2023年8月8日火曜日

紅蓮の禁呪第68話「侵入者」

  普段の日可理なら、照明がいきなり落ちたくらいで動転したりはしなかっただろう。

 しかし、そのときの彼女は感情が昂(たか)ぶり、平常心を失いやすい状態だった。

 視界がいきなり闇に覆われ、ほんの一瞬、空間識を失った彼女は、とっさに背後の調理カウンターに寄りかかった。

 と、次の瞬間、すぐうしろで陶器類の砕ける甲高い音が響き渡り、彼女は悲鳴をあげた。

「きゃあっ!?」

 どうやら、カウンターの上に置いてあったカップか何かが、着物の帯に引っかかって落ちたらしい。

 が、暗闇の中で神経質になっていた彼女にとって、それは正体不明の怪音と聞こえた。

「日可理さん!?」

 竜介の切迫した声を日可理はすぐ傍で聞き、同時に、彼の腕が自分の背中に回るのを感じた。

 日可理の心臓にとって、それはまた別な衝撃だった。

「けがは?」

 竜介からそう訊かれても、息が詰まってすぐには答えられない。

「……大丈夫です」

 跳ね回る心臓をなだめ、やっとの思いでそれだけの言葉を返す。

「少し、驚いただけです」

「そう」

 安堵の声。

 続けて、背中にあった彼の体温が消えた。

「せっかく夜食を作ったのに、停電とはね。ま、暗闇でも食えなくはないけど」

 少し離れた場所から、苦笑交じりのそんな声が聞こえた。

 彼の態度が落ち着いているのは、黒珠の気配がないからだろう。

「ともかく、停電の原因を調べます」

 後に残った奇妙な肌寒さを振り切るように、日可理はわざと明るい声を出した。

 夕顔を呼びだし、懐中電灯を自分と竜介に一本ずつ持ってこさせる。

 日可理は、受け取った懐中電灯のスイッチを入れながら、式鬼に尋ねた。

「紅子さまに何か変化はあった?お部屋の様子はどう?」

「紅子さまはまだお休みのままです。お部屋にも変わりありませんが、鷹彦さまと志乃武さまが、早くもどって来るように伝えてくれと、朝顔におっしゃっています」

 夕顔はいつもと同じ、抑揚に乏しい静かな口調で答える。

「窓の外も真っ暗だ、と」

 日可理は竜介と顔を見合わせた。

 懐中電灯の明かりの中、彼の顔に緊張が見て取れる。

 おそらく、自分も同じ表情をしているだろう、と日可理は思った。

 この屋敷は高台にある上、周囲に高層の建物がないので、二階から街の灯がよく見渡せる。

 紅子たちの客室がある二階から、街の灯が見えないということは、この屋敷を含む周辺一帯で大規模な停電が起きているということだ。


 こんな、風もない静かな夜に――?


 偶然だと思いたい。が、それは希望的観測に過ぎるだろう。

 黒珠の気配は、いまだない。

 しかし、時間の問題だと日可理の中の予感が告げていた。

「もどろう」

 そう言うが早いか、竜介は厨房を出た。

 無論、日可理も彼に従う。

 竜介もおそらく、彼女と同じ胸騒ぎを覚えているのだろう。

 どこへ、と尋ねるまでもない。行き先は決まっている。

 今、絶対に異状があってはならない場所――紅子の部屋である。



 窓から差し込むかぼそい月明かりが、廊下を青く染めていた。

 竜介は懐中電灯で足元を照らしながら、その月明かりの中を足早に急ぐ。

 階段を一段飛ばしで駆け上がっていく彼のあとを懸命に追いながら、日可理は、今夜だけは洋装にするべきだったと後悔していた。

 竜介と鷹彦に比べ、自分や志乃武に実戦経験がないことも、不安だ。

 けれど、と日可理は心を覆う影を懸命に払う。

 「星見」には、命を落とすことはないと出ていた。

 大丈夫。

 わたくしたちは、必ず、紅子さまを守り通せる。


 そして――

 ついに、来るべきものは、来た。


 すでに階段を上り終え、こちらを見下ろしている竜介に、日可理がようやく追いついた、そのとき。

 邸内の空気が、変わった。

 それは、いかなる言葉よりも速く的確に、ある事実を彼らに伝えた。


 結界が破られたという事実を。


 日可理は、身体の力が抜け、その場に崩れるように座り込んだ。

「申しわけございません。何かが地中から侵入して、呪符を……符にかけてあったわたくしの護法が、もっと強ければこんなことには」

「きみが謝ることじゃない」

 竜介は力ない声でわびる彼女をさえぎり、立ち上がらせた。

「話はあとだ。急がないと……」

 紅子の部屋は、もうすぐそこだった。

 が。


「急ぐ?」


 聞き慣れない、冷たい声が、竜介をさえぎった。

 その場の気温がいくらか低くなったように感じられたのは、気のせいだったろうか。

 先まで窓から差し込んでいた月明かりは今、雲にでもさえぎられたか途絶えて、廊下は真闇に沈んでいる。

 それにもかかわらず、そこに声の主を見つけることは、難しくなかった。

 なぜならば、黒髪に黒瞳のその少女――彼らにはそう見えた――の身体は、青い鬼火のようにぼんやりと発光していたからである。

 人の姿でありながら人ではない、黒衣の少女。

 聞く者の背筋を凍らせるような声で、彼女は尋ねた。


「どこへ急ぐのだ?」

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