2023年8月9日水曜日

紅蓮の禁呪第75話「壊れた鏡・一」

  空が明るくなるにつれ、竜介、鷹彦、紅子の三人は丹精されて美しかった庭の今や惨憺たるありさまに改めて青くなった。

 地面を覆っていた芝草や植栽は一面まる焦げで、鷹彦のいた場所と、竜介と紅子がいた場所の二箇所だけが、黒く焦げた土の海に浮かぶ緑の島のようになっていたのである。

 だが、白鷺家の姉弟は、心配には及ばない、と鷹揚に笑った。

「庭を含めてこの屋敷には保険もかけてありますし、調度品のたいていはレプリカですし」

 と日可理。


 調度品が、レプリカ……?


 紅子はレプリカという言葉の意味がよく理解できなかったが、竜介と鷹彦が少しほっとした顔を見せたのと、続けて志乃武が、


「それはそうと、皆さん、お腹が空きませんか?」


 と、より魅力的な話題に変えてしまったので、それきりになってしまった。

 志乃武が言うには、彼の式鬼――昼顔――にたった今邸内を見回らせたところ、屋内は紅子の部屋と日可理が黒珠の襲撃を受けた廊下を除けば、まったく問題ないということだった。

「つまり、竜介さんが停電前に作っていたサンドイッチが無事だということです。立ち話もなんですし、どうでしょう、ダイニングへ移動するのは?」

 全員、空腹で、くたくただった。彼の言葉に異を唱える者などいるはずもないと思われたそのとき、紅子が「あのー」と、手を挙げた。

「その前に、お風呂に入って着替えたいんですけど」

 無理もない。

 化物に掴まれていた彼女の膝から下は、泥と化物の油っぽい体液で文字通りどろどろ、見るからに不快そうだ。

 膝から上も、炎に包まれたせいであちこち煤がつき、あまり無事とは言い難い。

 ところが、真っ先に同意してくれると紅子が踏んでいた、着衣ボロボロ仲間であるはずの日可理は、頬に手を当てて、

「わたくしも、そうしたいのはやまやまなのですが……」

 と、困った様子で言葉を濁す。

 何が問題なのかと紅子が尋ねようとしたそのとき、チッチッチ、という舌打ちでもって、鷹彦が横から彼女をさえぎった。

「紅子ちゃん、このお屋敷のガスボイラーはね、電気制御なんだよ。つまり、停電中は使えないってわけ」

「ええっ!うそ!」

「ホントだよーん」

 鷹彦の口調は道化ていたが、日可理の困った顔を見る限り、その言葉の真偽は疑いようもなかった。

 停電が復旧するまで、ずっと異臭漂う格好のまま。

「下手したら、俺たちこのまま家に帰ることになるかも……」

 紅子よりはずっとましだが、それでも煙突掃除でもしたように煤まみれの竜介が、うんざりした様子で言った。彼が言う「家」とは、紺野家のことだろう。

 紅子は泣きたくなった。

 が、そのとき。


「なんとかなるかもしれませんよ」


 それまでずっと黙って考え込んでいた志乃武が、口を開いた。

「えっ、本当に!?」

 今にもすがりつかんばかりの紅子を両手で制しながら、笑顔で彼はうなずいた。

「ええ。ただし、皆さんには少しばかり移動してもらうことになりますが」

 紅子は目の前が突然明るくなったように感じた。

 この不快な格好とさよならできるなら、行き先などどこでもいい。

 たとえ、行き先は地獄です、と言われても、そこに風呂と着替えがあるなら、今の彼女は喜んで行っただろう。

 日可理と竜介も、程度の差こそあれ同じような気持ちだったようで、安堵の笑顔で同意した。

 鷹彦は、食事が遠のいたのが少し残念そうだったが、

「ま、しょーがねーか」

と言った。

「竜兄はともかく、レディーたちにはキレイでいてもらいたいもんな」

 という、最後の一言が余計だったけれど。


「車を車庫から出して来ますから、先に玄関で待っていてください」

 三人に言って、志乃武は姉を振り返った。

 行こうか。

 姉にそう声をかけようとして吸い込んだ息は、しかし、そのまま志乃武の喉の奥で凍りついた。

 彼女の視線は、肩を並べて玄関に向かう竜介と紅子の背中をじっと追っていた。

 その表情はいつもと何ら変わることのない穏やかなものだ。


 だが――その双眸には、奇妙な影が落ちていた。


 志乃武は、日可理とは母親の胎内にいたときから一緒であり、姉のことならおよそ何でも知っているという自負がある。

 ところが、その影は彼にとって見たこともないものであり、また、日可理に似つかわしいとは言い難いものをはらんでいた。


 何かの錯覚だろうか――?


 何度か目をしばたたかせた次の瞬間、不吉な影はうそのように消えていた。

「志乃武さん?」

 怪訝な顔でそう尋ねた彼女の目は、普段通り。

 自分と同じ、少し色素の薄い明るい褐色。

「いや、何でもない」

 志乃武はほっとしてかぶりを振った。

 まだ朝も明けやらぬ薄闇が見せた、ただの幻――そう思いながら。

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