2023年8月7日月曜日

紅蓮の禁呪第52話「白鷺家の双児・二」

  先に車に乗り込み、エンジンをかけようとしていた志乃武の耳にも、外の荒々しい怒鳴り声は聞こえていた。

 彼がそのままフロントガラス越しに様子をうかがっていると、ほどなくして一つの人影がヘッドライトの明かりの中に入ってきた。

 整備員らしいグレーの上下に身を包んだ、五十歳くらいの、大柄な男。

 おそらくこの飛行場の関係者だろう。

 志乃武はやれやれというように肩をすくめると、車から降りた。


「この火はいったい何なんだ!?あんたらいったいだれなんだ!!」


 やや血の気が多いタイプらしい男は、顔を真っ赤にして立て続けに質問をまくし立てている。

「だからぁ、俺たちも今ここに来たばかりで、本当に何も知らないんですってば」

 鷹彦が懸命に自分たちがこの事態と無関係であることを説明しようとしていたが、その声には疲労の色が濃く、勢いがない。

 傍らで日可理と共に心配そうに成り行きを見守っている紅子も、相当疲れている様子だ。

 無理もない、と志乃武は思った。

 この場の惨状を見れば、彼らがここに到着してからというもの、いかに困難な時間を過ごしたかは容易に想像がつく。

 鷹彦と紅子を早く休ませてやりたい。それに、竜介の傷もまだ気がかりだった。

 男は恐らく、もう消防署に連絡しただろう。

 これだけの規模の火災となれば、警察も出てくるに違いない。

 事態がこれ以上ややこしくなる前にここを立ち去らなければ。

 考えている時間はなかった。

 志乃武はその場の注目を自らに集めるため、軽く咳払いをしてから、おもむろにヘッドライトの中へ姿を現した。

 彼は男に向かって穏やかな笑みを浮かべると、言った。

「僕たちに、何かご用ですか?」

「志乃武くん」

 鷹彦はほっとしたような申しわけないような、複雑な表情を見せた。

 志乃武は鷹彦のかたわらに立つと、彼に聞こえる程度の声量で言った。

「紅子さんに、ついていてあげてください。かなりお疲れのようですから。……それと」

 わざとひと呼吸おいて続ける。


「僕がいいと言うまで、僕の目を絶対に見ないように」


 一方、志乃武の出現は、男の警戒心をますますかき立てたらしい。渋面をさらに苦々しげにゆがめながら、彼は怒鳴った。

「なんだ、まだ仲間がいたのか!あんたら、車に何か隠してるんじゃないだろうな!?」

 中を見せてもらうぞ!

 だが、男が車のほうへ足を踏み出す前に、志乃武は素速くその行く手をさえぎると、相手の目をじっと見すえながら、静かに言った。

「僕たちは何も隠したりしてませんよ」

 見るからにほっそりとした優男が恐れるそぶりも見せず、堂々と自分の行く手をはばんだのが予想外だったのか、それとも単に志乃武の性別を外見から測りかねているだけなのか。

 男は志乃武の端正な顔を不躾にじろじろ眺めながら、

「ほお」

 と凶暴な笑みを浮かべた。

「事務所に電話しても誰も出んから、おかしいと思って直接来てみたらこのありさまだ。それで何も隠してません、ですむと思うのか、ああ?」

 しかし、志乃武は動じない。

「あなたが僕らを疑うのは勝手ですが、それは言いがかりというものですよ」

 その言葉と、落ち着き払った態度が相手の怒りをよけいにあおったらしい。

「言いがかりだと!?」

 そう言いざま、男は志乃武の胸ぐらをぐいっとつかんだ。

「言わせておけば、このガキ……!!」

 男のもう片方の手が拳をつくり、振り上げられる。

 事の成り行きをはらはらしながら見守っていた紅子と鷹彦は、まるで自分たちが殴られるかのように、思わず目を閉じ、歯を食いしばった。

 ところが。

 ややあって聞こえてきたのは、穏やかだがひんやりとした志乃武の声だった。


「放しなさい」


 紅子が恐る恐る目を開けてみると、男は志乃武の言葉に従って彼の胸ぐらからその手をゆっくり放そうとしていた。

 男は拳を振り上げたままの格好で固まり、その顔は忘我の表情を浮かべていたが、志乃武を解放しようとしているもう片方の手は、何か強い緊張にさらされているかのように小刻みに震えていた。

