2023年8月11日金曜日

紅蓮の禁呪第95話「月の魔法・二」

  朋徳の失踪から二年後、日奈はその短い生涯を閉じた。

 紅子を出産したあと、それ以前にもまして体調を崩しがちだった彼女は入退院を何度か繰り返しながら、娘の三歳の誕生日を見ることなく、逝ってしまった――


 まるで、ろうそくの炎が少しずつ小さくなり、やがて燃え尽きて消えるように、静かに。


 竜介が会った八千代は、一人娘が亡くなったというのに涙も見せず、一筋のおくれ毛もなく髪を結い上げて喪服に身を包んだその姿は、気丈という言葉だけでは表現できない、張り詰めた糸のような気迫に満ち、一見して「怖そうなおばさん」だったと彼は言った。


「当時、俺は親とうまくいってなくて……師匠に頼んで連れて行ってもらったんだ。久しぶりに玄蔵おじさんに会って話したかったから。でも、おじさんはとても話ができるような状態じゃなかった」


 玄蔵はひどくやつれ、その落胆ぶりは目に余るほどだったようだ。

 家族葬で参列者は多くないとはいえ、誰かが差配せねばならない。

 本来の喪主である彼が使い物にならない以上、そのときの八千代は、一人で葬儀を仕切る以外なかった。

「前に言ったよな、俺はずっと前から君を知ってるって」

 紅子がうなずくと、彼は続けた。


「君と初めて会ったのも、この葬式のときだった」


 死や葬儀の意味など理解できるはずもない二歳の子供にしてみれば、その日は朝から知らない人が家にやってきたり、ごちそうが並んだりと、まるでお祭りのように思えたに違いない。

 そわそわキョロキョロと落ち着かず、気がつくとどこかへ行ってしまう孫娘に手を焼いていたらしい八千代は、泰蔵と弔問に訪れた竜介を見るや、これ幸いと彼に紅子の世話を依頼した。

 まだ小学生だった竜介にとっても、慣れない葬儀に列席して足をしびれさせるよりは、小さな紅子と遊ぶほうがずっと気楽だったし、何より、普段から弟妹の遊び相手になっている彼にとって、それはお安い御用だった。

 最初は人見知りしていた紅子も、一緒に昼食を食べたりするうち、竜介に慣れたようだ。

 出棺の直前、死者と最後の別離を惜しむとき、紅子は彼に抱えられてその場に参列した。

 ふたを取り払われた棺の中の日奈は、美しく化粧を施されて、今にも起き出しそうだった。

 参列者たちの手で、色とりどりの花がその枕頭を飾っていく。

 竜介も目を赤くした八千代から受け取った花を紅子に手渡してやり、棺に入れるよう身振りでうながした。

 幼い彼女はうながされるまま、棺に花を投じると、彼に尋ねた。


「これ、だぁれ?」


 竜介は一瞬、胸が詰まり、返事ができなかった。

 入退院を繰り返していた母親の顔を記憶するには、紅子は幼すぎた。

 その場にいた誰もが彼女の質問を耳にしたのに、誰もがその質問のせいで涙に飲み込まれてしまい、答えてやれる者は一人もいなかった。

 ただすすり泣きだけが静寂を満たす中、どうにかして彼は呼吸を整え、言った。


「この人は、君の……」


 だが、彼もまた、その先に続く言葉を声に出すことはできなかった。

 彼も母親を失ったばかりだったから。



「師匠も俺も、ずっときみのことが気がかりだったんだ。きみの家族はおばあさんと親父さんだけになっちまった。二人に何かあれば、きみは独りだ。だから、本当はもっと早く、きみに会いたかった。でも……」


 八千代が、それをさせなかった。


 日奈の亡骸を荼毘に付した八千代たちが帰宅したのは、午後六時を少し過ぎたくらいだったろうか。

 泰蔵は、留守番をしているうちに紅子と一緒に眠り込んでいた竜介を起こすと、帰り支度をするように言って、八千代にも暇乞いをした。

 冬のことで外はもう暗かったが、泰蔵と竜介は日帰りのつもりだったし、これ以上、魂の抜け殻のような玄蔵を見ているのも辛かったからだ。

 そのときのことである。

「ではまた、一周忌に」

 というようなことを、泰蔵は気丈な女当主に言ったのだが、彼女からの返事は、予期せぬものだった。


「どうかもう、この家にはおいでにならないでください」


 八千代は言った。

 一色家は御珠とそれに連なる家々との交わりを一切絶つ、と。

 紅子には魂縒を受けさせない。

 御珠のことも教えない。

 神女ではなく、普通の娘として育てる。

 彼女はそう宣言したのだった。

 当然のように、口論となった。

 黒珠の封印がいずれ解けることは、それがいつになるかはともかく、八千代の夫である朋徳がかねてより口にしていたことだ。

 彼の未来眼の確かさを他の誰よりも思い知っているはずの八千代が決めたからには、相応の覚悟があってのことだろう。

 しかし、朋徳の見た未来が悪夢に終わらず現実となったとき、真っ先に命を狙われるのは、封印の鍵を握る神女である。

 万一のとき、紅子に何の力もなければ、その命はどうなるか――と、泰蔵は訴えたが、八千代はかたくなに首を振り、


「そのときは、それがこの子の運命だったと諦めるよりほかございません」


 と、断言した。

「また日奈と同じ事を繰り返すのだけはまっぴらです。力に振り回されない、静かな人生を紅子には与えてやりたい。日奈も生前そう願っておりましたし、私も同感です。その結果、たとえ一色の血が途絶えたとしても」

「この世界がどうなってもよい、とおっしゃるか」

 八千代は泰蔵を睨み、声を荒げた。


「そもそも、たった一人の人間にこの世の存続をかけていることが、おかしいのではありませんか」


 それは、紺野・白鷺・黄根の家人たちがかねてより一色家に抱き続けてきた負い目だった。

 泰蔵はもはや何も言い返すことができなかったのだろう。

 竜介を目でうながすと、そのまま無言で玄関へ向かった。

「帰り道、師匠から言われたことがある」


 ――おまえがあの子ともしもまた会うことがあるとしたら、それは黒珠の封印が解かれたときになるだろう。


「俺はそれまで、自分の力を思う通りに操れるようになるのが単純に面白くて鍛錬を積んでた。力を極めたあとのことなんて、考えもしてない。子供だったからな。だけど、あのときの師匠の言葉で、俺が何のために顕化を持って生まれてきたのか、わかった気がしたんだ」

 きみを涼音と同じように傍で見守ることはできなくても、きみの命を救うことはできるかもしれない。

 だから――


「この力を使わずに済めば、それに越したことはない。けど、俺はそのとき初めて、何か……いや、誰かのために強くなりたいと思ったんだ」


 そう話す竜介の目はまっすぐ紅子に注がれていて、彼の言う「誰か」が誰のことかは、訊かなくともわかった。

 彼の言葉に他意はない。

 そう頭では了解しているはずなのに、紅子の心臓は聞き分けなく過敏な反応を示し続ける。

「たとえどこかですれ違っても、きみは俺に気づかない。でも、それでいいと思ってた。黒珠のことがなかったら、きっとこの力を使うことも、きみに再会することもなかっただろう。こんなこと言うと怒られるかもしれないけど、俺は嬉しいんだ。大きくなったきみと、こうしてまた会って、話ができて」

 そう言って、彼は微笑んだ――包み込むように、優しく。

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