だから、絶対気に入るから、って……だけど」

「いいんです!」

春香は思わず、相手の言葉をさえぎっていた。

「今日は、ありがとうございましたっ!」

そう言って、笑って見せたけれど。

 帰宅して自分の部屋に入ったとたん、涙があふれて、止まらなくなった。

 期待していたわけではない。

 しかし、希望を全て捨ててしまうには、彼の態度は、優しすぎた。だから、訊いてしまった。

 また会えるかどうか。

「ごめん」

 そう言ったときの彼の顔が、脳裏から離れない。

 そんなに悲しそうな顔しないで。

 そんなに辛そうな目をしないで。

 誰のせいでもない……そう、誰のせいでもなかった。

 だから、誰にも分からないよう、封じ込めたのに。

 忘れたのに。

 傷ついた心も、その痛みも――

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