2023年8月11日金曜日

紅蓮の禁呪第99話「嵐の前・一」

  翌朝。

 紅子が目を覚ますと、床の間の置き時計は九時を少し過ぎたところだった。

 枕元の着替えに手を伸ばそうとして、そのすぐ隣に畳んである丹前に気づく。


「何だっけ、これ……??」


 着替えながら、彼女は半覚醒状態で昨夜の記憶をまさぐり、眠れずに寝床を抜け出して庭を徘徊していたら竜介と出くわしたことを思い出した。

 完全覚醒した脳裏に、抱き寄せられた記憶が蘇り、紅子は真っ赤になった。

 混乱した頭で、どうやって丹前を返そうか考えるが、ぐうぐうと不満げな音を立てる腹の虫に邪魔されて、うまく考えがまとまらない。

 結局、最も簡単かつ心理的にも楽な方法――ランドリールームの洗濯物入れに突っ込む――を、彼女は最後まで思いつくことができず、空腹に負けて自室を出た。

 下手に避けたり意識している様子を見せれば、また竜介にからかいのネタを提供するようなものだ、と食堂までの廊下を歩きながら気を取り直す。


 そう、平然としていればいいのだ。


 遅くなってしまったので、先に台所に顔を出し、滝口夫人に朝食を準備してもらえるかどうか尋ねてみると、快く「大丈夫ですよ」と言ってもらえてホッとする。

 しかし食堂へ行ったら、


「紅子ちゃん、おはよう!二日ぶりだね、元気だった?」


 鷹彦がいた――二日前、夕食の席でトンデモ発言をしたことなど綺麗サッパリ忘れたかのような笑顔で。

「……おはよう」

 紅子は不機嫌を隠そうともせず、口の中でボソボソとそう返事をすると、鷹彦のはす向かいに腰をおろした。

 彼とはなるべく距離を取るのが習慣化しつつある。

 テーブルの上には皿がいくつか並んでいて、どれもあらかた空っぽだった。

 ということは、鷹彦はまもなく席を立つのだろう、と紅子が期待していると、果たして、彼女の朝食を運んできた滝口夫人が、台所へ戻るついでに空いている皿を下げていいかどうか尋ねた。

 鷹彦は快諾。さらには滝口を手伝って自分の皿を台所へ運んでいった。

 紅子はほっと息をつき、


 やれやれ、これで静かに朝食を――


などと思ったのも束の間。

 しばらくして、鷹彦は戻ってきた――片手に湯気の立つコーヒーカップ、もう片方にはケーキが乗った皿を持って。


「紅子ちゃん一人じゃ寂しいだろうと思ってさ」


 にっこり。


 いらない気遣いをありがとう、と言いかけた彼女はしかし、口を「い」の形にしたままで固まってしまった。

 鷹彦の背後から、竜介が食堂に入ってきたからだ。

 彼は少し眠そうではあったものの、昨日のようなぼさぼさ頭ではなく、身支度を整えていて、紅子に目を留めると、


「おはよう」


 と軽く言って、彼女の向かいに腰をおろした。

 紅子は心の中で平常心、平常心、とお題目のように唱えながら、挨拶を返す。


「竜兄がこんな時間に朝メシって、ちょっと珍しくね?」


 紅子の妙に肩に力の入った様子にはまったく気づかず、鷹彦が言うと、

「ちょっと早く目が覚めたから、乾(いぬい)の滝の様子を見てきた」

 と竜介が答えた。

 紅子がおうむ返しに尋ねる。

「いぬいのたきって?」

「碧珠を安置してある洞窟にかかってる滝の名前だよ」

 鷹彦が答えた。

「雨が降ると滝の水量が増えて、中に入れなくなるんだ。うちのご先祖さまは白鷺さんちみたいな複雑な仕掛けがあんまり好きじゃなかったんだろうね、きっと」

 彼は冗談ぽくそう説明したあと、長兄に「で、どうだった?」と訊いた。


「このまま上流で雨が降らなかったら、明日は魂縒ができそうだ」


 竜介が答えたところで、滝口が彼の朝食を運んできた。

「紅子ちゃん」

 竜介は食事を始めながら言った。

「明日の朝は今朝より二時間ばかり早起きしてほしいんだけど、大丈夫かい?」

「大丈夫」

 紅子がうなずくと、鷹彦が訊いた。

「俺っちも一緒に行っていい?」

 この質問に対して、紅子と竜介はほぼ同時に、真逆の返事をした。


「いいぞ」

「うるさいから来なくていい」


 鷹彦は二人を見比べ、困惑顔で


「えーっと、どっちかな?」


 と尋ねる。

 しかめ面で抗議しようとする紅子を制し、竜介が言った。

「魂縒の後、昏睡に入った紅子ちゃんを抱えた状態で何かあったら、俺一人じゃどうにもならないだろ」

 正論である。

 紅子は喉元まで出かかった拒絶の言葉をどうにか引っ込めると、口をへの字の曲げたまま横目で鷹彦をにらみ、言った。


「……うるさくしないって約束してよね」


「合点承知!」

 鷹彦は満面の笑みで指をパチンと鳴らす。

 紅子はため息をつく代わりに仏頂面で朝食を口に押し込み、竜介は

「あのなぁ、遊びに行くんじゃねーんだぞ」

 と末弟をたしなめた。



 食事が終わり、紅子がそろそろ席を立とうかというとき、食堂に英梨が顔を出した。


「おはよう、みんなここにいたのね。ちょうどよかった」


 と彼女は言った。

「紅子さん、この後、お買い物に行かない?もちろん、時間があればだけど」

 時間ならあるに決まっている。

 むしろこの後、部屋で何をしようかと考えていたくらいだ――東京を離れるとき担任教諭からもらった参考書を見るという選択肢を別にして。

 でも――


「買い物……ですか?」


 怪訝そうに尋ねる紅子に、英梨はうなずいた。

「そう。白鷺さんのところでお洋服を一着ダメにしてしまったって竜介さんから聞いたから、新しいのを一緒に買いに行くのはどうかと思って」

 紅子が竜介を見ると、彼は言った。

「行ってきたら。いい気晴らしになると思うよ」

 すると、英梨がにっこりして言った。

「あら、あなたと鷹彦さんも来るのよ。運転手と荷物持ちが必要でしょ」

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