2023年8月9日水曜日

紅蓮の禁呪第79話「壊れた鏡・五」

  紅子がガラスの割れる音に気づいて何事かと脱衣所に駆けつけたとき、日可理は身体にバスタオル一枚を巻いただけの状態で床に座り込んでいた。

 壁面を覆う鏡のうち一枚が砕け、彼女の傍には壊れたドライヤーが一つ。

 紅子は小さく悲鳴をあげた。


「日可理さん!?」


 慌てて駆け寄ろうとして、床に散らばる鏡の破片に気づく。裸足では近づけない。

 紅子は急いで棚からバスタオルを取ると、破片の上に広げて日可理のそばまで行った。

 足の下でガラスが割れきしむ音がしたが、上質な厚手のタオルが彼女の足を守ってくれた。

「日可理さん、大丈夫!?」

 むき出しの白い肩に紅子がバスローブをかけてやると、日可理はぴくりと震えて顔を上げた。

「……あ……」

 涙でぬれた顔。放心したようなうつろな目が、紅子を映す。

「べに……わた……し……」

 血の気のない唇が動き、何かを伝えようとする。

 だが、それは声にならず、ただ吐息としてこぼれ落ちていく。

 その細い息を吐ききったとき。

 日可理の肩が、大きくぐらりと傾いだ。

「あっ、ちょっ、しっかりして!」

 破片の上に倒れないよう、紅子は必死に彼女を支えながら、呼び続けた。

 だが――

 それきり、日可理は意識を失った。


 その後の、紅子の記憶は混沌としている。

 かろうじて覚えているのは、大声で助けを呼んだことと、志乃武を始め、竜介、鷹彦、そしてホテル側が呼んだ救急隊員たちから、言葉は多少違えど同じ質問を何度も受けたこと。

 それに対して、何度も同じ返答をせざるをえなかったこと。


 いったい何があったんですか?

 わかりません。

 悲鳴と、ガラスが割れる音が聞こえたので、驚いて来てみたら、日可理さんが倒れていたんです――


 今、紅子はホテルの中にあるレストランの、広い庭を見渡せるテラス席に座っている。

 明るい日差し、食器の触れ合う音、談笑しざわめく声。

 目の前のテーブルには洋風の朝食メニューが並び、その向こうでは、竜介と鷹彦の二人が食事にとりかかっている。


 志乃武はいない。


 日可理に付き添って病院へ行っているのだ。

 志乃武と日可理を病院へ送り出したあと、三人はホテルの従業員に白鷺家御用達のエグゼクティブスイートに案内された。

 そこには志乃武の式鬼、昼顔と夜顔が待っていて、白鷺邸に置きっぱなしになっていた三人の荷物がその足元にあった。


「志乃武さまからのご指示で、皆様の荷物をお持ちしました」


 昼顔と夜顔が言ったとき、紅子の脳裏を「どうやって?」という疑問がよぎった。

 竜介と鷹彦もきっと同じことを思っていたに違いないが、目の前の人ならざる者たちには簡単な礼以外、誰も何も言わなかった。

 紅子はとにかくバスローブからちゃんとした服装に着替えたかったし、竜介と鷹彦は徹夜疲れ(と竜介は空腹も)で細かいことはどうでもいいという気分だったのだ。

 紅子のカバンだけ、表面が少し焦げて、いぶしたような匂いがついていた。

 式鬼たちによれば、クローゼットの中に入れていたおかげで無事だったとのことで、部屋と一緒にまる焦げになっていなかっただけでも幸運といえた。

 式鬼たちは、三人から荷物が取りこぼしなくすべてあるという確認をとると、

「では、これにて失礼いたします」

 という言葉を残して、文字通り消えたのだった。

 そうして、今に至る。

「早く食べないと冷めるよ」

 料理になかなか手を付けようとしない紅子を見かねたのか、竜介が言った。

「食べないなら、俺っちがもらっていい?」

 鷹彦はいつもの軽口をたたきながら、車内で二人前はあったサンドイッチを完食したとは思えない勢いで料理を平らげている。

 だが、二人とも言葉や表情がどことなく暗いのは、疲労のせいだけではないだろう。

 紅子は二人の言葉に急かされるようにして、ようやく食事に手を付け始めた。

 今日はこのあと、日のあるうちに紺野家へ移動する予定だ。

 今ここで食べておかないと、おそらく向こうへ到着するまで食事をする時間はない。

 わかっていても日可理のことが気がかりで、彼女の食事は捗らなかった。

 単に彼女の体調が心配だというだけではない。

 日可理は手に持っていたドライヤーで鏡を叩き割ったらしい――そこまでは脱衣室の状態を見れば容易に想像がつく。


 しかし、なぜそんなことをしたのだろう?


 意識を失うほどに彼女を動揺させるような物がそこに映っていたとでもいうのだろうか?

