紅子が不本意ながら竜介の手を借りて冷たい水からようやく出たとき、庭先での騒ぎを聞いたのか、寺坊から人が出てきた。
それは灰青色の作務衣を着た初老の男で、
「いったいなんの騒ぎだ?」
と声をかけてきた。
竜介は振り返ると、
「師匠」
とその老人を呼んだ。
「落ちたんですよ、そこの川に」
「ほお、お前さんがか。珍しいこともあるもんだ」
「じゃなくて、あんたのお孫さんがです」
竜介から目で示されて、男は紅子のほうを見た。
あんたの孫――ということは、この人が、あたしのおじいさん?
紅子は濡れた衣服が肌に貼り付く冷たさと不快さからへの字に曲げていた口をなんとか笑顔に変えようと努力しつつ、こんにちは、と挨拶しようとした。
が、「こん」と言いかけたところで、老人は「ああ、いい、いい」と片手を挙げて彼女をさえぎった。
「ひとまず挨拶はあとにして、うちに入りなさい。風邪を引く前になんとかせんと」
彼はそう言って紅子たちを寺坊の中へ招き入れると、まっすぐ風呂場へ案内した。
風呂場の脱衣室には小さなドラム式の乾燥機付き全自動洗濯機があり、見るからに真新しく、ピカピカだった。
それを見た竜介が尋ねた。
「あれ?いつ買い換えたんです?」
「つい先月な」
と、泰蔵。
「買い換えてよかったよ。さっそく役に立つときが来た」
そう言って、泰蔵は紅子に洗濯機の使い方を教え、タオルの場所や風呂場のスイッチ類の使い方を教えてから、竜介とともに脱衣室を出た。
「じゃあ、ごゆっくり。わしらは縁側におるから」
と、言い残して。
「あの子はそのう、ちょっと鈍いのかね。運動やなんかが」
泰蔵は濡れ縁に腰掛けて煎茶を湯呑に注ぎながら尋ねた。
「運動神経は悪くないですよ」
竜介は湯呑を受け取ると、一口茶をすすった。
「何か考え事をしていたんでしょう」
「考え事?」
竜介は英梨から菊を預かって、ここに来る前、霊園に立ち寄ったことを話した。
「たぶん、墓誌を見て……」
彼が自分の額に人差し指を当て、ピンと弾いて見せると、泰蔵は眉を上げた。
「それだけで気づいたんだとしたら、頭のいい子だな」
「学校の成績は中くらいですけどね」
竜介は苦笑した。
「カンのいい子ですよ。良すぎて扱いづらいくらいだ」
泰蔵はふうむ、と鼻を鳴らし、あごをなでた。
「ま、英梨さんのおかげで一つ説明の手間が省けたと考えるべきか……」
「どうですかね。あの年頃の子は、ムダに潔癖だから」
その言葉に同意する代わりに、泰蔵はしばらく横目で竜介の顔を眺めてから、ふふん、と鼻で笑う。
竜介は居心地悪そうに
「何です?」
と訊いたが、
「別に」
泰蔵はとぼけた様子でそう答えると、
「ところで、黄根の御仁は、まだ見つからんようだな」
と話をそらしてしまった。
一方。
水気たっぷりの重い衣類をかたっぱしから洗濯機に放り込んだ紅子は、風呂場で頭から熱いシャワーを浴び、ようやく人心地ついていた。
棚に置いてあったシャンプーを勝手に借りて髪を洗うあいだ、浴槽に湯を張る。
熱い湯に身体を浸すと、もはやたいていのことはどうでもいいような気がした。
泰蔵には訊きたいことがいろいろあるけれど、今はとりあえずここを動きたくない。
冷え切りこわばっていた全身の血流がよみがえり、文字通り生き返った気分で彼女が浴室を出る頃には、洗濯機の中の服もすっかり乾いていた。
紅子は上機嫌で鼻歌など歌いながら服を着たが、ヘアドライヤーで髪を乾かそうとして洗面台の鏡を覗き込んだとき、ふと日可理のことを思い出して気持ちが沈むのを覚えた。
壊れたヘアドライヤーと、粉々に割れた鏡。
あのとき――
日可理はいったい鏡の中に何を見たというのだろう。
ドライヤーを投げつけて、鏡を割ってしまうほど、一体、何に驚いたというのだろう。
あるいは、何に――おびえたのだろう。
今、紅子が見ている鏡の中の世界は、こちらと左右が逆である他は寸分違わぬ同じものだ。
鏡の中の紅子もまた、こちら側の紅子と同じように、イライラした手つきで長い髪を乾かしている。
まるで、あなたを裏切る余地など私にあるはずがない、と言わんばかりに。
しかし、日可理はそんなふうに従順であるべき鏡面の向こうに、「何か」を見、そして意識を失ったのだ。
彼女は今、どうしているだろう、と紅子は思った。
特に何ごともなく、元の、深窓の令嬢然とした、静かな日可理に戻っているといいのだけれど――
身支度を終えて風呂場をあとにしたものの、紅子は竜介たちの居場所が分からず、にわかに迷子になっていた。
と、人の話し声が聞こえたような気がして、彼女は歩き回っていた足を止め、耳を澄ます。
「――そうか、白鷺の坊が、そんなことをな……」
泰蔵の声だ。
「俺は最初、無理だと思ったんです。力のことがあるし……」
と、今度は竜介の声。
紅子は声の聞こえる方へ近付いた。
なんとなく、会話をさえぎるべきではないような気がして、足音をしのばせる。
廊下を曲がると、庭に面した濡れ縁があり、泰蔵と竜介が並んで腰をおろしているのが見えた。
紅子は彼らに声をかけようとしたが、そのとき、竜介が再び口を開いた。
「でも、黄根さんの力を借りれば……」
「封じることは、そう難しくなかろうな。ま、あの子が望めば、の話だが」
泰蔵が言う。
紅子は、心臓が、ドキン、と大きく跳ねるのを感じた。
何の話をしてるの。
「あの子」って、あたしのこと?
「望まないわけないでしょう」
竜介が言った。
「平凡に、平穏に、という八千代おばさんの遺志に沿うこともできる。黒珠を封じたあと、以前と同じ生活に戻りたいと思うなら、力なんか邪魔でしかないんだ。それなら、いっそのこと力を封じて、俺たちとの縁も切っちまったほうがいいに決まって」
「そんなの、あたしはイヤだからね!!」
紅子は成り行きとはいえ自分が立ち聞きしていたことも忘れて、気がつくと衝動的に竜介の言葉をさえぎっていた。
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