荒れ狂う炎に焼かれても、独房には何の変化もなかった。
炎が消えると、龍垓の姿も消えていた。
壁も天井も、まるで何事もなかったかのようにしんと冷たく静まりかえり、一筋の煙も、何かが焼けた匂いさえ、残らなかった。
紅子に唯一残ったものといえば、力を爆発させた反動だけだ。
床に転がったまま、もはや指先一つ動かすことさえままならない。
室内を炎で満たしたのに、呼吸が苦しくならないということは、どこかから酸素が供給されているのだろう。
けど、むしろ酸欠で死んだほうがよかった、と頭の片隅で思う。
死ねば、黒珠の者たちの思い通りにならずに済む。
この手で竜介たちに封禁の術をかけるなんて、絶対にしたくない。
天井の青白い幾何学模様が、目を閉じてもまぶたの裏でぐるぐると回り、意識を保つことが難しくなっていく。
悔しい。
みんな、あたしが死んだと思ってるかな。
まだ生きてるのに。ここにいるのに。
誰か、と叫びたかった。
けれど、もうささやくような声にしかならない。
誰か、助けて――
そのとき、彼女の唇からもれた名前は、一つ。
「竜……介……」
それはほぼ無意識だった。
目尻から涙がこぼれた。
胸が苦しい。
こんなときに――こんなところで、ようやく思い知ったなんて。
彼が、夢の中の彼と別人かどうかなんて、どうでもいい。
彼が誰を好きでも、もうかまわない。
ただ、あたしは、竜介のことが――
二人の思いがようやく重なった。
でも、もう遅い。
全部、何もかも。
もう、遅すぎる。たぶん、きっと――
* * *
竜介は、名前を呼ばれた気がして、ハッと目を覚ました。
「今、呼んだか?」
隣でハンドルを握っている虎光に尋ねた。
彼も竜介も、珍しくスーツ姿でネクタイを締めている。
「いいや」
虎光は前を向いたまま、そっけなく答えた。
「夢でも見たんじゃね」
竜介は、そうかもな、と口の中でつぶやくと、フロントガラス越しに外を見た。
雨粒と闘うワイパーの動きがせわしない。
昨夜から降り出した雨は、今や勢いを増し、土砂降りになっていた。
両サイドの車窓が白く曇り、前方の景色しか見えないせいか、身体ではあまり加速を感じない。が、高速道路の案内表示は飛ぶように通り過ぎていく。
そのうちの一つが、竜介に今自分たちがどの辺りにいるのかを教えてくれた。
「悪い。俺、ずいぶん寝てたんだな。次のサービスエリアで代わるよ」
「うん……いや、いいや」
虎光はやや歯切れ悪く兄の申し出を拒んだ。
「俺のほうが慣れてるし。兄貴は無理しないで、寝てていいよ」
腫れ物扱いされている。
とは思うが、虎光のほうが紺野家と東京の間を何度も車で往来しているのは事実だ。
自分が精神的に参っているらしいということも、幾分、自覚があった竜介は、弟に礼を言って再びシートに深く身を預けた。
彼らが今乗っている車は、いつもの虎光の四駆だ。
紅子を泰蔵のところに送るために使ってそのままになっていたのを、今朝、竜介が運転して紺野邸に戻したのである。
昨夜、涼音を迎えに行ったとき、虎光は英莉が所有しているセダンを借りており、今朝の東京行きにも使ってくれてかまわない、と英莉から快諾を得ていたのだが、竜介が身支度を整えるために一旦自宅へ戻る必要があったため、虎光もどうせなら慣れた愛車がいい、ということでこの車での道行となったのだった。
走り出して最初の一時間あまりは、竜介から昨夜のことを報告したり、虎光から涼音のその後の様子や、東京に着いてからの予定などを聞いたりしたところまでは憶えているのだが、そこから先が思い出せないということは、いつの間にか眠ってしまっていたのだろう、と竜介は思った。
きっと、昨夜の眠りが浅かったせいだろう。
