人の気配を感じさせないその少女は、紅子の背後に、いつの間にかひっそりと立っていた。
竜介の部屋に飛び込んでいく鷹彦の姿を見送ってから、志乃武たちのところにもこの朗報を持って行こうときびすを返したそのとき、紅子はようやく彼女の存在に気づいた。
淡い空色のメイド服を着た、ショートボブの、中学生くらいの女の子――少なくとも、見た目は。
昨日、この屋敷で目を覚ましてからというもの、こういうことは何度か経験したが、いまだに慣れない。
今まで何もなかった場所に卒然と現れる「彼女たち」を見るたび、紅子はぎょっとさせられる。
「紅子さま、ご昼食のお時間です」
赤い唇にあるかなきかの笑みを浮かべ、抑揚のない声で少女は言った。
「本日は志乃武さまのご希望で、中庭のテラスにご用意させていただきました。ご案内いたします」
「あ、ありがとう」
先に立ち、すべるように歩き出す少女の背中に、紅子が言った。
「えーと、あの、朝顔だっけ?日可理さんと志乃武さんに、竜介が目を覚ましたって伝えてくれる?」
すると、朝顔はぴたりと足を止めて肩越しに紅子を振り返り、
「わたくしにお話いただいたことは、すべて我があるじに伝わっております、紅子さま」
無表情にそう言って、再び静かに歩き出した。
日可理たち姉弟の曾祖父の代に建てられたという白鷺家の屋敷は、見た目こそ古いけれど、壮麗だった。
屋敷の東西の翼をつなぐ中央の棟には広い吹き抜けがあって、赤い絨毯に覆われた階段が左右から翼のように優美な円を描きながら下のフロアに向かって伸びている。
上へ向かう階段がないのは、紅子たちの使っている客用寝室が、この屋敷の最上階である二階に位置しているからだ。
吹き抜け部分の天井はモスクか教会のような丸屋根になっていて、明かり取りを兼ねてはめこまれた色ガラスが階段や手すりに美しい模様を描いていた。
昨日、鷹彦と一緒に屋敷の中を日可理たち姉弟に案内してもらったとき、紅子はまずその広さにあきれ、次いでそのひとけのなさに驚いたものだった。
聞けば、志乃武と日可理の祖父母はすでに亡く、両親は仕事の都合で世界各地を飛び回っているらしい。
そういうわけで、今現在、この屋敷の住人と呼べるのは、彼ら姉弟だけなのだと言う。
「少なくとも、人間は、ね」
志乃武は少しいたずらっぽく笑ってそうつけ加えた。
その言葉が何を意味するのかを、紅子はそれから半日も経たないうちに理解することになるわけだが――
紅子は目の前を行く少女の姿をしたものの後ろ姿を見た。
人の姿をしているが、人ではないもの。もっと言えば、生物ですらないもの。
彼女、朝顔は、日可理が一昨日、紅子の目の前で使って見せたあの白いヒルたちと同じ「式鬼(しき)」――西洋風に言えば使い魔、一般には「使役霊(しえきれい)」と呼ばれる類のもの――なのだった。
白鷺邸には、通いで平日のみ食事を作りに来てくれる料理人とその助手たちや、食材や日用品を届けてくれる出入り業者などはいるが、メイドや家政婦はやとっていない。
それでいて不都合が何も起きないのはなぜなのか。
一体誰が、この広い屋敷の内外を絶えずこぎれいに保ち、家人が洗濯に出した衣類に然るべき処置をほどこして、それぞれの部屋にもどしておいてくれるのか。
そして――
なぜ、ひとけのない邸内で、奇妙な気配をこんなにもたくさん感じるのか。
その答えに気づいたとき、紅子はようやく、志乃武が暗に言おうとしたことを理解した。
人間でないものならたくさんいるけれど。
という意味だったのだ。
中庭に出ると、朝顔とそっくりの少女の姿をしたもう一人の式鬼が、紅子を迎えてくれた。
「ようこそ、紅子さま」
彼女の名は夕顔。朝顔が淡い水色のメイド服なのに対し、彼女は薄紫色のメイド服を着ている。
紅子は、どうも、とやや口ごもりながらあいさつを返すと、芝生の上に出された丸テーブルのほうへ向かった。
外は澄んだ秋の青空が広がり、風もなく暖かだ。絶好のピクニック日和。
テーブルにはバラの地模様がある白いクロスがかけられ、そのそばには鋳鉄の椅子が五脚、そのうちの二つはすでに志乃武と日可理が腰をおろしていた。
志乃武は紅子の姿を認めると日可理とのおしゃべりをやめて立ち上がり、自分の隣の椅子を引いて、
「どうぞ」
と、にこやかに勧めた。
こういったテーブルマナーに慣れていない紅子は、彼のこの動作に当初どう応じたらいいのかわからずうろたえてしまったが、少なくとも今は、
「ありがとうございます」
と落ち着いて席に着くことができるようになっていた。
日可理はそのあいだに、自分の式鬼たちに新たな指示を出していた。
「朝顔、竜介さまたちにも昼食の場所をお知らせしてちょうだい。夕顔はそろそろ食事の準備を」
「承知いたしました」
式鬼たちはまったく同じ動作で一礼すると、かき消すように姿を消した。まるで元から幻か何かだったかのように。
「神出鬼没」とは彼女(?)らのためにあるような言葉だ、と紅子は思った。
慣れればこれほど便利なものもないだろうが、やっぱりちょっと薄気味悪い。
そんなことを考えていると、志乃武が言った。
「今、竜介さんの意識がもどってよかったと日可理と喜んでいたところなんです」
ね、というように彼が日可理を見ると、彼女もにっこりうなずく。
「紅子さまのおけがも、治ってようございました」
「ああ、そういえばここに来るときも普通に歩いていたし、頬の傷も消えてますね」
志乃武にもそう言われて、紅子も愛想良く笑って見せた。
式鬼は苦手だが、この見目麗しい姉弟のことは好きだ。
「竜介が治してくれて、助かりました」
頬の傷は放っておいてもよかったんだけど、というのどまで出かかった言葉を彼女は封印した。
喜んでくれている二人の気持ちにわざわざ水を差す必要はないし、実際のところ、くじいた足に関しては本当に助かったと思っていた。
あのままだと、痛みが少しましになったら無理をして悪化させてを繰り返していたことだろう。
「お食事のご用意をいたします」
さっき消えた夕顔がまたもや不意に現れ、紅子たちの前にカトラリーや皿などを並べ始めた。
志乃武は、夕顔が出現したときの紅子の顔を見てクスッと笑い、
「紅子さんは、うちの式鬼たちにまだ慣れないようですね」
「仕方ありませんわ、まだ二日目ですもの」
日可理がフォローを入れてくれる。
いや、たぶん長居しても慣れないものは慣れない気がする、と思いながら、
「す、すみません」
紅子はきまりが悪くて思わず謝った。
「人の姿なのに人の気配じゃないから、混乱しちゃって」
すると、日可理はわずかに目をみはると、つぶやくように言った。
「竜介さまと同じようなことをおっしゃるのですね」
「え?」
と紅子が聞き返す。
「今、何て……」
しかし、ちょうどそのとき、朝顔に伴われて竜介と鷹彦が中庭に現れ、日可理の小さなつぶやきはそれきりになってしまったのだった。
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