「紺野涼音、だな?」
その少女――少なくとも、涼音にはそう見えた――は、そんなふうに、声をかけてきた。
ぎりぎり肩にかからない長さに切りそろえられた、まっすぐな黒髪と、抜けるように白い肌、赤い唇がそう思わせたのかもしれない。
一瞥して、変な子、と涼音は思った。
身長は自分と同じくらいなのに、顔立ちや言葉遣いが奇妙に大人びている。
長い前髪の奥で鋭い光を放つ切れ長の黒い目は、まるで老人のようだ。
服装も、奇妙だった。
小雨がぱらつく寒い日だというのに、身にまとっているのは身体の線が見て取れるほど薄い黒衣だけ。
その体型は皮肉なまでに涼音と似ていて、華奢というにはあまりに細く、女性らしさのかけらもなかった。
奇妙なことは、まだあった。
少女は、傘を持っていなかった。
なのに、その髪も服も、まったく雨にぬれていなかったのである。
放課後だった。
雨でグランドが使えないため、部活は柔軟に筋トレ、それに校舎の廊下を使った走り込み程度で終わってしまった。
だから、学校を出る時刻としてはいつもより早いのだが、天候がよくないせいか、外は既に薄暗く、友人たちと別れた後、涼音は何となく急ぎ足になった。
徒歩で二十分あまりの距離が、今日はやけに遠く感じる。
暗くて心細いから早足になるだけで、別に家に帰りたいわけじゃない、と、彼女は自分で自分に言い訳をした。
家に帰っても最近はちっとも面白いことがない。
あの紅子とかいうのが家に来てから、ずっと。
大事なお客さんだということは、母親の英莉から何度も聞かされている。
だけど、気に入らない。
あの長い髪も、きれいな顔も、何もかも。
兄たち、とくに竜介があの子に気を遣うのは、もっと気に入らない。
小さいときから、自分のことをお姫様のように大切にしてくれた、大好きな兄。
すらりとした長身で、顔もスタイルもいい、自慢の兄。
竜介に会ったことがある涼音の友達は、皆一様に彼を「かっこいい」とほめ、涼音をうらやましがったものだ。
たまに「似てないね」と言われることもあったけれど、竜介は母親似で、自分は父親似なのだろうと思っていたから、気にしたことなどなかった。
英莉が実は後妻で、兄たちと自分とはいわゆる「異母兄妹」なのだということを知ったのは、中学一年のとき。
家で大きな法事があり、そのときに両親――普段は東京で仕事をしている父も帰ってきていた――から教えられた。
その法事は、竜介たちの母親である美弥子の十三回忌だった。
両親は、集まった親戚連中の話を聞いて涼音が妙な誤解をするよりは、先に事実を教えてしまおうと思ったようだ。
兄たちと自分の母親が違う、ということはもちろんショックだったが、そのことは同時に、もしかしたら、自分と竜介は血がつながっていないのではないか、という、淡くも愚かな期待を涼音に抱かせた。
もっとも、そんな期待は、
「おまえが生まれてすぐDNA鑑定をしたから、間違いない。おまえはわたしの娘だ」
という父の言葉に、あっけなくついえてしまったのだが。
家に連れてきた女友達を涼音が牽制しても、竜介は苦笑するだけで許してくれた。
だから、たとえ兄妹でも、彼にとっての「一番」は自分なのだとずっと自負してきた。
なのに――
紅子に関しては、今までと勝手が違う。
殴ったのは悪かったと自分でも思っている。
だが、涼音でさえ「勝手に入るな」と言われている竜介の部屋に、紅子がしれっとした顔で出入りしているのを見かければ、誰だって頭に血がのぼるというものだ。
涼音には涼音の言い分がある。
それなのに、竜介はそんなことを聞くそぶりさえ見せてくれなかった。
いつもの竜介なら、少ししょげた顔を見せるだけで、仕方ないなというように表情を和らげ、頭をくしゃっと撫でてくれるのに今回はそれもなし。
こんなこと、今までなかった。
竜介は変わってしまった――知らない男の人みたいに。
