2023年8月13日日曜日

紅蓮の禁呪第116話「心の迷宮・十」

 紅子は自室に戻る途中、約束通り英莉に風呂から出たことを伝えるために台所に寄った。

「なかなか上がってこないから、様子を見に行こうかと思っていたところよ」

 滝口と夕飯の支度をしていた英莉はそう言って作業の手を止めると、エプロンで手を拭いながら紅子のそばにやってきた。
 遅くなったことを謝ると、
「何かあったの?湯あたりしてない?」
 大丈夫です、と紅子はかぶりを振った。
「ちょうど……竜介、さんに会ったので、泰蔵おじいさんのところへ移る日取りの話とかしてて遅くなったんです」
 竜介をさん付けで呼ぶことには、まだ慣れない。
 英莉は、そうだったの、と安堵の笑みを浮かべてから、少しためらいがちにこう尋ねた。

「変なことを訊くけど……あの子、お酒臭くなかった?」

 紅子が眉をひそめてうなずくと、英莉は苦笑した。
「ごめんなさいね、不愉快だったでしょ?」
「気にしてません」
 英莉と滝口におやすみなさいを言って、紅子は台所を後にした。
 気にしてないなんて嘘だ。さっきからむかっ腹が立って仕方ない。
 夢は、結局ただの夢だったのだ。

 現実の竜介と夢で見た彼は別人だ。

 でも――
 と、頭の中にいるもう一人の自分は必死に彼を弁護する。
 お酒を飲まずにいられないような理由が、何かあったのかも――
 浴室の前でのことを改めて思い返す。
 あんな夢を見た直後だったから、竜介のことを意識しすぎて自分の態度がおかしくないかどうかということにばかり気を取られていたが、そういえば、彼もいつもより口数が少なくて、どこかぎこちない感じだったような――?
 そんなことを考えながら廊下を歩いて行くと、紅子が使っている客間の襖にもたれる人影が見えた。
 校名の入ったジャージ。

 涼音だ。

 風呂で充分温まっていたはずの身体が、つま先からすうっと冷えていくのを紅子は感じた。
 英莉や竜介から、あたしの部屋には近づくなと言われているはずなのに、いったい何の用だろう。
 凉音は部屋のはるか手前で立ち止まったままの紅子の姿を認めると、襖にもたれていた身体を起こした。
「オマエに訊きたいことがあるんだ」
 廊下の向こうから、涼音が言った。
 相変わらずお前呼ばわりかと思いつつ紅子が黙っていると、彼女はしばしためらってから、こう続けた。

「……竜介のこと、どう思ってる?」

 唐突で不躾な質問。
 そもそも機嫌がよくなかったところへ、心の最奥部に土足で踏み込むようなことを訊かれ、紅子は精神的不快指数が跳ね上がるのを感じた。

「あたしが竜介のことをどう思っていようと、あんたには関係ないでしょ」

 その時の紅子に可能な限り穏便な返答だったのだが、凉音は引き下がらなかった。
「関係なくないから訊いてるんだけど。好きなの、どうなの?」
「答えたくない」
 ぴしゃりと拒絶すると、涼音の顔が険しくなり、紅子は思わず身構える。
 だが、彼女はこちらへ近づいては来なかった。
「わかった。もういい」
涼音はくるりときびすを返すと、肩越しに抑揚のない声で言った。

「さよなら」

 * * *

 涼音は自室に戻ると、廊下に人の気配がないことを確かめ、襖を閉めた。
 次いで、勉強机の上の充電器に立てかけてあった携帯電話を取り上げる。
 相手はワンコールで出た。
「さっきの件だけど」
 涼音は言った。

「明日、学校が終わってから、やるよ」

 相手の返事を待たず、それだけを言って電話を切る。
 充電器の隣には、B5サイズの白い封筒。
 あの奇妙な黒い少女から受け取ったものだ。
 帰宅直後に思いがけず目撃した光景が、凉音の脳裏によみがえる。
 ひとけのない廊下で見つめ合う、竜介と紅子。

 あんな目で、竜介が誰かを見るなんて――

 涼音は何かを振り切ろうとするかのように頭を振ると、封筒を手早く通学鞄に入れた。
 その先に待つのが、戻れない道だと知らずに。

 * * *

 翌日。
 泰蔵の家までは、山越えではなく車で行くことになった。理由は簡単、紅子のスーツケースを運ぶ必要があるからだ。
 紺野家の結界を一旦出ることになるので、午後の早い時間に移動することが決まった。
 同行するのは竜介と鷹彦で、運転は鷹彦。
 昼食後、英莉と虎光に手伝ってもらって荷物を玄関先まで運び出すと、待っていた竜介と鷹彦がそれらを前庭に停めた車――虎光の四躯――のトランクに詰めていく。
 なんだか懐かしい光景だ。
 竜介が笑って言った。

「東京を出発したときを思い出すね」

 車は屋敷を出ると、一旦市街地に出た。
 車窓を流れる景色を眺めながら、紅子は涼音の下校前に紺野家の屋敷から離れることができてよかった、と思った。顔を合わせてまたトラブルになるのは御免だ。
 ただ、昨夕の態度や、なぜあんな質問をしたのかは、あの後もずっと気になっていた。
 誰にも相談できない話だから、余計に頭にひっかかる。

 ひっかかることといえば、もう一つ。

 隣に座っている竜介は、運転席の鷹彦と他愛のない冗談を言い合ったりして笑っている。
 昨夕、酒の匂いをさせていたことなどすっかり忘れたかのようだ。
 些細なことなのに気になるのは、それがやっぱり竜介らしからぬ行動に思われるからだろう。
 理由を知りたい。
 英莉も酒を飲んだ理由については何も弁解しなかったのは、逆に「彼が飲みたくなるような何かがあった」という証拠では――?

「紅子ちゃん、なんか怒ってる?」

 信号で車を停止させたとき、鷹彦が運転席からこちらを振り返って訊いた。
 紅子がずっと黙ったままなのが気になったらしい。
 隣を見ると、竜介も困ったような笑みでこちらを見ている。
 夢の中で見た、あの表情で。

「怒ってない」

 紅子が窓の外に視線を戻して言うと、竜介の声が追いかけてきた。
「女の子の『怒ってない』は信じるとあとでひどい目に遭うって相場が決まって」

「意識が戻って、これでよかったのかなって考えてたの。それだけだよ」

 彼の言葉を遮るようにして紅子が言うと、車内は一瞬、沈黙に包まれた。
 運転席の鷹彦が身じろぎして、斜め後ろの竜介と何か目配せをする気配。
 ややあって、信号が青に変わり、鷹彦が車を発進させると、それが合図だったように竜介が口を開いた。

「実は、そのことで昨日、黄根さんから連絡があってね。黄珠の場所がわかったんだ」

 紅子は驚いて竜介を振り返った。
「本当!?」
 彼はうなずいた。
「明日、受け取りに行く。移動は昼間にしたいから、帰るのは明後日だな」
 黄珠の場所がわかった。
 目の前が少し明るくなった気がする。
 酒の件はまだ少し気になるけれど、それでも今は素直に、夢の中の竜介の言葉を信じて戻ってきてよかったと、紅子は思ったのだった。
 一方、竜介は朋徳の言葉を思い出していた。

 取りに行くがいい。貴様らにその時間があれば、だが――

 時間なら、まだある。
 誰もがそう信じていた。

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