2023年8月7日月曜日

紅蓮の禁呪第54話「兄と弟」

 「終わったよ」

 頭上から降ってきた竜介の声で、紅子はハッと我に返った。

「ど、どうもありがとう」

 すでに立ち上がっている彼に椅子から礼を言うと、どういたしまして、というように微笑が返ってきた。

「ここって、白鷺家の客用寝室だよな」

 彼は部屋を改めて見回しながら、確認とも質問ともつかない調子でそう言った。

 湿布をはがして足の腫れが完全に引いているのを確かめていた紅子は、彼の言葉に怪訝な顔をした。

「そうだけど……あたし、言ったっけ?」

「いや、言ってないよ」

 と竜介。

「でもま、話の流れからここがどこだかわかってたし、それに二年くらい前かな、一度泊めてもらったことがあるんだ。バスルームは……こっちか」

 白鷺家の客用寝室には、専用のバスルームが備え付けられている部屋がいくつかあって、志乃武と日可理はそういう部屋を紅子たち三人にそれぞれ一つずつ準備してくれていた。

 昨日の昼近くにこの屋敷で目を覚ましたときに紅子はそのことを知って感激したものだったが、竜介はそれをすでに知っていたのだ――ここに泊まったことがあるから。


 どういう用事だったんだろう。


 食事の時間などに日可理姉弟から聞いた話だと、彼ら二人と竜介は十年来の友人ということだった。

 ここへ来るときに使った垂直離着陸機も白鷺家のものだったし、話のはしばしから、紺野家と白鷺家がほとんど親戚同然のつきあいらしいことがうかがわれた。

 それなら、一度や二度お互いの家に泊まったことがあっても不思議はない……かな……。

 そこまで考えて、紅子はハッと我に返った。なんであたし、こんなこと真剣に考えてんだ!?

 竜介がどういう用事でここに泊まろうと、あたしには関係ないじゃん!

