2023年8月13日日曜日

紅蓮の禁呪第120話「結界消失・四」

  三人は玄関の引き戸をわずかに開けて、隙間から外の様子をうかがった。

 玄関から山門までの石畳には、来訪者の足元を照らすために陶器でできた庭園灯が一定の間隔を置いて並んでいる。

 その明かりの中に、たしかに涼音がいた。


 それと、もう一人――


 周囲の闇に溶けてしまいそうなほどの漆黒の髪と、黒衣に身を包んだ、小さな人影。

 それはまさしく影のように涼音の背後にぴたりと寄り添って、左手で彼女を拘束し、右手の甲から伸びた三日月状の刃を、その喉元にぴたりと押し当てていた。


「迦陵(がりょう)……」


 紅子は我知らずその名前をつぶやいていた。

 視界の端で、鷹彦が隣で頭を抱える。

「まじかー」

「知っているのかね」

 二人のつぶやきを聞きとがめ、泰蔵が尋ねると、鷹彦が答えた。

「知ってるも何も、白鷺家でやりあったやつですよ。竜兄から聞いてませんか?」


「話は聞いているが……ずいぶん小さいな」


 竜介がどういう話をしたのか紅子には知るよしもないが、言葉だけではあの見た目と戦闘力のギャップを伝えきれなかったのだろう。

「学校の帰りを狙われたのかな」

 紅子が再び外の様子をうかがいながらひとりごちる。

 すると、鷹彦は青い顔をして、こう言った。


「それか、うちに何かあったか……」


 それは言外に、迦陵が英莉や虎光がいる向こうの屋敷を襲った可能性を示唆していた。

 虎光は確かに体格はいいが、竜介や鷹彦のような異能を持っているわけではない。迦陵が相手ではひとたまりもないだろう。

 恐ろしい光景が脳裏をよぎり、紅子は全身の血の気が引くのを感じた。

 と、そのとき。


「三たびは言わぬぞ」


 体格に似つかわしくない、迦陵の低い声が響いた。


「この娘の命が惜しくば、神女を出せ」


「時間切れか」

 泰蔵は苦い顔でつぶやいた。

「わしが出る。鷹彦と紅子ちゃんはここで」


「あたしも、行きます」


 紅子は泰蔵の言葉をさえぎって言った。

「迦陵は気配であたしがいることはわかってるはずです。あたしが出て行かないと、涼音はたぶん……」

 瞬殺、という言葉を飲み込む。涼音のことは好きになれないが、そういうのは避けたい。


「俺っちも賛成だな」


 と、鷹彦。

「あいつに時間稼ぎは通用しないっすよ、師匠」

「わかった」

 泰蔵はうなずいた。

「それじゃ、鷹彦は障壁を紅子ちゃんの周囲に張ってくれ。紅子ちゃんは念のため、鷹彦のそばを離れないように」

 鷹彦が「了解っす」と返事をするそばから、紅子は目の前で水のような波紋が広がって消えるのを見た。

 手を伸ばしてみると、透明だが重いカーテンのようなものが手に触れる。

 守られるだけというのは、なんとも歯がゆい。

 碧珠の魂縒が終わったら、もっと自在に力を使えるようになるだろうと思っていたのに、期待ハズレもいいところだ。

 でも、落ち込んでいる暇はない。


「出るぞ」


 泰蔵が引き戸を開けた。



 外に出てみると、夜風が冷たかった。

 低く押し殺したうめき声が、断続的に耳に届いてくる。涼音が、嗚咽の発作を必死にこらえているのだ。

 彼女は夕闇の中で青く輝く泰蔵と鷹彦の姿を認めるや、必死で声を振り絞った。


「……すけて、助けて……っ!」


 薄明かりに氷のような光を放つ迦陵の刃と、その刃先から少しでも遠ざかろうとして、必死に反らせている涼音の喉が痛々しくも白い。

 涼音の背後から刃を構える黒衣の迦陵は、影とほとんど見分けがつかない。ただ、凄まじい力の気配だけが、否応なくその存在を紅子たちに教える。


「炎珠の神女を連れてきたぞ」


 泰蔵は初見の黒珠に声をかけた。

「その子を放してやってくれまいか」

 こんな説得に耳を貸す相手だと思っているわけではないが、ひとまず定石を踏んで様子をうかがう。

「よかろう」

 拍子抜けするほどあっさりと、迦陵の声は言ったが、