 志乃武はえり首の自由をとりもどすと、軽く息を吐きながら着衣の乱れをただした。

 ヘッドライトの明かりに浮かび上がるその横顔は銀白色に輝き、この世のものとも思えないほど美しかった。


 ことに、凛烈たる光輝を帯びたその黒い瞳――


 紅子はそのまま、魅入られたように彼から目が離せなくなってしまった。

 鷹彦は事前に志乃武から言われたとおり、彼の目を見ないようにしていた。

 紅子も、鷹彦から志乃武の言葉を聞かされてはいたのだが――

 しまった、と思ったときには、もう遅かった。

 彼女の異状にいち早く気付いたのは、すぐ傍にいた日可理だった。

 彼女は急いで手を紅子の目の前にかざした。

 視界をさえぎられた紅子は、まもなく我に返り、白日夢から目覚めたときのように目をしばたたかせた。

「あ……?あれ?」

「よかった。正気に戻られたのですね」

 日可理は安堵の笑みを浮かべた。

「今の志乃武さんを不用意に見ないでください。紅子さままで、あの男性のように正体を失ってしまわれましてよ」

 紅子がその言葉に驚き、正体を失うとはどういうことかと尋ねようとしたとき、志乃武がこちらにもどってきた。

「お待たせしました。行きましょう」

 そう言って笑う彼の瞳からは、さっきの輝きは消え失せ、表情にも人間的な温もりが戻っている。

「彼、あのままにしといていいわけ?」

 すたすたと車に向かう志乃武のあとを追いかけながら、鷹彦は整備員風の男をちらりと振り返る。

 彼は生気のない顔でぼんやりとたたずんだままだ。

 志乃武は運転席のドアを開けながら、

「大丈夫ですよ。十分もすれば、正気に返ります」

「いや、そうじゃなくて、正気に返って俺たちがいないことに気づいたら……」

 鷹彦のこの上なく心配そうな表情を見て、志乃武はクスッと笑う。

「彼はね、もう僕たちの顔も……いや、僕たちに会ったことも憶えてやしませんよ」

 彼は言った。涼やかな顔で。


「全部、忘れてもらいましたから」



 彼らの頭上を覆っていた暗い雷雲はどこへともなく消え去り、空には明るい月が出ていた。

 志乃武と日可理が乗ってきたパールの入った白いワゴン車の中は広々として、座席の座り心地もなかなかだった。

 志乃武が運転席、鷹彦は助手席に座り、運転席の背後の座席には、すでに竜介が横になっていたため、紅子と日可理はその向かい、リヤウィンドウ側の座席に隣り合って腰を下ろした。

「紅子さま、少しお休みになったらいかがです?」

 日可理が言って、座席の倒し方を教えてくれた。

「到着したらお起こししますから……」

 紅子はそれに対して、自分がどう返事をしたかさえよく憶えていない。

 腰を下ろすとほぼ同時に猛烈な眠気に襲われ、深い眠りに落ちてしまった。


 どれくらい眠っただろう。

 窓から差し込む月の光にまぶたを射られ、紅子はふと目を覚ました。


 まだ眠いのに……。


 薄く目を開けてみると、向かいの座席に誰か座っている。

 一瞬、竜介が意識をとりもどしたのかと思ったが、違った。

 月明かりの中に浮かび上がったのは、日可理の白い美貌だった。

 彼女は膝の上に竜介の頭を抱え、その額に浮かぶ脂汗をハンカチで丁寧にぬぐっている。

 つややかな黒髪に月の光を受けながら、慈愛に満ちたまなざしを青年の顔に注ぐその姿は、まるで一幅の絵のようだった。


 しかし――


 その光景は、なぜか細い針のように紅子の胸を刺した。

 理由は分からない。

 だが、ともかく見ていたくなくて、彼女はいったん開きかけた目を急いで閉じた。

 まるで、たった今その目で見たものを、いくつもの不安な夢の一つにしてしまおうとするかのように。

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