2023年8月7日月曜日

紅蓮の禁呪第57話「日可理・一」

  御珠を奉じる彼らの一族は、それぞれ直系の御珠から魂縒を受けることによって、人外の力を振るうことができる。

 しかし、その力は御珠から与えられているものに過ぎない。

 御珠の力が弱まれば、それに連なる者たち――白珠なら白鷺家、碧珠なら紺野家の者たち――の力も弱まることになる。

 日可理が言った。

「魂縒のあとに起きる、御珠の一時的なパワーダウンについて、わたくしが実際に経験したのは志乃武さんが魂縒を受けたときでした」

 志乃武は、

「僕は我が家の書庫にある古文書の知識として知ってるだけです」

 鷹彦は、

「そういや俺も、うちの師匠から聞いただけだ」

「俺は鷹彦の魂縒のときに感じた。半日くらいで元にもどったけど」

 竜介が記憶をたどりながら言った。

「どうやら、自分の魂縒のときには感じないものみたいだな」

 日可理が話を続ける。

「紅子さまは白鷺の人間ではありませんが、魂縒の儀式を行う以上、おそらく同じ事が起きるとわたくしたちは考えています」

 志乃武があとの言葉を引き継いだ。

「問題は、元にもどるまでにかかる時間です。どうやら我々直系の人間の場合は半日くらいで済むようですが、紅子さんはそうではありません。古文書も調べてみましたが、残念ながら炎珠の神女が他家の御珠から魂縒を受けたときの記述は見当たりませんでした」

 日可理が再び続けた。

「この屋敷の結界は、白珠の力に依存しています。もしも、魂縒のあと、力がもどらないまま夜になってしまったら……」

 その仮定に、紅子は背筋が冷たくなるのを感じた。

 夜になれば、黒珠が動き出す。

 白珠の力がもどらないままでは、黒珠の侵入をはばむことは難しい。

 だから日可理たちは、最悪の事態を想定し、竜介の意識が回復するのを待った上で儀式開始を明朝に決めたのだった。


 陽気がいいので、食事が終わってもしばらく彼らはそのまま中庭で話を続けた。

「昨日と今日の新聞が読みたいな」

 竜介が言った。

「ヘリポートの一件、マスコミではどうなってるか知りたい」

「大手のマスコミの見解は、建物の老朽による倒壊・火災でほぼ統一されていますよ」

 朝顔に新聞を取りに行かせたあとで、志乃武が言った。

「一部の週刊誌には、首なし死体がどうの、という猟奇じみた見出しが踊っていたりしますけどね」

「首なし死体?」

 紅子がおうむ返しに訊くと、日可理が少し当惑した様子で、

「紅子さま、ご存知ではなかったのですか?」

「彼女は現場を見てないよ」

 竜介は朝顔から新聞を受け取りながら言った。

「俺が見せなかったんだ。何しろすさまじい状態だったから」

「首から上のない死体がごろごろ、だもんな。しかも、頭の部分がまだ見つからないときた日には、浮かばれるもんも浮かばれねーや」

 鷹彦が吐き捨てるように言った、その言葉を聞いて、紅子はあのときに見た竜介の青ざめた顔と、血の臭いを思い出した。

 彼が吐いたのも無理はない。

 あのとき、竜介は「人が死んでる」としか言わなかった理由も、今ならわかる。

 あの強い血の臭いの中で、どんな死に様か聞かされていたら、あたしも鷹彦と同じことになってたかも、と紅子は思った。

 首のない死体が累々と転がっている光景なんて、今想像するだけでもぞっとする。

 首のない――


 じゃあ、首から上はどこへ?


 その瞬間、彼女の脳裏を、一つの光景が閃光のようによぎった。

 一瞬の稲光、その中に浮かび上がった、崩れかけて歪んだ人間の顔。


 そして、それを食べていた、蛇の化け物。


 それじゃ、あれは――あの頭は――!


