2023年8月7日月曜日

紅蓮の禁呪第59話「日可理・三」

  日可理が初めて竜介に会ったのは、彼女が十歳のとき、彼女と志乃武が小学五年生に進級してまだ間もない、五月のことだった。

 その日、彼女は都内のホテルで催されたいとこの結婚披露宴に、両親や弟と出席していた。

 披露宴にせよ何にせよ、パーティーというものに出るのは彼らにとって今回が初めてのことだった。

 それまでは親族のあいだにこういう集まりがあっても、彼女と志乃武はまだあいにくと公式の場所に出られるような年齢に達していなかったから、たとえ招待を受けても彼ら二人の保護者たちが断ってきた。

 しかし、小学生とはいえ五年生ともなれば、それなりに礼儀作法も身に付いた年頃である。

 この宴席に招待を受けたとき、彼らの両親はもちろん、可愛い盛りの孫を自慢したい祖父にも、二人を同席させることに否やのあろうはずはなかった。

 ところが、ただ一人、首を縦に振ろうとしない人がいた。彼らの祖母である。


「まだ早い。早過ぎます」


 彼女は頑(かたく)なにそう言い続けた。

 礼儀作法に厳しい祖母から見れば、自分たちはまだまだ人前には出せないということなのだろうかと、それを聞いた当時の日可理はつらく感じたものだったが、今なら、その言葉の本当の意味がわかる。

 祖母は、できる限り遅らせたかったのだ――日可理が「彼」に出会うことを。



 披露宴はホテルの庭を借り切って、ビュッフェスタイルで行なわれた。

 屋外の宴席で気になるのは空模様だが、この日は幸い、新緑が目に染みそうなほどの上天気にめぐまれ、その陽気は振り袖で出席した日可理を少々ぐったりさせたほどだった。

 およそパーティーというものは、とくにそのために用意されたものでなければ子供にとっては退屈で無意味な時間になることが多い。

 が、この日の場合、日可理たちは退屈などと言っていられないほど忙しかった。

 白鷺家本家の可愛らしい二粒の宝石は、新郎新婦の次に――いや、ひょっとしたら彼らと同じくらい、招待客の注目を集めたからだ。

 両親が新郎新婦を始め親戚たちと挨拶を交わしているあいだも、日可理と志乃武の周囲にはまったく面識のない大人たちが集まり、やれ名前は何というだの、歳はいくつだのと話しかけたり、一緒に写真を撮りたがったりするので、二人はおちおち食事もしていられない。

 その日何枚目かの写真撮影を頼まれた日可理は承諾したものの、うんざりしているのが顔に出ていたらしく、志乃武が耳元で言った。

「日可理、顔が怖いよ」

「だって」

と、日可理はムッとして言い返す。

「なんだか動物園のパンダにでもなったような気分なのですもの。志乃武さんは平気なの?」

「ちやほやされるのは嫌いじゃないけど、正直、ここまでくるとうざったいかな」

 彼は姉にだけ聞こえる大きさの声でそう言いながらも、こちらに向けられたカメラのレンズには笑顔を絶やさない。

 日可理は率直な感想を述べた。

「とてもそうは見えませんけれど」

「我慢してるんだよ」

志乃武は年齢にそぐわない、大人びた口調で言った。

「ここに招待されてる人たちの半分は白鷺家の身内じゃないんだからさ。それなりに愛想よくしておかないと、あとで本家の跡取りは挨拶もろくにできないなんてうわさが立ったら、それこそお祖母さまがなんて言うか」

 たしかに、渋る祖母をわざわざ説き伏せて出席したパーティーでそんなことになれば、一緒に彼女を説得してくれた祖父まで怒られることになるだろう。

 ここまで写真攻め挨拶攻めに遭うとわかっていたら、お祖母さまの反対を押してまで出席したりはしなかったのに、と思っているそのそばから、また両親に名前を呼ばれ、日可理はため息をつきたくなった。