その紅子が魂縒を受けて眠り込んでしまってから、今日で二日目。
家の中はお通夜のようだ。
竜介の沈んだ顔を見るのはつらい。
でも、もういっそこのまま紅子の目が覚めなければいいのに、などとも思う。
そして、そんな自分がいやになる。
わかってる、いつまでも自分だけの竜介でいてもらうなんて無理。
でも、もう少しだけ、ほんの少しだけ、彼の「お姫様」でいたい。
本当に、それだけだったのに。
長い築地塀のむこうに見慣れた門が見えてくると、涼音は足が急に重くなったような錯覚に捕らわれた。
紅子が目を覚ましていたら、どうしよう。
竜介からは、紅子に会ったらちゃんと謝っておくようにときつく言われている。
でも、あの子に頭なんか下げたくない。
あとから割り込んできたのは、あの子なのに。
ともすれば止まりそうになる足を、忍び寄る寒気から逃れるため懸命に動かしながら、深いため息をつく。
と、そのときだった。
見知らぬ少女が、突然、声をかけてきたのは。
涼音の視界に入るかぎり、周囲に人影などなかった。
にもかかわらず、その奇妙な少女は、たしかにそこにいた。
涼音は驚きのあまり返事もできずにいたが、少女は質問の答えを期待してはいなかったらしく、手に持っていた白い封筒を彼女に差しだし、言った。
「これを」
相手の雰囲気に呑まれたまま、涼音は差し出された物を受け取る。
その封筒はちょうど大学ノートくらいの大きさで、裏も表も真っ白なまま、宛名も差出人も書かれていなかった。
もちろん、中身の説明なども、ない。
「たしかに渡したぞ」
わけもわからず、ただ呆然と封筒に視線を落とす涼音の耳に、少女の満足げな声が聞こえた。
「え?」
慌てて視線を上げる。
だが、時既に遅く――あの黒い少女の姿は、もはやどこにもなかった。
まるで、闇が人の形をとって現れ、ふたたび闇に戻ったかのように。
説明も何もなく、ただ手渡された差出人不明の封筒は厚みもさほどなく、振っても音がしなかった。
封緘もされていなかったので、涼音は思い切って中を開けて見た。
中身は、和紙でできた大きめの短冊のような紙片が六枚。
いずれも複雑な幾何模様が、墨で黒々と描かれている。
こんなもの、どうしろというのだろう――
意味が分からずに呆然と立ちつくしていると、今度は突然、電子音が鳴り響いた。
不意をつかれ、涼音は思わず小さな悲鳴をあげたが、携帯の着信音だということに気づくと、急いで通学鞄を開く。
薄暮の中、携帯の液晶だけが青白く光る。
そこに浮かび上がる発信者の名前を見て、涼音は通話ボタンを押した。
『呪符は、受け取っていただけたかしら』
涼音が何か話す前に、相手の声が聞こえた。
なぜ、自分が受け取ったことを知っているのだろう。
涼音は声の震えを悟られないよう、できるだけ堂々とした口調で尋ねた。
「……これ、どうすればいいの」
『あなたのお屋敷の敷地に、岩があるわ。不思議な……模様が刻んである』
涼音が嫌いな、きれいな声。
『岩は全部で六つ。その岩に、一枚ずつ、貼っていっていただきたいの』
ちょっと手間だけれど、やっていただけて?
「貼ったら……どうなるの」
電話のむこうで、ふっと笑う気配がした。
わかっているくせに、と言わんばかりに。
『消えるのよ』
その声は優しいのに、涼音の耳には、なぜか寒々として恐ろしく響いた。
『邪魔者が』
少し、考えさせて……。
電話はそう言って切れた。
何を考えることがあるのだろう?
きっと、あの子もすぐに気づく。
迷う事なんて、何もないと。
彼女はツーという信号音だけになってしまった携帯を閉じると、それをいとおしい物のように両手で抱いた。
赤い唇から、溜息がもれる。
もうすぐ、会える。
愛しいあの人に。
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