「どんな未来も見ることができるのに、そんなことがわからなかったんですか?……なんだか矛盾してる」
紅子が疑問を挟むと、泰蔵は鼻を鳴らし、
「わしもそう思う」
と同意した。
「本当にわからなかったのかどうかは、本人に直接訊いてみるしかないが、それは今はかなわん。少なくとも、あの男の側に最も長くいた八千代さんはそう思った、ということだ」
「本当は知っていた、ってことは?」
泰蔵はしばらく考えてから、その質問に答えた。
「ありえん……のじゃないかな」
歯切れの悪い返答だった。
「最初にも言った通り、わしにはあの黄根朋徳という男がさっぱりわからんのだが、何もかも知っていたと仮定するよりは、何も知らなかったと仮定するほうが、日奈さんが生まれてからのあの男の行動をすっきりと説明できるのでな」
自分の母親が生まれてから、その短い生涯を閉じるまで、いったい何があったのか。
その疑問を紅子が口に出す前に、泰蔵は再び、話し出した。
日奈は、炎珠を始め、黒珠を除くすべての御珠から魂縒(たまより)の儀式を受けても、ほとんど力を使うことができなかった。
ほんらい炎珠の神女として備わっているはずの、その強大な力の片鱗さえ、彼女にはなかった。
そんな一人娘を、ふがいないと苛立ったのかどうか――それはわからない。
ただ、日奈が高校を出ると、朋徳はこの上なく順調だった代議士秘書の職を辞し、彼女を伴ってこの国の名だたる霊山、とくに修験道で知られる山々をめぐる旅に発った。
山々の霊気を浴びて鍛錬を積めば、炎珠の神女たるに相応しい、何らかの力の萌芽を見いだせるに違いない、彼はそう考えたのだろう。
しかし、彼のこの決意は、当時まだ存命であった婚家の義父母、すなわち日奈の祖父母から猛反対を受ける。
当然といえば、当然であった。
黒珠の封印はいまだ解かれておらず、封印の鍵が今すぐ必要なわけではない。
日奈に力がないのであれば、早めに婿をとらせ、また次代に望みを託せばよいだけのことなのだから。
まだ成年にも達していない可愛い孫娘を修練の旅に送り出すなど、彼らには考えられないことだった。
結果、朋徳と日奈は、一色家からの金銭的支援を一切絶たれた上で旅に出ることを余儀なくされる。
とはいえ、朋徳の懐には秘書時代の退職金もあり、そこそこに潤沢だったようだ。
少なくとも、最初のうちは。
一年、二年――旅は続いた。
だが、日奈の力が――それが眠っていたのだとしても――目覚めることはなかった。
やがて、三年目。
長旅と修行の疲労からだろう、日奈が倒れた。
医師の見立ては「過労」。
一晩入院して点滴を受けたほかは、自宅で静養すれば充分と、日奈は退院を勧められた。
それは、飛騨高山への道程でのことだった。
紺野家の屋敷のほど近くである。
だが、朋徳は紺野家のやっかいになることをなぜかひどく嫌い、かといって東京へ戻ることもせず、既知の宿坊の世話になるからと、日奈の体調が回復するまで、邸内の離れを提供するという紺野家の申し出を固辞した。
結局、あてにしていた宿坊からは病人連れを断られ、彼ら親子は紺野家に身を寄せざるをえなくなるのだが――
実は、朋徳が紺野家に足を踏み入れることを厭(いと)うのは、何も今回が初めてではなかった。
日奈に碧珠の珠縒を受けさせたときも、儀式が終わるや否や、娘を連れて紺野家を後にしているのである。
まるで、一刻一秒たりとも長居は無用といわんばかりに。
白珠のときは白鷺家の邸内に何泊かしているから、決して遠慮があってそうしたわけではなさそうだ。
いったい何が、彼に紺野家に長時間滞在することを避けさせたのか。
「あの男は、わしと玄蔵をとくに避けていた」
泰蔵は、両手の中の、既に空っぽになった湯飲みに目を落としながら言った。
「当時は、なぜこうも嫌われるのか、さっぱりわからなかったが……今はわかる。あの男は、 嫌っていたのではない。恐れていたのだと」
泰蔵は、朋徳が何を恐れていたのかを言葉にすることなく、そのまましばし黙り込んだ。
紅子も訊かなかった。
訊かなくても、わかった。
朋徳には、見えていたのだ。
日奈が、玄蔵と出逢い、紅子をみごもり、産み、そして――逝ってしまう未来を。
その未来を一刻でも遅らせるために、できることならば永遠に避けるために、彼は紺野家に近づくことを嫌ったのだ。
なぜ?
彼は信じていたのだろうか。
日奈の力が目覚める日が、いつか、必ず来ると?
――わからない。
ただわかるのは、運命は変えられなかった、ということだけ。
紺野家に滞在中、朋徳は、強迫的なまでに娘のいる離れから人を遠ざけた。
当時、すでに紺野家で住み込みの家政婦をしていた滝口と、世話になっている紺野家の当主――その頃はまだ、泰蔵の兄、つまり竜介たちの祖父が務めていた――を除き、余人の目に決して日奈を触れさせまいとした。
とはいえ、朋徳にまったく隙がなかったわけではない。
彼は日奈の枕辺を離れ、しばしば出かけた。
金策のためか、あるいは、紺野家に代わる療養先を探していたのかもしれない。
泰蔵たち親子の住まいが自分たちの滞在する紺野家本宅からは山を一つ隔てたところにあるという、距離的な油断もあったろう。
さて、客人に対する好奇心や、「見るな」と言われると見たくなる、という経験は誰しもが持つものである。
ことに子供の好奇心は強烈であり、大人のように自らの欲求をまだコントロールできない彼らは、いささか感心しかねるすべを使ってでも、どうにかしてそれを満たそうとする。
そして、紺野家の母屋にも、そんないたずら盛りの子供が少なくとも三人いた。
八歳の竜介を筆頭に、五歳の虎光、三歳の鷹彦。
三人とも、離れに閉じこもったまま姿を見せない客人に興味津々だった。
何とか離れに近づいて、客人の姿をかいま見てやろうと好機をうかがうこと十数日。
とうとう、朋徳の留守中、家人の目を盗むことに彼らは成功する。
そこには、ぎょろりと目が大きくて、不愛想で感じの悪い「おっさん」の娘とはとうてい思えないほど、きれいで優しい「お姉さん」がいた。
女きょうだいのいない三兄弟にとって、年若い女性というのは大変な珍客であり、彼女が彼らの格好の遊び相手となるのに、さほど時間はかからなかった。
とくに竜介は日奈に夢中だったらしく、泰蔵たちのところへ遊びに行くたびに、離れで伏せっている「お姉さん」がいかに美人で優しいかを吹聴したものである。
子供の言うこととはいえ、当時まだ若かった玄蔵がまだ見ぬ「美女」に興味を持たないはずもない。
彼女の父親が人払いをしているということは知っていた。
自分たち親子をなぜかとくに遠ざけようとしていることも。
しかし、一度だけ――一度だけ、それもほんの短時間ちょっと逢ってみるだけなら、ばれたとしても、そうこっぴどく怒られることもあるまい。
己が好奇心に負けた玄蔵は、いたずら者の従甥(いとこおい)にそそのかされるようにして、日奈の元を訪れた。
一度だけ、そう決めていたはずだった。
だが、その決心は、もろく崩れた。
「あら……今日はずいぶんと大きいお友達が一緒なのね?」
そう言って、ほほえんだ彼女を見た、その瞬間に――
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