2023年8月5日土曜日

紅蓮の禁呪第39話「出発前夜・八」

  時間は少し戻る。

 帰途につく春香と藤臣の二人を門の外まで見送った後、お茶の片づけを済ませた紅子は、居間の座卓にあごをのせ、ぐったり座り込んでいた。

 彼女が考えたとおり、藤臣は竜介のことを憶えていたようで、竜介が茶菓を置いて部屋を出ていくや否や、

「今の、一色の知り合いだったよな?どういう関係?何で彼がここにいるの?」

から始まって、

「海外にホームステイするんだって?出発はいつ?行き先は?」

という具合に、質問の雨を降らせた。

 おかげで、紅子はたった一時間のあいだに一週間、いや、一ヶ月分の気力を使い切ったような気がしていた。

 隣に春香がいて、当意即妙なフォローを入れてくれなければ、彼女の堪忍袋の緒はとうの昔に切れていただろう。


 いや、ひょっとしたらブチ切っちゃったほうがよかったんじゃないの?あの場合。


 と、紅子は考えた。

 下手な小細工なんかするより、そっちのほうがよっぽど効果的だったんじゃ……いやいやいや、それだと休学終わってから学校生活にさしつかえが出そうだし、やっぱあれはあれでよかったんだ、うん。

 などと一人で考えて一人でうなずいたりしていると、目の前に湯気の立つ湯飲みが置かれた。

「お疲れ」

 竜介は自分の湯飲みを持って紅子の向かいに座り、言った。

「で?俺が手伝ったかいはあった?」

「う~ん……わかんない」

 紅子は大儀そうにあごを持ち上げると、熱い茶をすすりながらあいまいに首をひねった。

「先輩にあきらめてもらうには、もってこいの名案だと思ったんだけど……ちょっと安直すぎたかな」

 ま、とりあえず手伝ってくれてありがとう。ヘンなこと頼んでごめん。

 紅子がそう答えると、

「あきらめてもらうって?」

 と、竜介が訊いたので、彼女は苦笑しながら、春香の片思いのことと、過日、藤臣に告白されたことを話した。

「だからさ、先輩には春香のほうを見てもらいたいわけ」

「へぇえ」

 竜介は心から感心した様子で言った。

「あんな格好いい彼を譲るとはね。友達思いなんだな」

「そんなんじゃないってば」

 紅子は相手の発言を消そうとするかのように、大げさに両手を振って否定すると、照れからか知らず知らず饒舌になって、ぺらぺらと話を続けた。

「あたしは恋愛なんてめんどくさいことに興味ないだけだもん。それに、先輩のこともそんなに好みってわけじゃないし。正直言うと、春香の趣味ってあたしには今いちよく理解できないんだよね。だって、あたしならもっと」

 と、そこまで言ったとき、彼女はいきなり言葉に詰まった。

 竜介がおもしろそうにこっちを見ていることに気づいたからだ。

 彼は紅子の顔を覗き込むように首をかしげると、笑いを含んだ声で先をうながした。

「もっと、何?」

 そのとたん、紅子はなぜか顔にかあっと朱がさすのを感じた。

「何でもないっ!」

 彼女はそう言うなり立ち上がり、

「さーって、夕食の支度でもしよっ」

 などと、わざわざ宣言しながら台所へ行った。

 あたしならもっと――

 もっと、何だろう?