目を閉じると、黒珠の王・龍垓や迦陵との生々しい命のやり取りや、小さな異形の魚を日可理に飲まされそうになったときの、喉元を通っていくおぞましい感触などが思い出されて、眠りに落ちては得体のしれない悪夢で目を覚ます、ということを明け方まで繰り返していた。
それが今、雨音とタイヤが水を引きずる音で騒々しい車内で眠れるということは、騒音には、思い出したくないのに反芻してしまう記憶から、意識を逸らす効果があるのかもしれない。
あるいは、すぐ隣に起きて活動している人間がいるという安心感だろうか――
竜介は目を閉じて、徒然にそんな分析をしてみたりしながら、再び眠りが訪れるのを待ってみた。
が、なぜか意識は冴える一方で、出発直前に紺野家の玄関先で待ち構えていた英莉に、深々と謝罪されたことが不意に脳裏に浮かび、苦い気分で目を開ける。
「昨夜のことでも思い出したのか?」
虎光が横目でこちらをうかがいながら尋ねた。
「いや、今朝の」
竜介が言いかけると、虎光は察した様子で、「ああ……」と前を向いたままうなずく。
「苦労するよな、あの人も。ま、こんな奇態な家の後添いに入るんだから、多少は覚悟してただろうけど」
目を赤く泣き腫らした英莉に、竜介は顔を上げてくれ、と頼んだ。
「涼音を甘やかしすぎた俺も同罪だし、あの子も十分怖い思いをしたのを知ってる。だから、涼音のことを責めるつもりはない。もちろん、母さんのことも。むしろ、この本宅に累が及ばなくてよかったと俺は思ってるんだ」
英莉は口を押さえて、こみ上げる嗚咽を飲み込みながら、頭を振った。
「ありがとう。でも、それだけじゃないの。連れ去られた紅子さんが気がかりで、私にできることがなさすぎるのが悔しいの」
腫れた目から涙がこぼれる。
その後は、英莉が一緒に一色家に謝罪に行くと言いだしたため、虎光と二人でどうにか思いとどまらせようと説得した。
そのうち、出勤してきた滝口と斎が
「奥様まで東京に行ってしまったら、誰がこの家を差配するんですか」
と口をそろえたおかげで、英莉もどうにか思いとどまり、竜介たちは出発することができたのだった。
「あの場では兄貴の対応が最善、てか、正直、優しすぎるくらいだと思ったよ」
と、虎光が言った。
「あれってどこまで本心だったんだ?」
「本心って?」
竜介がおうむ返しに尋ねると、虎光は、
「だって、兄貴は……」
と言いかけて口ごもり、「いや、忘れてくれ」と会話を打ち切った。
車内に沈黙が降りる。
車の屋根を叩く雨音、ワイパーの規則正しい動作音、アスファルトを覆う水をタイヤが引きずる音。
フロントガラスの向こうでは、雨にけぶる高速道路の単調な景色が、遠い一点からこちらへ、そして背後へ、あっという間に飛び退っていく。
沈黙を破ったのは、竜介だった。
「うちに黄根さんが来たとき、言われたんだ」
身内に気をつけることだ。
己からは逃れられぬぞ。
「俺は、どっちの警告もまともに聞かなかった。そんな俺に、誰かを責める資格なんかない」
どちらか一つでも聞いていたら、こんな最悪な局面にならずに済んだかもしれない。
身内を疑うことはできなかったとしても、せめて、小賢しい理由をつけて己の心に従うことから逃げさえしなければ――
けれど、自分で自分の心にはめた枷を外せなかった。
外そうとさえ思わなかった。
今日と同じ日が、明日も続くなどと、なぜ無邪気に信じることができたのだろう。
失うことの痛みを、なぜもっと恐れなかったのだろう。
己の中の一欠片にすぎないと思っていた、ほんの小さなピース。
なのに、それがなくなったとたん、心がぼろぼろと崩れ落ちていく。
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