2023年8月9日水曜日

紅蓮の禁呪第77話「壊れた鏡・三」

  一方、こちらは女湯。


 露天風呂の女湯というのはたいてい、外からの視線をさえぎるのに気を遣うあまり、中からの眺望が制限されてしまっているところが多いのだが、このホテルの場合は女湯から見る景色もなかなか絶景だった。

 清掃が終わったときのまま、誰も使っていない朝の露天風呂は、湯の香りもすがすがしく、実に贅沢な雰囲気である。

 ずっと気になっていた身体の汚れをようやく洗い流したことも相まって、紅子は湯船に浸かりながら解放された気分を味わっていた。

 ボロボロに破れた着物を脱いだ日可理も同じ気持ちだったようで、紅子の隣でほっと大きく息をついている。

 が、いかんせん、付き合いが短い上に育った環境も年も違う二人は共通の話題も少なく、男湯と違って、こちらの会話は途切れがちだった。


「やっと人心地つきましたわね」

「あっ、はい。そうですね」


 会話終了。

 沈黙が痛い紅子は、懸命に次の話題を探す。

 と、そのとき、折よくというべきか否か、彼女の腹の虫が元気よく自己主張した。

 恥ずかしさに赤くなると、

「落ち着いたら、お腹が空きましたね」

 日可理がにっこり笑いながら言った。

「あとでルームサービスを頼みましょう。ここはお食事も美味しいんですのよ」

 そう聞いて、紅子はこのあとの食事が俄然楽しみになった。

 それにしても、こんな豪華なホテルの一室をいつでも使えるようにしてあるなんて、と白鷺家の財力に今更ながら紅子が圧倒されていると、日可理が続けてポツリと言った。

「今年は黒珠のことがありますから、ここには来られないと思っておりました。でも、来られて嬉しいです」

「えっ、日可理さんたちはいつでも泊まりに来れるんでしょう?」

 多少恥はかいたけれど、話の接ぎ穂が見つかってよかったと思いながら紅子が尋ねると、日可理はちょっと寂しそうに笑った。

「子供の頃は、それこそ学校が長期休暇のたびに遊びに来ていましたが、今は両親が帰国したときくらいです。あとは、学生時代のお友達がこちらに帰ってきているとき、ここで一緒に食事をしたりするくらいかしら……」

 学生時代のお友達?

「それってひょっとして、か……」

 お友達、とは持って回った言い方だが、成人である日可理に相手がいても何ら不思議はない。だから紅子もごく軽い気持ちで訊いたのだが、彼氏ですか、と皆まで言う前に、日可理は首まで赤くなってとんでもないとばかりに首を振った。

「いえいえ、女の子のお友達です!」

 いつも静かに微笑んでいるような彼女の意外な反応に紅子が驚いていると、日可理はさらに恥ずかしそうにうつむいて、こう言った。


「あの、わたくし、特定の男性とお付き合いしたことはまだないのです」


 絶世の美女の意外な告白。

 たしかに、日可理は深窓の令嬢然としすぎていて、普通の男性からは少々とっつきにくいのかもしれない。

 しかし、そういう点を差し引いても、これほどの美女を世の男性が放っておくとは思えない。


 それとも、日可理は紅子と同じく、恋愛に興味がないのだろうか?

 紅子がどう反応したものか当惑していると、日可理は続けて、

「男性からアプローチを受けたことは何度かあるのですけど、わたくしには、ずっと思い続けているかたがおりますから、お断りしましたの」

「片思い中ってことですか」

「そういうことになりますわね」

 そう言って、日可理は少し寂しそうに笑った。

 一方、片思いといえば、否応なく紅子の脳裏をよぎるのは春香のことである。

 いつも誰か(イケメンに限る)に片思いしている親友。

 日可理のような美女でさえ片恋することがありえるのだから、彼女に比べれば――世間並みに可愛らしくはあるけれど――平々凡々たる容姿の春香が片思いに悩むなどは、もはや万有引力と同じくらい当然のこと、なのかもしれないと彼女は思った。


 それにしても、単なる世間話のつもりだったのに、なんだか悪いことを聞いちゃったみたい。


 ずっと思い続けている、と日可理は言った。

 それはつまり、惚れて告白して玉砕してを繰り返している春香とは、恋という言葉の重みが全く違うということくらい、恋愛に疎い紅子にも理解できる。

 しかし、赤くなって慌てたり、寂しそうだったりする日可理に俄然親しみがわき、励ましたいという気持ちもあって、紅子はごく軽い気持ちで言った。


「あたし、恋愛のことはよくわからないけど、日可理さんの気持ちが、いつか相手に通じたらいいなって思います」


 日可理はこの言葉を「ありがとう」と笑って聞き流そうとした。

 紅子は日可理の思いを知らない。

 それゆえ、紅子に悪意がないことは、日可理も重々承知している。

 だがそれでも、無邪気すぎるこの言葉は、日可理の心をひどくかき乱した。


 何も知らないというのは、いい気なものだ。


 そんな思いが、波立つ心の奥底から、不意に湧き上がってきた、そのとき。

 ――知らないなら、教えてやればよい。

 何かが、そうささやいた。

 教えてやればよい。おまえがどれだけ長いこと、あの男を慕ってきたか。

 思い知らせてやればよい。

 おまえがどれほど苦しみながら、その恋慕を絶とうとしているか――


 心の那辺からのものか、そのささやきはどす黒い悪意に満ち、熱い湯の中にいるにもかかわらず、日可理は背筋が凍るような寒気を覚えた。

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