2023年8月14日月曜日

紅蓮の禁呪第129話「冬の始まり・六」

  「身内に気をつけろ」という情報だけでも共有してくれていれば……と、虎光は思わないでもなかったが、口にはしないでおいた。

 たとえその情報を竜介から聞いていたとしても、魂縒を受けず御珠の気配を持たない、何も知らない涼音に黒珠が間接的にせよ接触してくるとは、おそらく思いもよらないだろう。

 いちからすべてやり直したとしても、今回と同じ結末を迎えるだろうことは想像に難くない。


 思いもよらない――そう、今回の出来事は「思いもよらない」ことの連続だった。


 日可理が黒珠に操られていたこと。

 その日可理によって涼音が利用されたこと。

 紅子が「連れ去られた」こと――

 すべてが俺たちの想定を外れていた、とハンドルを握りながら虎光はぼんやり考える。


 やつらが一枚上手だったということだろうか?


 走行車線を走る彼らの車を、右手から大きなトレーラーが追い越していく。

 その風圧で、彼らの車の窓が微震し、虎光は意識を運転に戻した。

 ルームミラーを確かめると、後続の派手なスポーツカーに乗った若いカップルが楽しそうに笑っていた。

 窓の外を流れる世界は何も変わらない。

 助手席に座る兄の横顔だけが、今まで見たこともないほど生気を失って青白い。

 おそらく、彼の中ではこの世のすべてがすでに崩れ始めているのだろう。

 それでも兄がわざわざ東京へ向かうのは、警告を軽んじたことへの報いを受けに行くつもりなのか、と虎光は推測した。

 報いと赦しはコインの裏と表のようなものだ。

 だが、虎光の目には、兄はすでに充分な報いを受けているように見えた。


 愛する人を失い、明日をも知れぬ世界を生きるという報いを。


 後続のスポーツカーは、走行車線で法定速度を律儀に守り続ける虎光の車にしびれを切らしたらしく、右手の車線に出て彼らを追い越すと、あっという間に雨の向こうへ消えて行った。


 この車だって、パワーじゃ負けないんだが――


 虎光はそんなことを思って苦笑する。

 と、その瞬間。

 頭の片隅に引っかかっていた小さな疑問が、ほどけて落ちた。

 眼の前が明るくなり、今脳裏をよぎった何気ない独り言が、今回の一件の全体像をあらわにしたのだ。

 自分は魂縒を受けてはいないが、師匠や兄弟から、五つの御珠の因縁について聞いている。

 その知識と、この直感が正しければ。

 いや、絶対に正しい。

「兄貴」

 慰めでも気休めでもなく、虎光は竜介に言った。


「紅子ちゃんは、生きてるかもしれない」


 竜介は最初、虎光の言葉の意味を測りかねた。

「そんなわけないだろう」

 紅子は黒珠にとって排除すべき致命的な存在だ。

 彼女の命についてはとうに絶望している彼にとって、虎光の言葉はただ空しいだけだった。

 魂縒を受けていない身で何がわかるのか、という苦々しい苛立ちを覚えながら、竜介は言った。

「彼女を生かしておいて、やつらに何のメリットがある?」


「メリットならある」


 虎光はフロントガラスに叩きつける雨の向こうを見据えたままで言った。


「黒珠は紅子ちゃんを使って、封禁の術を俺らに仕掛けるつもりなんじゃないのか?」


 それは竜介を絶句させると同時に、昨夜のできごとを否応なしに思い返させた。

 絶望と悲嘆で濁っていた竜介の脳裏が、にわかにくっきりと澄んでいく。

 龍垓の動きには、確かに訝しいところがあった。

 あの場で彼女の息の根を止められたはずなのに、なぜわざわざ連れ去るという回りくどいことをしたのか。

 迦陵も、それをとがめるどころか、協力していた節がある。

 彼らの間で、紅子を連れ去ることについて同意が成り立っていた――?

