2023年8月4日金曜日

紅蓮の禁呪25話「火炎の主・二」

  竜介はとっさに後ろへ跳び退いたが、炎は形を変え、赤い灼熱の矢となって躍りかかってきた。

 まるで生き物のような動き。

 彼はあわてて雷を呼び、炎を切り払う。

 しかし、全ての炎を払いきることはできなかった。

 左腕のすぐ側を、小さな火矢がかすめたと思った、次の瞬間。

 焼けた火箸を押しつけられたような激痛が走った。

「つあっ!!」

 見れば、大きな水疱ができている。

 直撃を受けていたら、きわめて重い火傷を負うことになっただろう。

 彼の背中を、冷たい汗が伝い落ちた。

 炎の中の少女は、相手が多少なりともダメージを被ったことがわかっているのか、さっきまで無表情だったその唇に今ははっきりと微笑を浮かべている。

 長い髪が深紅の炎の中で風に解け、黒い炎のように渦を巻く。

 だが、その毛先にも、衣服にも、火が燃え移ることはない。

 炎の舌がむきだしの皮膚を撫でても、彼女は火傷一つ負わない。

 その唇からもれ聞こえてくる「歌」――韻律を帯びていなければ、獣の呻きか、うなり声としか聞こえないような――が、猛り狂う火炎を、彼女の忠実な下僕にしているのだ。

 おそらく、生命の危機にさらされた衝撃で、彼女の祖母、八千代のかけた術が破れ、「力」が目を醒ましたのだろう。

 が、その強大さは、竜介の予想をはるかに上回っていた。

 東京まで来たかいがあった――そう思う。

 しかし、喜んでばかりいられない。

 紅子の双眸に、自我の光が見えない。

 彼女の自意識は失われ、「力」だけが防衛本能のままに暴走しているのだ。

 かなり危険な状態である。

 炎は彼女を傷つけない。

 けれど、強すぎる「力」は確実に彼女の肉体を崩壊させる。

 実際、その身体には既に、剃刀で浅く切ったような小さな傷が無数に口を開け始めていた。


 一刻も早く紅子をとめなければ――だが、どうやって?


 意識を失わせるにせよ、正気に戻すにせよ、紅子をとめるということは、彼女を取り巻く火がその制御から解放され、彼女を丸焼きにする自由を得るということでもある。

 しかし、これだけの火を消すとなると……

 竜介はシャツの胸ポケットに触れた。東京に来る直前、十年来の友人から借りた護符がそこに入っている。一色家に結界を張るとき使った護符も、その友人から預かったものだった。

 うまくいくだろうか?

 だが、状況は彼に考える時間を与えなかった。

 紅子の唇が紡ぐ「歌」が高まり、炎が爆発的に勢いを増したのだ。


 グウォォォォ――!!


 彼女は、黒雲に覆われた天に向かって吠えた。

 それは、まさしく獣の咆哮だった。炎がそれに応える。

 この世のすべてを焼き尽くそうとするかのように。

 今の彼女にとっては、周囲のすべてが「敵」なのだ。

 そしてその中には、竜介も含まれていた。巨大な火柱が生き物のようにうねりながら、彼に襲いかかる。

 竜介は舌打ちすると、いちかばちかとばかりに炎に向かって護符を投げ、叫んだ。

「火を消せ、大水蛟(おおみずち)!!」

 次の瞬間、嵐が彼の味方についた。

 吹き荒れる風雨は護符を巻き込み竜巻となり、襲いかかる炎をはねかえした。

 炎と竜巻。二頭の大蛇がぶつかりあう。

 雨は激しさを増し、今や滝のようだ。これもまた、護符の霊験だったのだろうか?

 冷たい雨に頭からつま先までびしょ濡れになりながら、竜介はひたすら護符に意識を集中させた。

 彼を包む青い光輝は今やまばゆいほどで、その周りをいくつもの黄金の雷が飛びかう。

 拮抗していた二つの力が、竜介の優勢に傾き始めた。

「これで、どうだ!!」

 竜介が叫ぶと、轟音とともに、金色の稲光が、大蛇の形をした炎を切り払った。次いで竜巻が、紅子を取り囲む炎の壁を蹴散らす。

 そのとき聞こえた悲鳴は、紅子が操る炎の大蛇のものか、それとも彼女自身のものか――

 紅子の意識は、己が操る炎とほぼ一体化していたのだろう。

 己の分身に雷を受けた衝撃で彼女は意識を失い、その身体は、辺りに立ちこめる水蒸気と煙の中へ、ゆっくりとくずおれていったのだった。


 暴風雨はうそのようになりをひそめた。

 あれほど濃厚だった瘴気は跡形もなく霧散し、分厚く空を覆っていた暗雲も見る間に切れ切れになって、午後の日差しが戻り始める。

 穏やかな風が、きなくさい煙と水蒸気を吹き払い、黒焦げの床に倒れ伏す少女の細い身体を日差しのもとにさらけだしていた。

 竜介はひらりと手元に戻ってきた護符を元通り胸ポケットにしまうと、慎重に紅子に近づいた。

 今の戦いで彼もまた力をほぼ使い果たしていた。万一、彼女の意識が戻ってまた暴走が始まったら、今度こそもうおしまいだ。

 だが、その心配は杞憂に終わった。

 紅子は完全に意識を失っていた。小さく上下する胸だけが、彼女の命が無事であることを示している。

 竜介はその傍らに膝をつき、傷だらけの少女の身体を自分の上着でくるんだ。触れてみると、それは驚くほど冷え切っていた。頬に血の気はなく、眉を固くひそめたその顔が痛々しい。

