2023年8月9日水曜日

紅蓮の禁呪第74話「いらだち」

  鷹彦の声が聞こえたとき、紅子の手は竜介の手を滑り抜ける寸前だった。

 化物の体液から揮発した油は、竜介の発した雷光で一瞬にして炎に変わったかと思うと、辺りは火の海に飲み込まれていた。

 足元の地面からと、あともう一つ、鷹彦がいるほうから獣じみた断末魔が聞こえたが、そのときの竜介には、それらが黒珠のものであることを推測するよりほかなかった。

 なぜなら、視界は炎でさえぎられていた上に、紅子を捕えている化物に抗うべく力任せに引いていた彼女の手が、突然軽くなり、身体ごと勢いよくぶつかってきて、二人してその場に折り重なるようにして倒れたからだ。

「きゃっ」

「うわっ」

 彼らは同時に悲鳴をあげたが、その理由はそれぞれ違って、紅子は倒れた衝撃から、竜介は間近に迫る炎の壁を見たためだった。

 が、彼はすぐに違和感に気づいた。


 熱くない……?


 炎は今にも触れそうな距離にあるのに、感じるのは熱波ではなく、ほのかな温かみだけだ。

 紅子から提案されたこの起死回生の一手を、竜介は正直なところ、あまり歓迎してはいなかった。

 彼女がこれほど完璧に火を制御できるとは思っていなかったし、下手をすれば自分が大やけどを負うことになるだろうと覚悟もしていたから、彼は作戦の成功を二つの意味で喜んでいた。

 黒珠に対する形勢を逆転できたことと、紅子の能力を確認できたことと。


 一方、紅子はというと、はからずも竜介を押し倒した格好になり、慌てて彼の上から退いたあと一人で顔を赤くしたり青くしたりしていたが、まもなくそんなことを気にしている暇はなくなった。

 つむじ風――明らかに鷹彦が起こした――が炎の消えたあと立ち込めていた煙を吹き飛ばし、残り火に照らされる小さな黒衣を見せたからだ。


 待て、と叫ぶ鷹彦の声も虚しく、少女姿の黒珠は文字通り闇に溶け消えたのだった。



 黒珠の気配が完全に消え去ると、三人は一斉にほっと安堵の息を吐いた。

 いつの間にか、東の空がやや青みをおびた黒に変わりつつあり、待ちわびた日の出が近いことを彼らに教える。ひとまず、次の日没まで黒珠の襲撃はないだろう。

 とりあえず互いの無事を確かめ喜びあっていると、


「竜介さま!」


 日可理の声がした。

 三人が声のしたほうを見ると、ちょうど日可理が志乃武に支えられるようにして、庭へ続くテラスに出てきたところだった。

 日可理は志乃武の手を振りほどくようにしてテラスの階段を下り、あっと言う間にこちらへ駆けてくると、そのまま勢いに任せて竜介の胸に倒れ込んだ。

 まるで、恋人同士のドラマチックな再会の場面のようだ。

「竜介さま、ご無事だったのですね!よかった……!」

 平生の落ち着いた彼女からは想像できないほど、取り乱した様子で日可理は泣き出した。

「わたくし、黒珠を引き留めることができなくて……申しわけございませんでした。本当に、わたくしはふがいない……」

 彼女の顔色は、薄明にもそれとわかるほど青白く、つややかな長い黒髪はぼさぼさに乱れ、着ている着物もあちこち裂けて、見るも無残な状態だった。

 幸い、目立ったケガなどはなさそうだが、それでも深窓の令嬢である彼女をいかなる危難と恐怖が襲ったかを想像することは難しくなかった。

「いや、日可理さんはよくやってくれたよ。ありがとう」

 竜介は相手のオーバーアクションに少々当惑しながらも、そう言って笑った。

 鷹彦もうなずき、

「無事でよかったよ、日可理さん」

 紅子も彼のその言葉には心の底から同意した。

 目覚める直前、脳裏に響いたあの悲鳴が結局何だったのかはわからずじまいだが、不安な夢が聞かせた幻聴のたぐいだったのだろう――きっと。


 でも、と紅子は思った。


 何であたし、こんなにムカムカしてるんだろ……?

 まだ何か不安?それとも……?


 そこへ、志乃武が笑いを含んだ声で言った。


「日可理、いつまで竜介さんにしがみついてるつもりだい?彼が困ってるじゃないか」


 とたんに、日可理は弾かれたように竜介から離れた。

「きゃっ、もっ、申し訳ございません!」

 やっと自分の大胆な行動に気づいたらしい彼女は、真っ赤になった頬を両手で挟み、しどろもどろになって謝った。

「竜介様になんてことを……わたくしったら……」

 すると、普段の少し近寄りがたい雰囲気からは想像できないようなうろたえぶりに、鷹彦が吹き出した。


「こんなオロオロしてる日可理さん、初めて見た。可愛すぎ!」


 その言葉で志乃武と竜介が笑いだし、最初はさらに真っ赤になって、

「いやだわ、もう……鷹彦様、からかわないでください」

 などとぶつぶつ言っていた日可理も、そのうちつられて笑った。


 紅子も気づくと笑っていた。

 笑いながら、さっきの胸のつかえるような感覚がきれいさっぱり消えていることに気づく。


 いつの間にか、東の空にはしらじらとした光がさし始めていた。

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