「ただし」

 と、続けた。


「ただし……神女の周囲にある邪魔な<壁>を消してからだ」


 奇妙なほど易しい条件だった。

 何を考えているのか――だが、涼音の命を握られている以上、従うしかない。

 泰蔵はまず鷹彦に目配せをし、鷹彦が渋い顔で紅子の周囲の障壁を消す。

 目に見えない障壁のはずなのに、それが「ある」ことを示す術圧が消えたとたん、紅子は心もとない気分を味わった。

 と、ほぼ同時に、


「おじい!鷹兄ぃ!」


 突然、涼音がつんのめるようにしてこちらへ向かって駆け出した。

 迦陵が彼女を解放したのだろうか?

 と、次の瞬間、涼音の背後で、黒い死神がその鎌を大きく振りかぶる。

 次に起こるはずの惨劇から、紅子が目を逸らそうとした、そのとき。


 涼音の姿はかき消え、迦陵の刃は空を切った。


 いったい、何が起きたのか?

 涼音の姿をあわてて探せば、視界をめぐらせるまでもなく、彼女は紅子の目の前にいた。

 正確に言うと、こちらに背を向けたまま立っていた泰蔵が、いつの間にか涼音を抱えていたのだ。


「鷹彦。涼音を頼む」


 泰蔵の能力を知っているらしい鷹彦は驚いた様子もなく妹の身柄を受け取るが、対する涼音は――紅子も同じく――何が起きたかわからず、ただ呆然としている。

 意外だったのは、同じ混乱を味わっているものが、あともう一人いたことだ。

 迦陵である。

 攻撃をかわされた小さな黒衣は、しかし即座に体勢を立て直すと、つぶやいた。


「瞬間移動……いや、違うな」


 その顔は相変わらず無表情だったが、抑揚のない声に、ほんのわずかな驚きのようなものが混じっている。

 「違う」とは、何が違うのだろう。

 独言を聞きとがめた紅子が訝しく思うよりも速く、迦陵は再び動いた。


 黒衣が闇に溶ける――


 動きが速すぎて、紅子にはそうとしか見えない。

 次に彼女の目が黒衣をとらえたとき、それは泰蔵に肉迫していた。

 迦陵の右手と左手の甲からのびた刃が、それぞれ泰蔵の腹と首に吸い込まれ――だが、その動きは寸前でぴたりと止まった。

 泰蔵は己の身体の前で両腕を交差させ、二枚の刃をそれぞれ左右の親指と人差し指でつまむようにして止めていた。

「やはり」

 迦陵が言った。


「時を引き伸ばしたか」


「目がいいな」

 泰蔵が無表情に応じる。

 同時に、迦陵の刃から、ミシッ、という嫌な音が聞こえた。

 とたんに迦陵は刃を手の甲に収め、ひらりと間合いを取る。

 体勢を整え、三度、機をうかがうつもりなのだろう。

 それにしても、「時を引き伸ばす」とはどういう意味なのか?

 紅子は説明を求めて傍らにいる鷹彦に視線を送ったが、彼のほうはといえば、泣きながら「ごめんなさい」を繰り返す涼音をあやすのに手一杯で、こちらに気づく余裕はなさそうだった。

 平凡な生活ではありえないほどの恐怖と、命の危機を味わったのだ。

 無理もない。

 そんなことを思って苦笑した、そのとき。

 紅子は突然、凄絶な危機感に襲われた。

 動悸と強烈な目まい。

 夜闇に沈む周囲の景色が、さらに暗くなる。


 この感覚、前にも……?


 気づいたときには、身体が前方へ跳んでいた。

 が。

 いつの間にか鷹彦が再び張り巡らせていた<壁>にぶつかり、したたかに肩を打ってしまった。


「紅子ちゃん!?大丈夫!?」


 彼女の突然の奇行に驚いた鷹彦が声を上げる。

 痛みに呻吟しつつも、返事をしようとした紅子の声はしかし、喉の奥で止まった。

 自分が今までいた場所の空中に、黒い「裂け目」が浮かび、そこから獣のような鋭い爪を持つ手が二本、ぬっと突き出ていた。

 手は裂け目の両脇をつかみ、闇を押し広げていく。


 そして――


 凄まじい力の気配とともに、それは――あるいは「彼」は――現れた。

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