「日可理?どこに行くんだい?」

 両親が待っている場所とは逆方向にいきなり歩き出した姉を、驚いて呼びとめる志乃武の声が聞こえたが、日可理はかまわずに顔を半分だけ振り向くと、言った。

「お手洗いですわ。おかまいなく」



 一人になると、少しほっとした。

 手洗いに行くというのは無論、宴会場を離れるための口実にすぎない。

 本当はそんなところに何の用もないから、彼女はホテルの建物へ向かうふりをして、庭園を囲む遊歩道に足を踏み入れた。

 木立(こだち)が外界の喧噪(けんそう)をさえぎっているのか、小路(こみち)の中はとても静かで、ここが東京であるということを忘れてしまいそうなほどだった。


 お父さまたちのパーティーに連れて行ってもらうのは初めてだから、楽しみにしていたのだけれど……まさか一時間も経たないうちに帰りたくなってしまうなんて。


 日可理は思わずため息をついた。


 お祖母さまのおっしゃるとおり、わたくしにはまだこういったことは早過ぎたのかもしれないわね。


 そんなことを考えながら飛び石をたどっているうち、小道の先のほうから、鳥たちがやたらにぎやかにさえずっている声が聞こえてきた。

 どうも十羽どころでは済まないような数の鳥たちが集まっているらしいのだが、いったいどんな理由があって、ひとところにそんなにも寄り集まっているのだろうか。

 日可理は興味をそそられ、鳥もパーティーを開くことがあるのかしら、などと子供らしい想像をめぐらせながら、楽しげなおしゃべりの聞こえるほうへ歩を進めた。

 そこは、散歩者のためのささやかな休息所といった感じの場所だった。

 こじゃれた木製のベンチが二つ三つ、人工的な円い池を囲むように置かれていて、陶器でできた花の形の水盤がその池の中央からのびた茎の上に載っていた。

 水は花の中央から小さな噴水となって湧きだし、水盤を満たしたあと、花びらのふちから下の池へとこぼれ落ちるしかけだ。

 池の水があふれないのは、ポンプか何かが水を吸い上げ、水盤へ送っているからなのだろう。

 それだけなら何の変哲もない公園の風景である。


 問題は、その休息所のどこもかしこも鳥でいっぱいだったということだ。


 ほとんどはハトやスズメ、ヒヨドリといったよく見かける地味な野鳥だったが、中には日可理が見たことのない、きれいな色をした鳥もいた。

 なぜこんなところに、こんなにたくさん――?

 その疑問はまもなく氷解した。

 人工池のそばに人影があり、どうやらその人物が鳥寄せをしているらしい。

 日可理のいる位置からは相手の背中しか見えなかったが、背の高さや、タキシードを着ていることから、それが男性だということはわかった。

 タキシードは光の加減で黒にも見える濃紺で、生地も仕立ても見るからによさそうなのに、あろうことか、その両肩には小鳥がひしめきあっていた。

 ところが、それを着ている人物は鳥たちの爪で布がいたむことなど全く頓着(とんちゃく)していない様子で、口笛でさえずりをまねては、鳥たちに菓子くずのようなものを投げ与えている。

