2023年8月14日月曜日

紅蓮の禁呪第130話「冬の始まり・七」

  玄蔵にこれから訪問する旨の電話を一本入れて、彼らはレストランを後にした。

 電話に出た玄蔵は、昨晩と変わらず淡々としていて、それが竜介にはやはり引っかかった。

「俺は何年も前に会ったきりだけど、玄蔵おじさんってわりとわかりやすいタイプの人じゃなかったっけ?」

 虎光が一色家へ向かう車中で尋ねるので、竜介はうなずいた。

「今はまあ、若い頃ほどじゃないけど」

 虎光は少し考えながら「ふうん」と相槌を打ったあと、

「じゃあ、やっぱりよほど覚悟を決めてるのか……」

「どうだろう」

 と、竜介は言った。


「俺には、何か隠してるように思えるんだがな」


 玄蔵の態度の意味を測りかねたまま、二人は一色邸に到着した。

 車を降りると、雨のせいだろうか、昼間だというのに気温が下がってきているようで、吐く息がかすかに白く、竜介は身震いを一つした。

 門をくぐると、インタフォンを鳴らすまでもなく、家主は玄関前の敷石の上に立って待っていた。

 道場に出るときのような作務衣やジャージではなく、改まった紬の着物に羽織姿である。

 竜介が紅子の護衛のため十四年ぶりにここを訪れたときと同じで、彼は奇妙な懐かしさを覚えた。


「やあ、虎光くんも来てくれたのか」


 玄蔵は穏やかな――彼らの訪問理由を考えると、穏やかすぎる――笑みとともに言った。

「遠いところをすまないね」

「いえ、こちらこそお時間いただいてすみません」

「ご無沙汰しています」

 と、竜介と虎光が挨拶するのもそこそこに、

「まあ上がりなさい」

 玄蔵は引き戸を開けると二人を玄関の中に招き入れた。

 竜介は困惑した。

 彼は土間に額をつけて許しを乞うつもりだったのだが、成人男性――うち一人は壁のような巨躯――が三人同時に立つと、もはや正座するような余地はない。

 仕方なく竜介は立ったまま頭だけでも下げようと、


「この度は、何と言ってお詫びをしたらいいのか……」


 と、言いかけた。

 だが、


「謝らなくていい」


 玄蔵は竜介を静かに遮った。

 そうして廊下に上がると、先に立って歩き出した。


「ついて来なさい」


 頭の中で描いていた段取りとはまったく違うが、相手の厚情を固辞するのも無礼だ。

 竜介は虎光と目顔でうなずき合うと、靴を脱いで玄蔵のあとに続いた。

 玄蔵は竜介がよく見慣れた仏間兼客間のふすまを開け、中に入るよう、二人を促す。

 そこには、先客がいた。

 黒の綿入り作務衣を着た、蓬髪の老人。


「黄根さん……!?」


 竜介が思わず声を上げると、床柱を背にあぐらをかいていた老翁がこちらを見た。


「来たか」


「どうして……ここに」

 虚を突かれた竜介が我知らずつぶやいた疑問に、彼はふん、と鼻を鳴らし、

「愚問だの」

 と、言った。


「すべてを見ていたからに決まっておる」


「じゃあ、紅子ちゃんが……さらわれたときも?」


「答えるまでもない」

 朋徳のその言葉が終わらないうちに、竜介は老人につかみかかっていた。

 彼の唐突な行動に、そばにいた玄蔵と虎光が驚き叫ぶ声が響く。

「竜介くん!」

「兄貴!?」

 しかし、竜介の手は次の瞬間、老人の胸ぐらの代わりに空をつかんでいた。

 朋徳は三十センチばかり向こうへ移動したほかは相変わらず悠然と座ったままだ。


「知ってただと!?」


 瞬間移動を使って自分を躱した相手をうらめしく睨みながら、竜介は怒鳴った。

「だったらあのとき、なぜ彼女を助けに入ってくれなかったんだ!?」

 その激昂に対し、朋徳は驚くほど静かに応じた。


「あの娘に、五つの魂縒が必要だからだ」


 厳かな声だった。

「すべてを終わらせ、なおかつあの娘の命を救うには、それしか道がなかったからだ」

 沈黙が降りた。

 それを最初に破ったのは、竜介だった。

「それじゃあ、彼女は……本当に、生きて……?」

 朋徳の頭が、縦に動いた。


「生きておる」


 その瞬間。

 不意に、竜介の視界に映る朋徳の姿がゆがんだ。

 虎光は、ぱたり、と何かが落ちる音を聞いた。

 外の雨音にも似た、水滴の音。

 見ると、兄の足元の畳に小さなシミが一つできている。

 竜介が差し出した手のひらに、一つ、また一つ。

 自分の頬を伝い落ちるしずくを、彼は驚き見つめた。


 涙――


 彼の心は、死んだも同然だった。

 紅子を失ったと思った、そのときからずっと。

 鷹彦と同じように泣きたかったのに、視界がわずかに滲んだだけで、声を上げて泣くことはできなかった。

 深すぎる絶望が、すべての感情を麻痺させてしまったのだろうか?

 自分はもはや心の底から何かを感じることなどなくなってしまうのだろうか?

 それもいい、と一度は思った。

 心躍る喜びがない代わりに、胸を掻きむしるような悲痛に暮れることもない。

 この世界がこのまま終わってしまうなら、なおさら。

 けれど――

 取り戻せるものなら取り戻したい、という思いもまた、心の片隅にあった。

 もしも、奇跡というものが起きて、紅子が生きていたなら――


 そして、奇跡は起きた。


 失われていた感情は蘇り、灰色だった世界は、色を取り戻した。

 あふれる感情にこらえきれずその場に座り込む竜介の背に、二つの温かな手のひらが触れた。

 虎光と、玄蔵だ。


「おじさん……申し訳ありません」


 竜介は嗚咽をこらえながら言った。

「これじゃ、立場が逆ですよね……」


「いいんだ」


 そう言ってうなずく玄蔵の目にも、光るものがあった。

「こちらこそ、すまん。電話で伝えたかったんだが……」

 言いながら、自分の義父にちらりと視線を投げると、

「その小僧には、己と向き合う時間が必要だった」

 また小僧呼ばわりをされたが、もう腹は立たなかった。

「はい……」

 竜介は素直にうなずいた。

「ありがとうございます」

 朋徳は皮肉に鼻を鳴らす。

「礼を言うのはまだ早い。本当の苦難は、これからだ」

 続けて、老人は警告した。


 今すぐ東京を離れろ、と。

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