 考えたくなくても、紅子の頭は彼女の意思とは無関係に、考えることをやめようとしなかった。

 駐車場に停まっていた車の数から、建物の中にいたであろう人の数を推測する。

 それだけの数の頭部を、あの蛇の化け物一匹だけで消化できるだろうか?おそらく無理だ。

 だとすれば。

 あの化け物だけが特別でないとすれば――


 黒珠は、人を、人の頭を食べる……。


「紅子ちゃん?」

 それは竜介の声だったろうか、それとも鷹彦のそれだったろうか。

 いずれにしても、名前を呼ばれて、紅子は我に返った。

 他の四人が心配そうにこちらを見ている、その顔がなぜか下のほうにある――と思ったら、いつの間にか立ち上がっていた。

 背中をいやな汗が伝い落ち、暖かい午後の日差しの中にいるのに、全身の震えが止まらない。

 口の中が、からからに乾いている。

「今の……どういう意味?」

 鷹彦が、触れてはいけないものに触れようとするかのような声で尋ねた。

「今の、って?」

 あたし、何か言ったんだろうか。

「……黒珠は、人を食べる」

 もう一方の隣から、竜介の静かな声が言った。

「きみは今、そう言ったんだ」



 紅子が眠ったのを見届けて、日可理はそっと客用寝室を出た。

「お休みになられました」

 廊下で待っていた竜介と鷹彦の二人に言う。

「鎮静の術をかけておきましたから、夕食までぐっすりでしょう」

 日可理の言葉で、彼らはほっと安堵の表情を浮かべた。

 礼を言う二人に、日可理はとんでもない、と首を振って、

「気丈に振る舞っておられますが、やはり精神的なショックが大きかったのでしょうね。昨夜もあまりよくお休みではなかったようですし」

「だれかさんのことが心配だったせいもあるんじゃねーの?」

 鷹彦が言い、意味ありげに兄の顔を見てにやりと笑う。

 竜介はそれを見て、昼食に向かう途中、鷹彦がなぜいきなり、紅子をどう思うかなどと訊いてきたのか、その理由をなんとなく理解した。

「俺のケガに責任を感じてただけだろ」

 竜介が素っ気なく言うと、鷹彦は肩をすくめて、

「かもな」

 と、曖昧な同意を示してから、大きく伸びをした。

「俺っちも眠れるうちに寝ておこっかな。明日は朝から忙しくなりそうだし」

 時間帯としてはふさわしくないお休みを言うと、彼は自室にもどって行った。


 弟の姿が扉のむこうに消えるのを見送りながら、竜介が独り言のようにつぶやいた。

「それにしても、黒珠が人間の頭を食べるとはな」

 とりあえず、明日は紅子ちゃんを絶対に一人にしないように気をつけないと。

「わたくしも、初耳でした」

 日可理が深刻な顔でうなずいた。

「黒珠の石柩(せきひつ)を解放した人たちの遺体がなかったのも、もしかして……」

「かもしれないな」

 語尾を濁す日可理に、竜介はうなずいて見せた。

 なぜ人を捕食するのか、その理由はわからない。

 単なる嗜好的な欲求によるものなのか、それとも何か、特殊な要求によるものなのか――

 いずれにしても、考えて答えがでるものでもない。

 竜介は思考を打ち切って、目の前の相手に意識をもどした。

「そうだ、危うく忘れるところだった。これ、返しておくよ」

 彼はシャツの胸ポケットに入れていた短冊を取り出すと、日可理に手渡した。

 他でもない、紅子の力の暴走を止めるときに使った呪符だ。

「ありがとう。日可理さんの予知とこの呪符がなかったら、今頃どうなってたか」

 日可理はほんの一瞬、竜介の笑顔をまぶしそうに見たあと、ふっと目を伏せた。

「いえ、お役に立てて何よりです」

「結界の呪符は一色家に貼ったままだけど、それでよかったんだよな」

 日可理は首肯した。

「紅子さまのお父様に累が及ぶことも考えられますから」

 あの呪符は、炎珠の力を受けて結界を起動するように作りましたから、白珠の力に左右されることはありません。

「それなら、おじさんのことはひとまず安心だな」

 竜介はそう言ってうなずいて見せてから、話題を変えた。

「ところで、黄根(きね)の頑固じいさんのこと、何かわかった?」

 しかし、日可理は残念そうにかぶりを振る。

 竜介も、小さくため息をついた。

「そうか……」

「紅子さまには、もうお話しになったのですか?」

「黄珠が行方不明だってことだけは話したよ」

 黄根さんのことは、俺にはわからないこともあるからね。うちの師匠からじかに話してもらったほうが、あの子も混乱が少なくてすむだろう。

 日可理は彼の言葉にうなずいて、

「わたくしはこれから、また黄珠と黄根さまの気配を探ってみます。明日はおそらく一日、星見が利かなくなるでしょうし」

「うん、ありがとう。頼むよ」

 と、竜介は微笑して日可理の肩をぽんと叩いた。

「俺は、あの子の目が覚めるまで、ついててやるかな。幸い睡眠は充分とらせてもらったし」

 日可理はふっと笑った。

 胸の奥の痛みを努めて無視しながら。

「紅子さまのことが、ご心配なのですね」

 紅子の部屋のドアノブに手をかけていた竜介は、苦笑して肩をすくめた。

「涼音を思い出して、ほっとけないんだよ」


 ――本当に、それだけでしょうか。


 閉ざされた扉にむかって、日可理は声に出さずに問いただしていた。

 まだ気がついていないだけなのではありませんか――

 彼女も、あなたも。

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