2023年8月12日土曜日

紅蓮の禁呪第107話「心の迷宮・一」

  重力感覚の消失した闇の中を漂っていた。上も下も分からない、眠っているのか目覚めているのかもわからない。

 そんな状態がどれくらい続いたろうか。

 数分か、もしかしたらほんの一瞬のことだったのかもしれないが、時間の感覚も消えていたから、はっきりしたことはわからない。

 不意に目の前が明るくなったと思うと、すべての体感がよみがえり、足が地面を捉えた。

「ここは……」

 まぶしさに目を慣らしながら、竜介はゆっくりと周囲を見回し、次いで自分の身体を改めた。

 靴を履いている、という一点を除いて、彼の姿は現実のそれと何ら変わることはなかった。

 着ていた服もそのまま、そして、身体の感覚もそのまま。

 触覚も痛覚も、夢のようにあいまいではない。

 ここは本当に、黄根老人の言う「意識界」なのか。


 これはまるで――現実と同じじゃないか。


 そう思いながら、彼は目の前に建つ家屋を見る。

 白い漆喰の土塀。門の表札に「一色」と書いてあるそれは、彼のよく見知った家、紅子の自宅だった。

 近隣の町並みも何もかも、彼の記憶と同じ。

 あのクソじじいに一杯食わされたのか、と一瞬、彼は疑念を抱いた。


 これはたちの悪い冗談か何かか?


 どちらにせよ、今の彼がそれを確かめる唯一のすべは、目の前の家を訪ねてみること、それだけだった。

 呼び鈴を押すと、インタホンから「はい」という、耳になじみのない女の声が聞こえた。

 若くはない、だがしわがれてもいない、つやのある声。


「どちらさま?」


 竜介は一瞬、どう言えばいいのかためらってから、「紺野です」と名乗る。

 インタホンの向こうで、ふっと笑う気配がした。

「どうぞ。お入りなさい」

 と、同じ声が答え――玄関の引き戸が、音もなくするすると開いた。

 いつの間に自動扉に改装したのか、などとくだらない軽口を声に出さずにつぶやいてから、やはりここは現実ではないのだ、と思う。

 その証拠に、玄関をくぐったとたん、空気が重くなったような違和感――「術圧」があり、禁術によって造られた空間に入ったことを彼に教えた。

 こちらへ、と呼ばれたような気がした。

 実際に声が聞こえたわけではないが、人の気配を感じて、家の奥へ進む。

 屋内の間取りも現実と同じだった。

 仏間を兼ねている坪庭に面した奥座敷に、「彼女」はいた。


「お久しぶりね。竜介さん」


 インタホンから聞こえたのと同じ声――それは、紅子の祖母である八千代だった。

 彼女は竜介が最後に会った時と同じ、壮年くらいの姿で、家紋入りの喪服を着て正座していた。


「ご無沙汰しています」


 死んだはずの人間にご無沙汰も何もない、と思いながらも、竜介は八千代の前に膝を折って座ると、形式的に挨拶を返す。

 八千代は婉然と微笑み、言った。

「あなたがここに来たということは……黄根が来ているのね?」

 やや切れ上がった気丈そうなまなじりは、笑うと紅子によく似ている。

 竜介の首肯を待って、彼女は「そう」と苦笑混じりにうなずいた。

「仕方ありませんね。この子を連れて行ってくださいな」

 そう言って、彼女は自分の膝の上に座っていた小さな女の子を立たせた。

 竜介はそれまでそこに子供がいるなど、まったく気づかなかった。


 八千代の膝の上は、空ではなかったか?


 彼の当惑をよそに、彼女はいやいやをして自分にすがりつく幼い少女の髪をなでながら、

「紅子、だめよ。おばあちゃまは一緒に行けないの」

 と言い聞かせる。

「さ、お行きなさい」

 八千代は少女の肩をつかみ、竜介のほうを振り向かせる。

 それは確かに紅子だった。

 彼が初めて会ったときと同じ、二歳の子供。


「この子をこの家から出せば、術は解けます」


「この子だけ?」

 本当にそれだけでいいのか。

 竜介は思わず念を押した。

「なぜです?八千代おばさんも一緒に来られれば、紅子ちゃんも安心しますよ」

「わたくしは術の要ですから。ここを離れられません」

 彼女は口元に笑みを貼り付けたまま答える。


「術が解ければ、私は消えます……この家と一緒に。そして、あなたとこの子は、現実に戻る」


 竜介は小さな紅子を見た。

 黒いウールのワンピースは日奈の葬儀のときと同じで、彼の記憶を忠実に再現している。

 本当にこの子さえ連れて出れば、術は解けるのか?

 不安そうに指をくわえてこちらを見ている彼女に片手を差しだし、彼は笑いかけた。


「おいで。一緒にお外に行こうか」


 少女はしばらくの間、祖母と竜介の顔を交互に見比べていたが、祖母に強く肩を押されて、恐る恐る青年に近づく。

 竜介は小さな紅子の手を取って立ち上がると、一旦両腕で高く抱き上げてから自分の左腕に少女を座らせるようにして抱えた。

 実体は確かにあるのに重さがほとんど感じられないのは、やはりここが現実ではないからか。

 視点が高くなったのが気に入ったのか、少女の眉間にあったしわはたちまち消え、彼女は子供らしく声を上げて笑った。

 竜介は少女の機嫌が変わらないうちにと、八千代に「失礼します」と会釈して座敷を出て、玄関に向かう。

 だが、そうしながらも彼は、これでいいのか、と自問を続けていた。

 廊下を歩きながら、腕の中でおとなしくしている子供を見る。

 朋徳は紅子を説得しなければならないと言った。

 だが、この子供にそんなものは必要なかった。

 罠が仕掛けられているかもしれない、とも言っていた。

 だが、それもなかった――本当に?