 紅子はすでに三つの御珠から魂縒を受けている。

 あと一つ、御珠から魂縒を受ければ、彼女は禁術を立ち上げることができる。

 そしてそれは、黄珠である必要はないのだ。


「ありがとう、虎光」


 竜介はハンドルを握る弟の横顔に言った。

「お前は最高の弟だよ」

 虎光は横目で兄を一瞥すると、にやりと笑う。

「今頃わかったか」

 竜介は思わず頬が緩むのを感じた。

 もう二度と心から笑うことなどないだろうと思っていたのに。

 窓の外は相変わらずの雨で、灰色に煙っている。

 だが、この空の下のどこかで、紅子がまだ「生きている」。

 ただそれだけで、今、その灰色がほんの少し、明るさを帯びたように見えた。



 昼前に東京入りした彼らは、雨で渋滞する首都高を降りると、駐車場の広いチェーンレストランを見つけて昼食を取ることにした。

 大雨のせいか、店内は空いていて、二人はすぐに窓際の四人がけテーブルに通された。

「腹が減って死にそうだ……」

 オーダーを終えた後、座席にぐんにゃりと背中をあずけてそうつぶやく兄に、虎光が尋ねた。

「朝飯は?」

「食ってねーよ。食欲なんかあるわけねーだろ」

「だよな。家を出るときも死にそうな顔してたもんな」

 虎光は苦笑しながらそう言うと、今の兄がずっとましな顔色になっていることを密かに喜んだ。

 今、紅子は黒珠の手中にあり、取り戻すすべも、そもそも居場所さえわからない。

 ただ、彼女がおそらく生きている――そのことだけが、竜介を支えているのだ。

 あとは、この希望がぬか喜びに終わらないことを祈るばかりだが――

「それで?どうやって探し出す?」

 誰を、という目的語を省略して虎光が尋ねると、


「居場所なら、たぶんわかる」


 運ばれてきた料理に早速箸をつけながら、竜介はこともなげに答えた。

 まさか、という顔をする虎光に、彼は続ける。

「正確に言うと、彼女の、というか黒珠の居場所を知ってそうな人を知ってる、ってことだけど」

「それって……」

 ピンと来たらしい虎光に皆まで言わせず、


「そう、黄根のじいさまさ」


「黄根家は……四国だったっけ。そういえば、本当なら今日行くはずだったんだよな」

 竜介はうなずき、苦笑した。

「ああ。神出鬼没の御仁だから、そこにいるとは限らないけど。一色家の用事が済んだら、チケット取り直して飛んでみるつもりだ」

「じゃあ、空港まで送るよ」

 そう言って、卓上の皿があらかた空っぽになっていることに気づくと、虎光は片手を上げてウェイターを呼び、食後のコーヒーを頼んだ。

 ウェイターが下がるのを待って、竜介が言った。

「それは助かるけど、いいのか?このあと親父さんと約束してるんだろ?」

「連絡入れとくよ。それに、あの人とはどうせ今夜別宅で顔を合わせるから、報告もそのときゆっくりするさ……あ、それと」

 思い出した様子で、虎光はこう付け加えた。

「一色家には、親父さんの代理ってことで俺も一緒に詫びを入れに行くからな。兄貴一人行かせて、俺だけ車の中でのほほんと待ってるわけにもいかんだろ?それに、二人のほうが少しでも礼儀を尽くした印象になるし、玄蔵おじさんの気持ちも和らぐかもしれないし」

「悪いな」

 竜介は申し訳なく思って言った。

「お前にまで、頭を下げさせて」

「よせやい。水くさいぜ」

 虎光は何かを払い除けるように片手をひらひらと振る。

「それより、そんなに急いで四国まで出張って会える確証はあるのか?うちのほうで黄根さんの行方を調べてからのほうがよくね?」

 竜介は「うーん」としばし考え、

「お前の言う通り空足を踏むことになったら、そのときは黄根さんの捜索を頼むよ」

 だけど、と彼は続けた。


「なんせ千里眼の持ち主だから、もしかしたら今もう手ぐすね引いて俺のこと待ってるかもしれないぜ……」


 そして、その言葉は奇しくも予言となった。

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