 ――わからない。

 答えを知っているのは、日可理だけ。

 紅子は密かにため息をつくと、考えるだけ無駄な疑問を頭から追い払った。

 日可理が意識を取り戻せば、おのずと答えは明らかになるはずだ。

 そう思って、彼女が料理を食べるスピードを上げてほどなく、彼らのテーブルの上に人影が落ちた。

 視線を上げると、そこにいたのは志乃武だった。彼はにこやかに微笑んで、言った。


「ただいま戻りました」


「日可理さんは?」

 三人が一斉に尋ねると、志乃武は空いていた椅子に腰を下ろしながら、

「目を覚ましましたよ」

 と答えた。

 片手を上げてウエイターを呼び、自分も朝食を注文する。

「医者の見立てでは、疲労によるものだろうとのことで、今日一日、念のため様子を見て、何もなければ明日退院できるそうです」

 紅子は庭に差し込む陽光が突如として一段明るくなったような気がした。

「そばについてなくていいのかい?」

 竜介が尋ねると、志乃武はうなずいて、

「容態は落ち着いていますし、何より日可理自身が、皆さんを空港まで送るようにと言うので。代わりに昼顔と夜顔を置いてきました」

 と答えた。それから紅子に向き直り、

「日可理が、紅子さんに謝っておいてくれと言っていました。『びっくりさせて申し訳ない』と。黒珠との闘いがかなりショックだったようで、鏡に写った自分の影にパニックになってしまったのだそうです」

 そう言って頭を下げる志乃武を、紅子は慌てて両手を振って制した。

「そんな、謝ることなんて何もないです!日可理さんにお大事にって伝えてください」

 小さい頃から父親を師範として武術に親しんできた自分でさえ、初めて黒珠の(人の形さえしていない)化物と対峙したあとは、しばらく悪夢にうなされたのだ。

 深窓の令嬢として育ち、アドレナリンを大量放出する習い事とはおよそ無縁の人生を歩んできた日可理が、生まれて初めて命のやり取りを、それも(形は人だが)人外の化物とした、その恐怖は察するにあまりある。

「ありがとう。伝えておきますよ」

 志乃武が微笑んでそう言ったとき、ちょうどウェイターが彼の分の朝食を運んできた。

 志乃武が食事を始めるのをきっかけに、紅子も自分の皿を空にするべく食事を再開したのだが、日可理という気がかりがなくなったせいだろう、さっきまで砂を噛むようだった料理が俄然おいしく感じられるようになっていたのは驚きだった。

 先に食べ終わって食後のコーヒーを飲んでいた竜介と鷹彦も、それまでの義務的な食べ方とは違い、見るからに食事を楽しんでいる紅子を見て、ほっとした様子で目を見合わせた。



 食事のあと、志乃武が運転する車は紅子たち三人を乗せ、ホテルからほど近い小規模飛行場へ向かった。

 彼らが到着したとき、そこには見慣れたVTOL機がすでに準備万端、彼らの搭乗を待っていた。

 飛行場は違うが、パイロットは二日前と同じ、虎光である。

 志乃武は駐車場に車を停めた後、紅子たち三人と一緒にヘリポートへやってきて虎光にあいさつをし、四人に道中ご無事でと言ってから、日可理が待つ病院へともどって行った。


「東北旅行はどうだった?」


 志乃武に兄たちを送ってきてくれた礼を言ってを見送った後、コクピットの虎光は機内に乗り込んだ三人に、スピーカー越しに冗談めかして尋ねたが、長兄からの返事は、

「悪い、その話はうちに着いてから」

 だった。

 彼はあくびを噛み殺しているらしい眠そうな声で

「何かあったら起こしてくれ」

 すると鷹彦も兄にならうように、

「俺っちも。もう眠くて死にそう」

「了解。なかなか大変だったみたいだな」

 虎光はそう言って苦笑してから、

「紅子ちゃんは?」

 と尋ねた。

「あ、あたしも寝ます」

 紅子は竜介や鷹彦と違って徹夜というわけではなかったし、今朝の日可理の一件で神経が高ぶっていたせいもあって、さほど眠気は感じなかったのだが、一人だけ起きていると言うのも何なので、そう答えた。

「じゃあ僕は異変がない限り黙っておくよ」

 続けて虎光は、東北に三人を送るときと同じように全員にシートベルトを締めるように言って、離陸を宣言した。

「そっちで何かあったときのために、キャビン側のマイクのスイッチは入れたままにしておくから」

 だが、虎光の言葉に「わかりました」と答えたのは、紅子だけだった。

 竜介と鷹彦は、ようやく訪れた徹夜の疲れを解消する機会を逃すまいとするかのように、すでにぐっすり寝入っていた。



 白鷺家のある東北から紺野家のある中央高地までの道中は、東京から東北までとは真逆で、拍子抜けするほど平穏だった。

 紅子にとって何より僥倖だったのは、東京から東北へ向かう機内でさんざん軽口をたたいて彼女をうざがらせた鷹彦が、おしゃべりの一つもすることなく眠りに落ちたことだ。

 が、東京を発ってから、記憶している限り初めてぽっかりできた一人の時間を、紅子は少々もてあましてもいた。

 窓の外はといえば、雲と青空ばかり。

 手荷物の中にある参考書――休学前、担任教師がくれた餞別――を思い出して、殊勝にも開いてみるものの、頭に入るはずもなく。

 同乗者二人の規則正しい寝息と、蜂の羽音のような機体のハミング音を聞くともなく聞きながら、参考書の英文を機械的に目で追っているうち、彼女もまた、いつしかうとうとと眠ってしまったのだった。

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