 日可理は好奇心にかられ、そろそろと遠巻きに彼の正面へ回ろうとした。


 自分と同じ、披露宴の招待客だろうか。

 それとも、このホテルで催されている、他のイベントの出席者か何かだろうか――


 そんなことを考えながら。

 鳥たちを驚かさないよう、足運びには充分に気を付けたつもりだった。

 が。

 砂利か何かが、彼女の履き物と敷石とのあいだで小さな音を立てた瞬間、その努力は水泡に帰した。

 その鈍い音は、群れの端にいた一羽を驚かしたが、それだけで充分だった。

 一羽が唐突に飛びたつと、それに驚いた鳥たちは連鎖反応を起こしていっせいに飛び立ち、騒々しい羽音と羽風(はかぜ)だけを残して幻のように姿を消してしまった。

 鳥寄せをしていた人物が日可理の気配に気づいてこちらを振り返ったのは、それとほぼ同時だった。


 彼はまだ中学生くらいの少年で、日可理や志乃武ほど華やかではないが、端整で育ちの良さそうな顔立ちに驚きの表情を浮かべて彼女を見ていた。


 日可理は盗み見がばれた恥ずかしさと、鳥たちを驚かせてしまった申し訳なさで、顔が赤くなるのを感じた。

「あっあの……ごめんなさい」

 目を伏せて謝ると、少年はかすかに笑ったようだった。

「どうして謝るの?」

 声変わりを終えた少年の声が、可笑しそうに尋ねる。

 日可理が顔を上げてみると、思った通り彼は笑っていた。それが好意的なものであり、彼は怒ってはいないらしいと感じると、日可理は少しほっとした。

「だって、あんなにたくさん鳥を集めておられたのに……わたくし、邪魔をしてしまいました」

「気にしなくていいよ。呼べばもどってくる」

彼はあっさりそう言い切って、両手についた菓子の粉や、服にまとわりつく羽毛を払い落とした。

 襟元を飾る刺繍(ししゅう)の金糸に光が跳ねる。

「それに、どのみちそろそろお開きにするつもりだったんだ。鳥たちにごちそうしてやるものもなくなったし、俺、じゃなかった、僕もパーティーにもどらないといけないし」

「ご親戚の結婚式か何かにご出席なのですか?」

 日可理の質問に、彼はクスッと笑ってこう答えた。

「きみが出席してるのと同じ披露宴にね、白鷺家のお姫さま」

 日可理が目を細めたのは、彼の青紫のカマーバンドがあざやかすぎたせいだろうか、それとも、彼の笑顔そのもののせいだったろうか。彼女は心臓の拍動が大きくなるのを感じた。

「どうして……わたくしのことをご存知なの?」

 彼は声をあげて快活に笑った。

「今日、あの披露宴に招待されてる客で、きみたち双子のことを知らないヤツなんかいないさ。息抜きに来たんだろう?人気者も楽じゃないよな。ま、ごゆっくり」

 彼は右手を左胸に当て、少々道化た仕草で深々と一礼してから、笑って手を振り、行ってしまった。


 何だか不思議な人……。


 日可理は彼の背中を笑って見送り、その姿が木立の向こうに消えてしまってから、相手の名前を訊かなかったことにようやく気づいた。

 誰かの名前を訊き忘れたことで心の底から後悔するなど、生まれて初めてのことだ。

 彼女はその場にかがみ込むと、地面に落ちている菓子くずの残りをついばみに戻ってきたハトたちに尋ねてみた。

「あなたたち、さっきのかたのお名前を知っていて?」

 が、鳥が人語を解したり、ましてや返事などするはずもない。

 一羽だけ、おもむろに首をもたげ、いかにも「さあ?」というように小首をかしげてみせたことを除き、彼らは食事に精を出すばかりで、彼女の質問はついに無視されてしまったのだった。

 日可理は苦笑して姿勢を元に戻すと、少し早いけれど散歩を切り上げ、宴席に戻ることにした。

 本意ではないけれど、あまり長く座をはずして両親から怒られてもつまらない。

 それより何より、パーティーにもどれば、さっきの少年にもう一度会えるかもしれない。

 なぜこんなに興味を引きつけられるのかわからない。ただ、もっといろいろ話をしてみたいと思える相手に彼女は初めて出会った気がした。



「日可理!」

 広いパーティー会場にもどってまもなく、彼女は名前を呼ばれた。

 声の聞こえたほうを振り返ると、見慣れたドレススーツ姿の母が、怒ったような安堵したような複雑な表情で、足早にこちらへ向かってくるところだった。

「いったいどこへ行っていたの?」

母が言った。

「お手洗いにいないから、ずいぶん探したのよ」

「ごめんなさい、お母さま」

日可理は素直に謝った。

「ちょっとお散歩していたの」

 母は頬に片手を当て、ため息をついた。

「困った人ね……まあでも、今はそんなこと、どうでもいいわ。あなたにもご挨拶しておいてほしい人がいるの。いらっしゃいな」

 日可理は母に手を引かれて歩きながら、尋ねた。

「どなたなの?」

「紺野家のご長男よ」

「紺野?……貴泰(たかやす)おじさまの?」

 青森の屋敷で何度か挨拶したことのある紺野家の当主の名を日可理が口にすると、母はうなずいた。

「ええ、竜介さまとおっしゃるの。お年は、この春、高校に進まれたばかりだから……あなたたちより五つくらい上かしらね。ああ、ほら。貴泰おじさまの隣にいる、あのかたよ」

 しかし、その言葉の後半部分は、日可理の耳をほとんど素通りしていた。

 彼女の母が指さしたその少年は、黒にも見える濃紺のタキシードと、目にあざやかな青紫のカマーバンドを身に着けていた――襟に、金糸の刺繍をひらめかせて。

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