2023年8月3日木曜日

紅蓮の禁呪14話「虚勢(きょせい)」

  ところが。

 悲鳴を上げたのは、紅子ではなく、犬たちのほうだった。

 そのうなり声や咆吼に混じって、甲高い鳥の鳴き声が耳に飛び込んでくる。

 彼女が恐る恐る目を開けると、すぐ傍に、どことなく見覚えのある背中が見えた。

 背の高い男。その肩の向こうでは、どういうわけか数十羽の鳥たちが狂犬どもに執拗な攻撃を繰り返していた。

 信じられない光景はさらに続く。

 男が何事かつぶやくのが聞こえたかと思うと、彼の身体は不思議な青い光に包まれた。

 そして、次の瞬間。

 彼と紅子の周囲を、円を描くようにしてすさまじい突風が吹き抜けた。

 全ては一瞬の出来事だった。

 舞い上がった砂塵が晴れると、鳥たちは幻のように姿を消していた。

 あとに残ったのは、犬の群れ――だが、その中の一匹として、起きあがり、動き回っているものはいなかった。

 どれも皆、無様な格好で地面に倒れ、ぴくりとも動かない。


 いったい、何が起こったの?

 これって夢、それともホントに現実?


 驚きのあまり呆然としている紅子の視界で、ずっとこちらに背中を向けていた男が、ようやく振り返った。

 竜介である。

 彼は紅子の傍らに膝をつくと、気遣わしげにその顔を覗き込んだ。

「立てるかい?けがは?」

 この質問で我に返った彼女は自分がいつの間にか地面に座り込んでいたことに気付くと、弾かれたように立ち上がった。

「だ、大丈夫、だいじょう……」

ところが、膝に全く力が入らず、危うくその場に尻餅をつきそうになった。

 竜介の腕が、あわててそれを支える。いきおい、彼女は彼に抱えられるような格好になってしまった。

「危なっかしいなぁ」

 竜介の声が耳のすぐ側で聞こえた。

 生まれて初めて嗅ぐ、父親以外の、それも若い男の体臭が紅子の心拍数を跳ね上げる。

「あっ、あり、ありがと」

彼女は上気した自分の顔に気付かれぬよう、そそくさと竜介から離れると、ふらつく身体を傍らの街路樹で支えた。

「も、ももう大丈夫」

「そうかい?」

 竜介は怪訝そうに紅子を見ていたが、肩に一羽の雉鳩が舞い降りてくると、その注意はそちらに逸れた。

 紅子にとっては、この上なくありがたいことだった。

 この隙にと、深呼吸を繰り返し、頬を手の甲で冷やす。

 鳩は、先刻、犬たちに攻撃をかけていたあの鳥の群れの一羽らしい。竜介はその鳩にしばらくあれこれと話しかけていたが、やがて、用事が済んだと見えて、鳥は宵闇の空へ消えていった。

 彼は紅子に視線を戻し、目が合うと、微笑んだ。

「今の鳩には、君に何かあったら報せるように、頼んであったんだ」

と、彼は不思議なことを言った。が、紅子の注意は、そのあと彼が付け加えた言葉へ逸れた。

「すぐに駆けつけたつもりだったんだけど。悪かったね、怖い思いをさせちまって」

「なんであんたが謝るのよ?」

 紅子はイライラと言った。

 たしかに、彼女は死ぬかと思うような恐怖を味わった。

 それだけでも充分屈辱的な体験なのに、それを言い当てられた上、「すぐに助けに来られなくてごめん」などと言われたのである。この上なく居心地の悪いことだった。

 そんなわけで、助けてもらったお礼を言うつもりが、ついつい憎まれ口になってしまう。

「第一、あたし、別に怖い思いなんてしてないもん」

「そいつは何より」

 少女の精一杯の虚勢を知っているのか、竜介はくすくすと笑った。

「それじゃあ、お嬢さん、晩飯も呼んでることだし、そろそろ帰りませんか?」

 心の中まで見透かしているような口調が、紅子の神経を一層、逆撫でした。


 やっぱりこいつ、気に入らないっ!


 彼女は返事の代わりに、ぷいっと顔を背けるときびすを返した。

 そのつま先に、思いがけず、何やら柔らかいものが当たる。

 地面に転がっている野犬たちの身体。死んだのかと思っていたが、どれも腹がわずかに上下していた。

「これって……眠ってるだけ?」

「無益な殺生は趣味じゃないんでね」

と、竜介が言った。

「でも、今夜いっぱいは目を覚まさないと思うよ」

 紅子はおもむろに彼に向き直ると、険しい目つきでその顔をじっと見つめた。

「あんた……何者なの?」

「何者って?」

「しらばっくれないで」

彼女はぴしゃりと言った。

「こんなこと、普通の人間にできるわけないじゃない。あんたの腕だってそう。昨日のけがは、一日や二日で治るようなもんじゃない。なのに……いったい、どういうことなの?あんた、いったい誰?」

 かなり厳しい調子の詰問きつもんだったが、竜介はおだやかな表情のままで紅子を見つめ返した後、言った。

「歩きながら話そう。もう帰らないと、親父さんが心配するぜ」

 紅子はこの提案をのみ、二人は肩を並べて歩き出した。

 雨は上がって雲間からは月がのぞき、涼しげな虫の声があちこちから聞こえていた。

「俺と君の親父さんが古い知り合いだっていうのは、もうわかってると思うけど、」

と、竜介が静かに話を始めた。

「それは、親父さんがもともと、紺野家の人間だからなんだ。俺たちは親戚同士なんだよ、紅子ちゃん」

「親戚!?」

初耳だった。

「そんな話、聞いたことない……うちに親戚があるなんて」

「ま、ごく遠縁だけどね。君の親父さんと俺の親父がいとこ同士なんだ。ちょっとした事情があって、長いあいだ一色家と紺野家は絶縁状態だったから、知らなくても無理ないよ」

 このとき、二人は一色家の前にたどり着き、紅子はその門をいつものようにくぐりながら、質問を続けた。

「でも、長いこと絶縁してたんなら、どうして今ごろ、あんたがうちに」

 不意に、彼女の言葉がとぎれた。

 門をくぐった瞬間の、何とも言い難い奇妙な違和感が、そうさせた。

「何……この感じ」

「ああ、たぶんこれのせいだな」

と、竜介は、見たこともないような文字が書かれた紙切れを紅子に見せた。

 それは紅子にもただの紙切れではないとわかるくらい、何か強い力場のようなものを発していた。

「こいつを家のあっちこっちに貼り付けて、結界けっかいを張ったんだ」

 結界?

「どういうこと? 何のために?」

「君の命を守るためさ」

 冗談かと思った。ところが、見上げた竜介の顔はきわめて真面目だった。

 彼は続けた。

「俺がここに来た第一の目的は、紅子ちゃん、君を護衛するためなんだ」

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