 かあっと顔が熱くなる。

 と、そのとき。

「あのー、追い出すわけじゃないんだけどさ」

 バスルームのドアを開けて中を見ていた竜介が、こちらを振り返ると、少し言いにくそうに言った。

「俺、シャワー浴びるから、悪いけど出てってくれる?」

 紅子は弾かれたように椅子から立ち上がり、

「あっ、ごごごごめん!!気がつかなくて!!」

 そう言って弾丸のように部屋を飛びだすと、後ろ手に、というより背中全体で勢いよく扉を閉めたのだった。

 落ち着け、あたし!!と、紅子は扉にもたれたまま自分を叱咤した。

 何も焦ることなんかないんだ。シャワー浴びるから出てけって言われただけで。

 紅子は深呼吸を一つして気持ちを落ち着けると、とりあえず、竜介の意識がもどったことを鷹彦や白鷺家の二人に知らせようと廊下を歩き出した。


 右足が軽い。


 もう全然痛くない。

 そういえば、さっきも普通に走って部屋を出ることができた。

 紅子は廊下の窓ガラスに写った自分の顔を見た。

 もしかして、と思いながら、左の頬に貼られた絆創膏をそっとはがす。

「……やっぱり」

 傷がきれいに消えていた。


 あたしがうたた寝してるあいだに治してくれたんだ……。


 と、不意に、


「そんなに俺に触られるのがいや?」


 そう言ったときの竜介の傷ついたような目が紅子の脳裏によみがえった。

 いきなり椅子に引きもどされて、右足をつかまれて――よくもとっさに左足で竜介に蹴りをくらわさなかったものだと我ながら思う。

 それに、触られたくない理由も、なんとかうまくごまかせてよかった。少なくともウソは言ってない。

 紅子はふーっとため息をついた。


 また気を合わせられた。


 竜介は右足をつかむ手にまったく力を入れていなかったのに、あたしはぴくりとも動かすことができなかった。

 これで二回目。だけど、最初のときほど不快じゃない。

 それは、たぶん――

 竜介があたしに優しいのは、あたしが封印の鍵だからだと思ってた。

 あたしに同情してくれてるんだなって。

 でも、さっきのあの目は――

 あれは、同情とは違う、何かほかの――


「窓の外見て何ぼーっとしてんの?」


 いきなりすぐそばで聞こえた声に、紅子がぎょっとして振り返ると、鷹彦がすぐ後ろでにこにこしていた。

「そろそろ昼食だから呼びに来たんだけど……ん?」

 と、彼はしばらく紅子の左頬のあたりに視線をさまよわせていたが、やがて、

「ケガ、治ってる?……ってことは」

 紅子は彼の考えていることが手に取るようにわかったので、こっくりとうなずいて見せる。

 そのとたん、鷹彦は、うわー、とかいうような喜びの雄叫びをあげながら、弾かれたように竜介の部屋に突進して行った。

 紅子はその後ろ姿をややあっけにとられて見送ったあと、表情がさえなかった今朝までの鷹彦と今さっきの彼を心の中で見比べて、思わずクスっと笑った。



 外が何だかいきなりえらく騒がしくなったと思っていたら、バスルームに弟が飛び込んできた。

「竜兄――!!」

「うわっ!?」

 シャワーカーテンを勢いよく開けて抱きついてきた鷹彦を、竜介はとっさに泡だらけの手で抱きとめた。

「意識がもどってよかった!俺、俺、ずっと心配してたんだ!」

 涙声でそう言われて、竜介は当惑しながらもとりあえず、

「あー、うん、心配かけて悪かった」

 と、弟の背中を軽く叩くと、その腕を引きはがそうとした。

 が、喜びで我を忘れているらしい鷹彦は、なかなか離れようとしない。

「あっそうだ、もうすぐ昼飯だけど、一緒に食うよな?」

「あ、ああ、もらう。けど、その前に一ついいか?」

「うん?一つでも二つでもいいぜ!」

 上機嫌の鷹彦に、竜介は苦笑しながら言った。

「俺、今全身泡まみれなんで、ちょっと離れたほうがいいと思うんだが」


 髪をドライヤーで乾かしていると、泡だらけになった服を着替えた鷹彦が部屋にもどってきた。

「おー、おかえり」

 竜介が扉を開け放ったバスルームから声をかけると、鷹彦は苦笑して頭をかいた。

「ごめん、竜兄。俺、もうちょっと落ち着かなきゃだな」

「いいさ。それだけ心配してくれてたってことだし」

 竜介は笑ってそう言いながら鏡でヒゲがきれいに剃れていることを確認すると、バスルームを出た。

 まだ裸だった上半身にTシャツと濃紺のコットンシャツを着る。

「うん……でもさ、俺……」

 鷹彦はそう言ってしばらく口ごもっていたが、やがて、

「いや、やっぱいいや。メシ食いに行こうぜ」

 と言って笑ったので、竜介もそれ以上追求しなかった。

 そろって廊下を歩き出したところで、鷹彦がまた口を開いた。


「竜兄って、率直に言って紅子ちゃんのことどう思ってんの?」


 いきなりそんなことを訊かれても、質問の意図がわからない。

 竜介は弟の質問をそのまま投げ返した。

「どう、って?」

「恋愛対象としてどう思うかってこと」

「バカか」

 彼は前を向いたまま、ため息をついた。

「俺にゃガキをどうこうするような趣味はねーよ」

 第一、今はそんなことを考える精神的余裕もない。

「なんで紅子ちゃんがガキなんだよ?」

 不満そうに口を尖らせる鷹彦を、

「あの子、涼音(すずね)と同い年なんだぞ」

 と、彼はたしなめた。しかし、

「だから何?」

 鷹彦はこともなげに言い返す。

「だいたい、何だってうちのアホ妹と紅子ちゃんを同列に持ってくるわけ?彼女のほうがずっと大人っぽいし、プロポーションだって、涼音のえぐれ胸とは月とすっぽん、比較にすらならねーじゃん」

 妹の体型に対する鷹彦の率直すぎる表現に、竜介は再びため息をついた。

「見た目はそうでも、中身は似たようなもんだって。それに、だ。あの子の気の強さはハンパじゃねーぞ。お前だって、知らないわけじゃないだろ。悪いことは言わん、やめとけ」

 兄の言葉に鷹彦はしかし、

「あんな可愛い子になら、何されてもいいぜ、俺」

 と、不敵に笑う。

「第一さぁ、彼女だって元の生活に戻ったら、いつかは誰かと結婚することになるわけだろ?そのとき、御珠(みたま)のこととか力のこととか、何も知らない普通の男よりは、俺たちのうちの誰かと一緒になるほうが絶対いいに決まってるじゃん。幸い、俺っち気楽な三男坊だし、玄蔵おじさんもいいヒトっぽいし、婿養子に入ってもいいかなぁ、なんて♪」

 竜介は脱力した。

「……お前、そーゆーことはせめて相手に好かれてから考えろよ……」

「そうかなぁ?計画は早いほうがよくね?」

 嬉々としてそう言い切れる、その自信の根拠はなんなのか。

 竜介は一瞬、訊いてみたいような気がしたが、やめておいた。

 どうせまともな理屈なぞ返ってくるはずはない。時間の無駄だ。

 鷹彦はおそらく、自分たちの護衛する「お姫さま」が現役女子高生、しかもそこそこ見栄えのする容姿の持ち主ということで、舞い上がっているのだろう。

 少々痛い目に遭ったほうが、彼のためかもしれない。

「好きにしろよ」

 竜介が何かを払いのけるように片手をひらひらさせながらそう言うと、鷹彦はおかしそうに笑った。

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