2023年8月14日月曜日

紅蓮の禁呪第122話「結界消失・六」

  凄まじい爆風のような力が、竜介の身体を柵の向こうへ吹き飛ばした。


「くそっ!」


 思わぬ不意打ちに思わず毒づく。

 トンボを切って着地したあともなお、衝撃の勢いで彼は後方へ押しやられた。

 足の滑った跡を地面にわだちのように残し、彼の身体がようやく止まったのは、崖まであと数十センチという際どい場所だった。


 下から吹き上げる風が、冷たく彼の頬を撫でる。


 だが、竜介は木立のほうへ固定した視線を動かさなかった。

 自分をここまで弾き飛ばした力の主は、一体何者なのか。

 と――

 木立のあいだで、闇がゆらりとうごめいた。

 闇は言った。


「ほう……崖から落ちたものと思ったが、持ちこたえたな」


 まず男の顔が白く浮かび上がり、ついで首から下が現れた。

 それは、がっしりとした長身を漆黒の鎧で包んだ、黒い巻毛の青年の姿をしていた。

 ギリシャ彫刻もかくやと思われる、美丈夫。

 だが、その輝く美しさに反し、眼窩に収まる二つの黒い瞳に宿るのは、底なしの闇と狂気だった。


 ――寒い。


 竜介は自分の吐く息の白さに気づき、この寒気が心理的な理由だけではないことに奇妙な安堵を覚えた。

 凍えるような冷気は、目の前の男から漂ってきていた。

 白い霜が、黒い男の足元を、周囲の草木を、見る間に白く染めていく。

 夜に覆われつつある静かな森に、ミシミシと不穏なささやきを響かせながら。

 しかし――

 それより何より彼を圧倒し、戦慄させていたのは、男の全身から放たれる、凄絶な黒珠の力の気配だった。

 彼はこのとき、生まれて初めて、無意識の底から湧き上がるような、本能的な恐怖というものを感じていた。


 足が、動かない。

 拳に力が入らない。


 恐怖に固まる竜介が何も仕掛けてこないと見て取ると、黒珠の男は早々に興味を失った様子で、意識を失っている紅子のほうへ視線を移した。

 男の大きな黒い影が、少女の上に沈み込む。

 その途端。


「彼女に触るな――!!」


 呼吸が戻った。

 それまで麻痺したように言うことをきかなかった足が、全身が、嘘のように軽々と動いた。

 鮮烈な青い光輝に包まれた身体は、柵を踏み台に、たった一度の跳躍で鎧の男に肉薄した。

 右の拳に乗せた金色の稲妻が炸裂し、周囲を真昼の明るさに変える。

 彼の拳は、男の白い左頬に吸い込まれた。

 だが、次の瞬間、男を守るかのように青白い鬼火をまとった黒い稲妻が忽然と現れ、金色の稲妻と拮抗した。


 世界は光と闇にわかれた。


 落雷に似た、耳を聾する轟音。

 反発し合う二つの力が生んだ凄まじい衝撃波が、周囲の草木を同心円状になぎ倒す。

 音と衝撃波に脅かされ、ねぐらを追われた小動物や鳥が、警告の叫びを上げながら一斉に逃げ出して行く。

 第一撃を跳ね返されたものの、竜介は瞬時に体勢を立て直した。

 紅子の上にかがみ込もうとしていた男もまた、元通り立ち上がると、こちらの様子をうかがっているようだ。

 あれだけの光と轟音でも、紅子が意識を取り戻す様子はない。

 ただ、男の足元を中心に白い霜で覆われた地面が、紅子の周囲だけ黒く、それだけが彼女を守護する力の存在と、彼女の生命がまだ無事であることを示していた。

 どうにかして鎧の男を紅子のそばから引き離し、彼女を連れてこの場を離れねばならないが、それは難易度の高いミッションだった。

 竜介の放ついかなる打撃も、男の周囲を固める黒い稲妻が無力化してしまう。

 幾度となくぶつかり合う、金と黒の二つの稲妻。

 放電で発生するオゾンの匂いが鼻につき始めた頃、


「もうよい」


 黒衣の男は青白い鬼火のむこうから退屈そうに言うと、左手を無造作に持ち上げた。

 膨れ上がる力の気配。

 次の瞬間、それまで防御一辺倒だった黒い稲妻が、轟音とともに竜介めがけて「落ちて」きた。

 竜介は頭上に両手を広げ、金色の稲妻でそれを防いだ。


「ぐぅぅ……っ!」


 凄まじい術圧で身体が地面にめりこみそうになるのを、歯を食いしばって耐える。

 落雷の衝撃が辺りに土埃を巻き上げ、夕闇の乏しい光を遮る。

 視界はほぼゼロ。

 だが、竜介には見えていた。

 黒珠の男の強すぎる力の気配が、土埃の向こうから、はっきりと「自分はここだ」と告げていた。

 その気配を頼りに、一気に間合いを詰める。


「むっ!?」


 懐中からせり上がってくるような攻撃に、鎧の男は思わずのけぞり、後退した。

 大振りな鎧のせいで、動きが重い。

 竜介が稲妻を溜めると、男は防御のために間合いを取った。


 紅子との間に、距離ができる。


 その一瞬を、竜介は見逃さなかった。

 素早く紅子のそばにかがみ、その冷えた身体をすくい上げる。

 しかし――

 すべては一瞬の出来事だった。

 視界に鋭い刃が飛び込んできた。

 見覚えのある、三日月型のブレード。

 その切っ先が描く弧の先には、自分の首があることを、竜介は即座に見て取った。

 速い。

 回避行動――後ろへ跳ぶ――が間に合わない。

 全身が、死の予感に冷たく粟立つ。

 それでも彼は足掻いた。

 「夢」の中で、彼女を命に代えても守ると決めた。

 それが今でなくて、いつだというのか。

 首にひんやりとした何かが食い込む感触。

 竜介は自分に治癒能力を与えてくれた何者かに、心から感謝したいと思った。

 意識さえ残っていれば、多少の傷はどうにかなる。

 どんな難局だろうと乗り切ってみせる――そう思った。

 そう思えた。

 そのとき。


 突然、両腕に感じていたすべての重さが消えた。


 暗幕を垂れたような空中に、紅子の身体が浮きあがる。

 次いで目に入ったのは、彼女をつかむ黒い甲手をはめた腕と、ぞっとするほど美しい顔。

 それは紅子を連れてかき消すように闇に消えた――嘲笑だけを残して。

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