2023年8月13日日曜日

紅蓮の禁呪第118話「結界消失・二」

  一時間ばかり前に時は戻る。

 紅子を送り届けた後、そのまま玄関先で帰ろうとした竜介と鷹彦に、泰蔵が言った。


「孫娘と水入らずというのも悪くないが、竜介はともかく、鷹彦がうちに来るのは久しぶりのことだし、どうだ、二人もうちで飯を食って行かんか」


 竜介たち兄弟は一瞬顔を見合わせてから、礼を言ってその申し出を受けた。

「お言葉に甘えます」

「とはいえ、大したものは作れないがな」

 と言いながら台所に立とうとする泰蔵のあとを、紅子が追いかける。


「手伝います」


 続けて竜介が、

「俺がやりますから、師匠は座っててください」

 泰蔵は相好を崩した。

「すまんな。冷蔵庫の中身は好きに使っていいから」

「わかりました」

 竜介はうなずくと、弟を呼んで冷蔵庫から出した二本の缶ビールを渡し、言った。

「帰りは俺が運転するから、お前、料理ができるまで師匠の相手をしててくれ」

「りょーかーい」

 食卓の椅子に腰をおろした泰蔵は、竜介の言葉を聞きとがめると言った。

「歩いて帰ればいいだろう。車ならうちに置いておいて、明日また取りに来ればいい」

「それが、実はそうも行かないんです。実は……」

 竜介は苦笑して、黄珠の場所がわかったことを伝える。

「明日の早朝の便で発つので、空港まで鷹彦が送ってくれることになってて」

「そうか、それじゃ仕方ないなぁ」

 泰蔵は落胆の表情を見せたが、


「でもまぁ、黄珠が見つかったのは何よりの朗報だ。お前さんと一緒に飲むのは、帰ってからの楽しみに取っておくよ」


 と、すぐに笑顔に戻ったのだった。

 一方、紅子は彼らの話を背中で聞きながら、先に何か簡単なつまみを作ろうと冷蔵庫を開けた。

 そこには、とても年寄りの一人暮らしとは思えない量の食材が詰まっていた。

 しかも、あまり日持ちのしそうにないものもちらほらある。


 あたし、もしかしてものすごく食べると思われてる――?


 食事の支度が始まってから、紅子は竜介に冷蔵庫の中身のことを話した。

「この前ここに来たとき、あたしそんなに食べてた?」

 すると、彼はくすっと笑って言った。


「そうじゃなくて、師匠は最初から俺と鷹彦も夕食に誘うつもりだったんだよ」


 ええっ、と紅子は小さく声を上げた。

「竜介たちにこのあと予定があったら、どうするつもりだったんだろ」

「ああ、それは大丈夫。俺たち、ここに来るときはあとに予定を入れないようにしてるから」

 特に、師匠の奥さん――初江おばさんが亡くなってからはね、と彼は言った。

「今日も予め滝口さんに夕飯はいらないって言ってある」

「そうなんだ……」

 紅子は肩越しに、ダイニングテーブルのほうをちらりと見た。

 鷹彦とビールを飲んでいる泰蔵は楽しそうだ。

 八千代の死後、家で留守番をしながら一人で食事をする機会が増えた紅子には、泰蔵の心中がよくわかった。

「あたしの父方のおばあちゃん、初江さんって言うんだね」

 湿っぽくなりそうな気持ちを振り払うように、紅子は言った。

「どんな人だったの?」

「しっかり者で気っ風の良いおかみさん、て感じかな」

 と竜介。

「怒るとおっかない人で……そういえば、八千代おばさんと少し雰囲気が似てたよ」

「へええ。会ってみたかったなぁ」

「あとで師匠に写真を見せてもらいなよ」

「そうだね。頼んでみる」



 久しぶりに賑やかな食卓に、泰蔵は上機嫌だった。

 昏睡から醒めずに心配していた紅子も無事に意識を取り戻し、黄珠の場所もわかった。

 良いニュースばかりだ。

 おまけに、テーブルの上にはさっき、「料理ができるまで、こちらどうぞ」と紅子が持ってきてくれたつまみの盛り合わせがある。


 ことと次第によっては一生会えないかもしれないと思っていた孫娘に、手ずから酒肴を給仕してもらう日が来ようとは――


 感無量である。

 こんなにビールをうまいと思ったのは、いつ以来だろう。

 泰蔵は空いたグラスにビールを注ごうとして、中身が空なのに気づいた。

 もう一本のほうも空っぽなのを確かめ、少しペースが早すぎたかと苦笑する。

「鷹彦、悪いが冷蔵庫からもう一本……」

 取ってきてくれないか、と言いかけて鷹彦を見れば、彼は何やら浮かない表情で台所を眺めていた。


 何だ?


 泰蔵が訝しみながら視線の先を追うと、そこにあったのは談笑しながら並んで料理をしている、竜介と紅子の後ろ姿。

 なるほどな――

 泰蔵は声に出さずにつぶやいた。

 竜介と紅子の二人に関していえば、この前は随分派手な喧嘩をしていたのが、仲直りしたようでよかったとは思っていたのだが。


 何やら、ことは複雑になりつつあるようだ。


 とはいえ、紅子が誰を選ぶにせよ、竜介と鷹彦がそれを理由に決裂するようなことはあるまい。

 それよりもずっと厄介なのは、と泰蔵は思う。

 紅子が選んだ相手に対して、黄根の御仁がどう反応するか――


「おい、鷹彦」


 泰蔵が肩に手を置いて呼びかけると、鷹彦はびくっとして振り向いた。

「えっ、あっ!」

 目の前の空いたグラスを見て慌てる。

「すみません、すぐに新しいのを……」

 と立ち上がりかける彼を制して、泰蔵はカップボードから焼酎の瓶を取り出して見せた。


「そろそろこういうのに切り替えんか」


「いいすね。俺、氷取ってきます」

 鷹彦は台所へ行くと、冷凍庫から氷を取り出しながら竜介と紅子に何やら話しかける。

 何と言っているのかこちらまでは聞こえてこないが、三人が笑い合うのを泰蔵は微笑ましく眺めた。

 黄根が何をどう思うにしても、それはまだ先のこと――そう思いながら。


 未来のことを心配してもきりがない。誰もがそう思っていた。


 なぜなら、未来は思いもかけない形で、ある日突然その姿を現すのだから。

 そして――

 本当にその瞬間は、何の前触れもなく訪れた。

 紅子はその違和感を、一瞬の停電のようだと思った。

 室内は変わらず明るく、照明器具の不具合はない。

 ただ、空気が変わった。


 結界が、消えたのだ。


 紺野家の結界は、一度にすべての結界石を破壊しない限り消えない。そして、結界石のどれか一つにでも異変があれば、竜介と鷹彦にわかる。

 そのはずだった。なのに――

 予想だにしなかったことが突然現実となり、呆然とする四人の中、真っ先に行動を開始したのは竜介だった。


「師匠、鷹彦と紅子ちゃんを頼みます」


「お、おう」

「鷹彦、紅子ちゃんの周りに〈壁〉を作ってくれ」

 そう言うや、足早に玄関に向かい始める兄の後を、鷹彦は慌てて追いかける。

「了解、って、どこ行くの!?」


「ここから一番近い結界石!何かわかったら、携帯に連絡する!」


 竜介は肩越しにそう叫び返すと、靴を履くのももどかしく、玄関を飛び出した。

 たそがれ時も終わりに近づく、闇の中へ。

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