2023年8月10日木曜日

紅蓮の禁呪第87話「大失態」

  紺野家の墓は、霊園のやや奥まった場所にあった。

 玉垣(たまがき)に囲まれた立派な墓で、石段を上がった正面に墓石だけでなく五輪塔もある。

 さらにその脇には、黒い御影石で造られたとおぼしき墓誌があり、墓に入っている故人の俗名・命日などが彫られていた。

 竜介が英梨から預かってきた菊を花立に供えているあいだ、紅子はなんとなく墓誌に目をやって、そこに「美弥子」の名前を見つけた。

 そこに彫られた命日によると、美弥子は今から十六年前に亡くなっていた。


 十六年前というと――竜介は九歳くらいだろうか。


 紅子は密かにため息をついた。

 もしも自分の父親が、見知らぬ女性を連れてきて「再婚したい」と言ったら?

 玄蔵のためには歓迎するべきなのだろう。

 けれど、心の底から祝福できるかと言われれば、わからない。

 不安がないといえば嘘になる。


 そんな大きな変化を、今のあたしよりもっと小さなときに経験したんだ……。


 新しい菊を供えた墓に手を合わせ、目を閉じている竜介の横顔は、穏やかだ。

 今の境地に至るまでには、数え切れないほど大小の葛藤があったろう――

 母親がいないという寂しさとは、また違った孤独が。

 そんなことを思っていると、竜介が顔を上げてこちらを振り向き、ばっちり目が合ってしまった。

 紅子は一瞬、目をそらすタイミングを逸して挙動不審に陥りそうになったが、その前に彼は墓前から立ち上がり、からりとした笑顔で言った。


「付き合わせて悪かった。行こうか」


 その笑顔に、紅子はほっとしたような、いたたまれないような、奇妙な気分を味わった。

「うん」

 とできるかぎり明るく返事をしたけれど、かえってわざとらしかったかもしれない。

 しかし、竜介はそんな紅子の内心など気づかぬ様子で、すたすたと歩き出し、紅子はその背中を追った。

 そうだよね。

 竜介にとっては、もう十六年も昔の話、なんだ。きっと……。

 そう思いながら。


 そう、十六年。

 どうしてなんだろう。この数字が気になる。


 竜介の背中を眺めながら、紅子は頭の片隅に引っかかった、小さな思考のもつれをほどこうとした。

 霊園を出てなだらかな坂を登りきると、こじんまりとした寺の本堂と寺坊らしき建物が見えてきた。

 山門は本堂の対面にあって、霊園側から来ると、寺の正面からではなく裏から回ってきたような形になる。

 彼らは本堂前を通ってその奥の寺坊へと向かった。

 ちなみに、霊園と山門から本堂までは石畳になっているが、本堂から寺坊までは、公私の境界をそれとなく示すように、石畳ではなく飛び石になっている。

 その途上には山の水を利用した小川が引かれ、大小の岩で高低をつけた小さな滝が涼し気な音を立てていた。


「やっぱり、昨日の雨で少し水かさが増えてるな」


 流れる水の量を見て竜介が独り言のようにつぶやいた。

「紅子ちゃん、渡るとき気をつけて」

「うん」

 と紅子は上の空で答えた。

 半ば上の空で。

 滝のそばには、来訪者を歓待するかのように笑みを浮かべる小さな観音像と、手すりのない幅一メートルくらいの石橋がある。

 その観音像は、紅子になぜか英梨を思い出させ、それが涼音と、頭の片隅にひっかかっていた十六という数字と結びついて、彼女に一つのひらめきを与えた。

 十六は、紅子の年齢と同じ数字だが、同時に、涼音のそれと同じ。


 十六年前、美弥子が亡くなった年、涼音は生まれた。


 ということは――

 紅子は考えにとらわれたまま、石橋に足を踏み出した。

 竜介は先に向こうへ渡り、立ち止まってこちらを見ている。


 竜介たち兄弟と、涼音との間には血の繋がりがある。


 それが本当だとしたら。

 紅子は紗がかかったように、目の前が一瞬、薄暗くなった気がした。


 彼らの父親、貴泰は、美弥子の存命中から、英梨と不貞を働いていたことになる――


 そのとき、ぐらり、と視界が揺れたのは、精神的ショックからだと紅子は思ったが、違った。

 踏み出した足の下に、地面がなかった。

 竜介が、危ない、とかなんとか叫んでこちらへ手を差し出すのが見えたが、残念ながら間に合わなかった。

 バランスをくずした彼女の身体は、そのまま水の中へ。

 紺野家の秘密を知ったことは、紅子にとって大変な衝撃だったが、それ以上に、尻もちをついた痛みと、晩秋の水の冷たさと、何より、こちらを呆れて見ている竜介の表情に、泣きたい気分をいやというほど味わったのだった。

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