2023年8月6日日曜日

紅蓮の禁呪第45話「殃禍(わざわい)の夜・一」

  管理事務所に向かって歩きながら、鷹彦が言った。

「それにしても、気色悪いくらいひとけがねーなぁ」

 彼は沈黙が苦手なたちらしく、とりとめないおしゃべりを続ける。

「駐機場やハンガーもあるのに、出入りする整備員もいない。今日は休みなのか?」

 紅子は彼のおしゃべりを黙って聞きながら、たしかに、この人の気配のなさは異常だと感じていた。

 彼女はこれまで民間のヘリポートを利用したことなどなかったし、到着した直後は、この静けさもこういうものなのかと思っていた。

 しかし、時間が経つにつれ、この静寂の中に死の気配が漂っている気がして落ち着かなくなってきた。

 明かりがともる窓さえ、どこかうつろな芝居の書き割りのように見えるのは、空がいよいよ暗くなってきたからだろうか?

「さっきの電話だけど」

 ずっと何かを考えている様子で、紅子同様、鷹彦のおしゃべりを黙って聞いていた竜介が言った。

「迎えが遅れたのは事故渋滞のせいなんだが、その事故現場で黒珠の気配がしたらしい」

 紅子は背筋に冷水を浴びせられたような気がした。

 だれからともなく、建物に向かう足が止まる。

「それって、偶然……?」

 紅子がつぶやくと、竜介がかぶりを振った。

「じゃ、ないだろうね。ここに来る途中、俺たちの飛行機に体当たりしにきた連中がいたことを考えたら」

「だよな」

 鷹彦が珍しく真剣な表情でうなずいた。

「あいつらは俺たちを待ち伏せしてたんだ」

 あの時間、あの場所に、あの異形の生き物たちがいたのは、ただの偶然ではありえない。

 黒珠はどういう手段を使ってか、彼らが飛行機で移動することを、通過する空路を知っていた。

 だとすれば。


「ここには、もう何か仕掛けられていると考えたほうがいい」


 竜介は、自分の直感が、この場の状況が、空気が告げることを、そのまま言葉にした。

 紅子は無意識のうちに首筋をさすっていた。

 黒珠の到来を報せるあの感覚はまだない。が――

 そのとき、それまで遠くで鳴っていた雷が、いつの間に近づいたのか、凄まじい大音響で三人を驚かせた。

「どうする?竜兄」

 鷹彦が、雷雲をにらみながら言った。

「落雷がないよう神様にお祈りしながらここにいるか、落雷は避けられるだろうけど、やばいのが待ってるかもしれないあっち――と、彼は建物を指さした――に行ってみるか?」

「建物のほうへ行ってみよう」

 竜介が言った。

 肩をすくめて、こうつけ足す。

「俺は雷電は使うけど、落雷を避ける能力まではないんでね」


 管理事務所が入っているらしい建物は簡素な鉄筋コンクリートの三階建てだった。

 正面玄関はその両開きのガラス扉を無防備に解放して、明かりのともる正面の廊下は今や外よりも明るいくらいだった。

 まるで、彼らが到着するほんの直前まで、活発な人の出入りがあったかのように。

「すみませーん」

 開け放たれた扉の外から中をのぞき込むようにして、鷹彦が呼びかけた。

 黒珠の気配もないが、人の気配も依然としてない。

「どなたかおられますか」

 竜介も呼びかける。

 三人はしばらく奥からの返答がないか耳をすましたが、それらしい声は聞こえない――いや。

 紅子は人の声を聞いたような気がした。


「ねえ、今、話し声がしなかった?」


 竜介と鷹彦は顔を見合わせ、さらに物音に耳をすませる。

 しばしの沈黙。それを最初に破ったのは竜介だった。

「……たしかに聞こえるな」

「んだよ、人いるんじゃん」

 鷹彦は腹立たしげにそう言うと、ずかずかと中に入った。

「あ、おい!ちょっと待て!」

 竜介が制止したときには、彼はもう長身をかがめるようにして廊下の右手にあった「受付」という札のかかった小窓を叩いていた。

「すみませーん、迎えがまだなんで、ここで待たせてもらっていいですか」

 紅子が竜介の顔を見ると、彼は仕方ないという表情で、彼女に一緒に来るよう首をかしげて促した。

 竜介に続いて玄関をくぐる。

 と――


 何かが軋るような音が、かすかに紅子の耳に届いた。


「どうかした?」

 玄関を入ったところで足を止めたまま、辺りを見回す紅子を振り返って、竜介が訊いた。

「ううん、何でもない」

 紅子は慌ててかぶりを振ると、竜介のあとを追った。

 彼らが受付の前に来たときも、鷹彦の呼びかけを無視するかのように、小窓のむこうは静まりかえったままだった。

 窓に引かれているカーテンも動く気配がない。

 それなのに、ぼそぼそとした話し声は、小窓のカーテンのむこうから、たしかに聞こえている。


 カーテンのむこうは、こちらと同じに明るい。人の声も聞こえる。

 なのに、こちらからの呼びかけには答える者はない――


 正体のわからない不安にとらわれ、三人が顔を見合わせたそのとき、外が一瞬、青白く発光した。

 間を置かず、凄まじい雷鳴がとどろく。

 思わず首をすくめた紅子の耳に、またあの軋る音が聞こえた。


 空耳にしては、おかしい――


 紅子が音に気を取られているあいだ、竜介と鷹彦はなんとかして受付の内部の様子を探ろうとしていた。

 竜介は小窓の枠に手をかけ、開けようと試みていたが、鍵がかかっているらしく、びくともしない。

 すると、小窓の横の扉を確かめていた鷹彦が、

「竜兄、こっち開いてんぜ」

そう言って。

 扉を手前に引いた、次の瞬間。


 ゴトン。


 扉にもたせかけられていた重い何かが、支えを失って倒れてきた、そんな感じの音だった。

 そのとたん、鷹彦は自分の足元に視点を固定したまま微動だにしなくなった。

 竜介は弟の様子を怪訝に思い、訊いた。

「何の音だ?」

 が、鷹彦は答えない。

 竜介は仕方なく、弟の視線の先を追うようにして横から扉の中をのぞきこんだ。

 そこには、整備員らしいつなぎを着た男が、横たわっていた。

 だが、彼がもはや生きてはいないことは、ひと目見れば、誰にでもわかった。


 その男には、首から上がなかった。


 むせかえるような血の臭いが、竜介と鷹彦の鼻腔を突いた。

 室内には、ほかにも十人近くの人間がいたが、どれも彼ら二人の足下にいる男と同じありさまだった。

 傷口がどれも驚くほど鋭利なおかげで、赤い筋肉はおろか、白っぽい頸骨やその中の脊髄までもが鮮やかに見て取れる。

 死体たちはそれぞれ、机に突っ伏したり、床に倒れたりと思い思いの姿勢をとっていた。それだけが、生死を選べなかった彼らに与えられた、せめてもの自由だといわんばかりに。


 そして――


 奥の壁に取り付けられた、電源がつけっぱなしの壁掛けテレビ。

 それだけが唯一、この阿鼻叫喚を見下ろして、笑っていた。

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