 頭のすみで黄信号が明滅を繰り返している――あまりにもすんなり行き過ぎる、と。

 玄関はもうすぐそこに見えていた。

 格子に曇りガラスの入った引き戸から、外の光がまぶしく差し込んでいる。

 いきなり立ち止まった竜介を、小さな紅子が不思議そうに見上げる。

 彼はその顔をまじまじと見つめながら考えた。


 これは、本当に紅子だろうか――?


 玄関を出れば、自分とこの少女は現実に戻る。

 八千代のその言葉が真実だとして、そのあと目を覚ました紅子は、自分が知っている通りの彼女のままだろうか。

 何か、大変な見落としをしているのではないか。

 現実のようで現実ではない、奇妙な場所。

 こんな気味の悪い所からさっさとおさらばしたい気持ちはやまやまだったが、どうやらそうも言っていられないらしい。

 竜介は少女をしっかり抱え直すと、意を決してきびすを返した。

 奥座敷に戻った二人を、八千代は少し驚いた様子で見てから、微笑した。

 目が笑っていない、怖いような笑み。


「なぜ、戻ってらしたの?」


「俺をここに寄こすとき、黄根さんがおっしゃってたことを思い出したんです」

 竜介は言った。

「罠の一つ二つは覚悟しなければならない、と」

 八千代はくつくつと喉の奥で笑った。

「いやな男ね、相変わらず」

 そう言った彼女の口調はしかし、むしろ楽しそうに聞こえた。

「この子供を連れて現実に戻ったとして……本当に紅子ちゃんは目を覚ますんですか」

「わたくし、うそは言ってませんよ」

 彼女はそう言いながらおもむろに立ち上がると、竜介の腕から小さな紅子を抱き上げた。

「でも、大事なことをおっしゃっていないように俺には思えるんですが」

 八千代は自分をにらんでいる青年の目を一瞥してから「そうね」と認めた。

「あなたに言っていないことはあります。せっかく戻ってきたんですもの、教えてさしあげましょうね。この子だけを連れて行っても、確かに紅子は目を覚まします。ただし……」

 その後には、衝撃的な言葉が続いていた。


「ただし、意志も感情もない、人形としてね」


 しばらくの間、竜介は二の句がつげなかった。

 口蓋に貼り付いた舌をはがすようにして、やっと声を出す。

「……なぜ、そんな……」

「なぜ?」

 八千代は冷笑を浮かべて言った。

「それがあなたがたの望みだからじゃありませんか。黒珠に封禁をかけることに命を捧げ、次の神女を産むことに唯々諾々と従うことが」

 竜介はカッと頭に血が上るのを感じた。

「誰もそんなことは望んでない!」


「あなたはそう思っても、周りはどうなのです?」


八千代は彼の言葉をさえぎるように言った。

「あなたのご親族たちは?白鷺家のかたたちは?たかが小娘の意志や感情を尊重してこの世界を危うくすることを、果たしてよしとするでしょうか」

 自分がかねてより懸念している通りの問題をつかれ、竜介は言葉に詰まった。

「……その答えは、紅子ちゃんに直接言います」

 八千代を説得しても意味がない。

「彼女に会わせてください。今、どこにいるんですか」

 小さな紅子を抱いた壮年の女は、その質問には答えず、

「もし黄根が寄こしたのがあなた以外の人間だったら、あの玄関をくぐった時点で死んでいました。わたくしとしては、あなたも殺してしまいたいところなのだけど」

 と、恐ろしいことをさらりと言って微笑した。

「よろしいでしょう、会わせてさしあげます」

 彼女は後じさるようにして竜介から数歩離れた。

 どこへ行くのか、と彼が近づこうとした、そのとき――

 八千代の足元から、忽然とオレンジ色の炎が現れた。

 赤い火の粉を散らしながらそれは見る間に大きくなり、現実と同じその熱に、竜介は思わず腕で火の粉を避け、さらに後退せねばならなかった。

「黄根によろしく伝えてちょうだい……」

 灼熱の炎に焼かれながら、八千代は微笑した。

 彼女の腕の中にいる小さな紅子は、眠っている。

 彼女たちは炎の熱を感じてはいないのだ。


「さよなら、坊や……せいぜい紅子を説得してご覧なさいな」


 その言葉を最後に、二人の姿は完全に炎の中に消えた。

 小僧だの坊やだの、夫婦そろって人を何だと思ってやがる――

 そう言い返してやりたかったが、目の前にあるのは、もはや凄まじい勢いで燃えさかる炎のみとなっていた。

 螺旋を描きながら燃える火炎は巨大な花のつぼみのようでもあり、昆虫のまゆのようでもあった。

 それは間もなく、頭上から少しずつ、ほどけるように開き始めた。

 真紅の火の粉が舞う。


 誰も見たことのない、それは蝶の羽化だった。


 灼熱の花弁の中で、ひそやかに息づく美しい生き物。

 それが今、ゆっくりと目を覚ます――運命とともに。

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