 何なのかはわからない。

 けれど、言葉にするととんでもないことになる気がして、紅子はそれ以上深く考えるのをやめてしまったのだった。



 翌日。

 紅子は朝から、自分の部屋で荷造りに余念がなかった。

 とはいえ、昨日竜介から聞いた話では先方が日常の細々した物を準備してくれているらしいので、持ち物はさほど多くない。

 これから冬にむかうことを考えて厚手の上着を入れても、小さめのキャリーケース一個におさまってしまった。

 最後に、昨日春香が預かってきてくれた担任教諭からのあまり嬉しくない「餞別」――各教科の要点をまとめた分厚い問題集――を、いやいやながら荷物に加える。

 担任教諭にしてみれば、休学中ほかの教科までが英語と同レベルにまで落ちないか心配なのだろう。

 留学などというのはウソなのだから、勉強しなければ成績は落ちるに決まっている。下手をすれば留年、なんてことになりかねない。

 紅子はしばらく迷ってから、英語の問題集も荷物に加えることにした。本当の留学ほどの成果は出ないだろうが、何もしないよりはましだろう。

 立ち上がって本棚からその問題集を取り出そうとすると、そこに飾ってある祖母と母の写真が視界に入った。

 写真でしか見たことのない母はいつものように若々しく、どこかはかなげな微笑を浮かべていたが、祖母の表情はなぜか普段とは違う、悲しげな微苦笑に見えた。

 祖母が生きていたら、何と言っただろう、と紅子は写真を見てふと思う。

 頑固で気性の激しい人だったから、もしかしたら、竜介がこの家にやって来たときも話なんか聞かずに、問答無用で追い返していたかもしれない。

 そんな光景を想像して、紅子はクスッと笑った。


 世界のためにおまえの人生を犠牲にすることはない。


 彼女なら、それくらいのことは言ったに違いない。

 しかし――

 そうしたら、自分は今頃、化け物に殺されるか、自分の力の暴走で死んでいたか、どちらにしても命がなかっただろう、と紅子は思った。

 それに、もし祖母が生きていたとしても、やはり自分は今と同じ道を選んでいた。

 周りの人たちが傷ついたり死んでいくのを黙って見ているだけなんて、できない。

 ましてや、自分に世界の運命を変えるだけの力があるかもしれないとなれば、なおさら。


 あたしは、自分の力で、できるところまでやってみたい。


「ごめん、ばあちゃん」

紅子は写真を手に取り、話しかけた。

「でも、絶対帰ってくるからね」



 荷造りを終えて時計を見ると、もう昼どき近かった。

 階下からは食欲をそそるいい匂いが漂ってくる。

 玄蔵は今日、一人娘である紅子の出立を見送るために仕事を休み、朝から竜介と一緒に台所にこもっていた。今日の昼食はかなり豪華なものになりそうだ。

 紅子が玄関にキャリーバッグを下ろしているとき、呼び鈴が鳴った。

 と、台所から玄蔵が言った。

「紅子、悪いが出てくれ」

 台所の二人は手が離せないらしい。

「はーい」

 彼女はそう返事をすると、インターホンまでもどるのが面倒だったので、そのままミュールをつっかけて玄関に出た。

 引き戸を開けてみれば、そこには何だか見覚えのあるようなないような顔立ちの長身の青年が立っていた。

 彼は紅子の顔に何やらずいぶんと驚くことがあったらしく、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして、名乗ることさえ忘れ、彼女をまじまじと見つめた。

「あの~、どちらさま?」

 相手の意味不明な沈黙にじれた紅子が誰何(すいか)しても、やはり彼は何も答えないし用件も告げようとしない。

 変質者?

 しかし、軽装ではあるものの身なりはきちんと整っている。

 紅子はイラ立ちを覚えながらも、念のため、もう一度訊ねてみた。

「うちに何かご用ですか?」

 すると、青年はようやく、かすれた声で言った。

「か……」

 か?

 紅子が頭の中でおうむ返しした、次の瞬間。

「かわいい――――っっっ!!!」

 青年はそう叫ぶが早いか、彼女をぬいぐるみか何かのように抱きすくめたのだった。


 紅子のすさまじい悲鳴と、凶兆を孕んだ一連の物音に驚いた玄蔵と竜介が玄関まで駆けつけたとき、青年は彼女の足の下にいた。

 気を失った彼を、紅子は片足で踏みつけにしていたのである。

 竜介は寝転がっている青年を見るや頭を抱え、玄蔵は呆然とした様子で我が娘と見知らぬ青年とを交互に見ながら、言った。

「いったい何があったんだ?」

「警察呼んでっ」

 紅子は肩で息をしながら叫んだ。

「この男、いきなりあたしに抱きついてきたのっ!!」

「紅子ちゃん、ごめん。おじさん、本当にすみません」

 竜介がいきなりそう言ったので、父娘の視線がそろって彼に集中する。

 玄蔵が尋ねた。

「どうして竜介くんが謝るんだね」

「いや、それがその……」

 竜介は頭を掻いた。

「そいつ、俺の弟なんです……」

 青年の名前は、紺野鷹彦(こんのたかひこ)。

 竜介の、二人の弟のうちの一人だった。

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