 病院に運ぶ前に、この傷だけでも何とかしてやりたいな……。

 竜介はそう思い、紅子の身体をそっと抱き寄せた。

 青い光輝が、二人を包み込む。

 傷が消えたあとも、少しでも体温が戻るまで、彼はじっとそのままでいた。

 おかげで、ようやく紅子の身体にわずかながらぬくもりがもどってきたときには、本当に力を使い果たし、疲労しきっていた。

 しかし、身体を離してのぞき込んだ彼女の頬に赤みがさし、苦しげだった眉間がゆるんでいるのを認めると、竜介は我知らず微笑していた。

 ふーっ、と、安堵と疲労の混じり合ったため息をつくと同時に、彼は左腕がひどく痛むことに気づいた。

 そういえば、俺も火傷していたんだった。

 さっき見たときは水疱ができているだけだったが、今やそれは破れて皮膚がはがれ、ひどいありさまになっていた。ほかにも、よく見ると知らないうちに身体のあちこちに焼け焦げができている。そのことに気がついたとたん、すべての傷が一斉に痛みを訴え始めた。


 自分のケガを一緒に治すのをすっかり忘れていたとは。


 竜介は苦痛と己の愚かさに思わず顔をしかめたが、力を使い切ってしまった以上、今はなすすべもない。

 痛みをこらえながら左腕で紅子の上体を支えると、彼は空いている右手で、護符を入れているのと同じ胸ポケットから携帯電話を取り出した。

 黒珠の瘴気が消え去った今、まもなく階下の人々も意識をとりもどすだろう。救急車だの警察だのでごたごたする前に、ここはさっさと離れるに限る。

「よかった」

開いた携帯の液晶画面が正常に動作するのを確認すると、竜介は胸をなで下ろした。

「水に濡らしちまったから、もうだめかと思ったぜ」

 そんなことを一人つぶやきながら、彼は番号を選んで電話をかけた。

 相手は、三度目の呼び出し音で出た。

「虎光か?俺だ」

彼は相手の返事をしばし待ってから、続けた。

「車を一台、出して欲しいんだ。社用車じゃない。紅子ちゃんの学校まで……そう、目立たないように、裏門に。それと、病院の手配も頼む。事情は会ってから話すよ。何分で来れる?

 うん……わかった。じゃあ後で」

 竜介は電話を切ると、再び、ふぅっ、と長いため息を一つついてから、腕の痛みをこらえながら紅子を抱えて立ち上がった。

 空が明るくなったおかげで、周囲の壮絶なありさまがいやでも目に飛び込んでくる。

 天井と壁はもとより吹き飛び、黒こげのがれきばかりが散らばる中を、彼は足元に気を配りながら歩いた。ここがかつて、生徒が集まる教室だったという名残などどこにも見当たらない。

 紅子をここに連れてきたはずの化け物の姿もない。

 おそらく、紅子の力が引き起こした爆発で粉みじんになったか、相当のダメージを受けて命からがら逃げ出したかのどちらかだろう。

 竜介は腕の中で眠る少女を改めて見下ろした。

 ついさっき、確かに目の当たりにした凄まじい力さえ何かの間違いだったのではと疑ってしまうほど、あどけない寝顔。

 彼の腕に預けられた体重も、彼女が背負わねばならないとてつもない重荷に比べれば、痛ましいほどに軽い。


 この世界の命運を握る、たった一人の「封印の鍵」。


 そして、その役目を果たすに充分な力が、今、ようやく解放されたのだ――少女の、もろい肉体の中で。

 護らなければならない。俺の命に代えても。

 竜介は己の使命の重さに今、改めて慄然としていた。


 校舎内の人々は幸か不幸かいまだ意識を失ったままだった。

 竜介は誰にも見とがめられることなく校舎を抜け出すと、辺りをうかがいながら慎重に裏門へ向かった。

 最寄りの校舎から裏門までは駐車場があり、車が何台か止まっているほかは人影もなく、門前の守衛室も空っぽだった。

 門の外には、彼がよく見知った車がエンジンをかけて待っているのが見える。なかなかいいタイミングだ。

 竜介は車のあいだを縫うようにして門に近づき、そこをすりぬけようとした。

 と、そのとき。

 一つの影が、彼の前に飛び出してきた。

 意識を取り戻している者がいたということだけでも驚きだったが、それが誰であるかがわかると、彼はさらに驚いた。

「君は……!」

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