2023年8月10日木曜日

紅蓮の禁呪第82話「紺野家の人々・三」

  あまりに突拍子もない涼音の発言に、紅子が二の句を継げずにいた、そのとき。


「誰と誰の血がつながってないって?」


 どこかで聞いた憶えのある声。

 紅子は涼音とほぼ同時に声のしたほうを振り返ったが、さっきまでたしかに廊下だったはずのそこには、なぜか壁がそびえていた。

 涼音はその壁に向かって驚いたように言った。

「虎兄(とらにい)」

 すると、上のほうからさっきと同じ声が降ってきた。


「うそはよくないなぁ、涼音」


 目の前のそれは壁ではなく、虎光の巨体なのだった。

 その服装は飛行場で別れたときのままで、マシンレーサーのようなブルーグレーのつなぎを着た彼は、一見、灰色の壁のように見えた。

 やんわりとたしなめる次兄に、涼音はぷぅっと頬をふくらませる。

「だって!」

「だってじゃない」

 虎光は抗弁しようとする妹を、ぴしゃりとさえぎった。

「父さんや母さんが聞いたらどう思うか、考えてみろ。竜兄だって悲しむぞ」

 反論の余地を失った涼音は、一瞬、不満げな、ばつの悪そうな顔を見せたあと、子供じみたかんしゃく玉を爆発させた。

「虎兄のバカ!!」

 絵に描いたような捨てゼリフを残して走り去っていく妹の後ろ姿を、ため息をつきながら見送った後、虎光はおもむろに紅子に向き直り、頭を下げた。

「うちの愚妹がとんだ失礼をして、申しわけない」

 身長二メートル近い偉丈夫に深々と謝罪され、紅子は恐縮した。

「あの、やめてください。気にしてないですから。……でも、血がつながってないなんて、何であんなこと」

 さぁね、と、虎光も苦笑して首をかしげた。

「あいつ、うちに来た兄貴の女友達には、必ず一度はああいうこと言うんだ。ま、あいつなりに、ライバルを牽制してるつもりなんだろうなぁ」


 ライバル?牽制?


 頭が痛くなった。

 妹が兄の女友達にいちいち嫉妬したり対抗心を燃やしてどうなるというのだろう。

「わけがわかんない」

「うん、俺もわけがわからん」

 と、虎光は細い目をさらに細めて笑う。

「まあ、あいつがあんな極度のブラコンになっちまったのは、元をただせば兄貴にも責任があるんだけど」

 そう言って彼は、涼音がまだ幼かった頃、仕事で家を空けることが多い父親の代わりに、一番年の離れている竜介が母親を助けて涼音の面倒を見ていたことなどを話した。

 竜介は初めてできた妹が可愛くて仕方なく、もともとの面倒見のよさが裏目に出て、彼女をべたべたに甘やかしてしまったらしい。

 多忙な父親と顔を合わせることさえままならない妹への憐憫もまた、その甘やかしに拍車をかけてしまったようだ。

 聞いてみれば、その経緯には同情の余地が全くないわけでもない――もっとも、同情できるということと、紅子が涼音のあの執着ぶりを理解するということは、まったく別の問題なのだけれど。


 ともかく、涼音の誤解が解けないうちは、少し距離を取っておいたほうがお互いのためだろう。


 と、そんなことを紅子が思っていた、そのとき。

 廊下の向こうから、当の竜介が歩いてきた。

「虎光、早かったんだな」

「ああ、俺、今日はバイクだったから」

「いや、そうじゃなくて、今日はVTOLの整備を見学しなかったのかって意味」

 兄の言葉に虎光は苦笑すると、紅子をちらりと見てから、

「お客さんがいるから夕食には間に合うようにって、おふくろさんから厳命されてたんでね。ってか、そんなことより」

 と、彼は今あったできごとを手短に竜介に説明した。すると、

「またか」

 と竜介は苦り切った顔でつぶやいた。

 妹の言動には、彼も手を焼いているらしい。

「で、当人は?」

 兄の質問に、虎光は幅の広い肩をすくめた。

「おおかた、自分の部屋ですねてるんじゃないか」

 それから彼は真面目な口調でこうつけ加えた。

「一度きつく言ったほうがいいぜ」

 竜介はため息と一緒に答えた。

「わかってる」

 虎光がこの返事をどう解釈したのかはわからない。

 ただ彼はもう一度小さく肩をすくめてから、

「紅子ちゃん、こんな格好で失礼したね。それじゃまた、夕食の時に」

 と紅子に軽く手を振り、きびすを返すと廊下を歩いて行った。

「虎光さんて、VTOLが好きなの?」

 虎光がいなくなったあとで、紅子はまだかたわらにいた竜介に訊いてみた。

「VTOLというか、機械全般がね」

 と、彼は言った。

「憶えてるかな、病院から帰るときとか、本社ビルまで行くとき、使った四駆。あれも虎光のなんだ」

「あー、あの」

 紅子は大きくうなずいた。

 忘れもしない、あのメタリックブルーのランドクルーザー。

 「今日はバイク」ってそういう意味だったのか。

 疑問が解けたところで、紅子は放り出したままになっているスーツケースを横目でちらりと見た。

 さっさと荷ほどきを終えてゆっくりしたい――と思ったところへ、竜介が、

「ところで」

 と、話題を変えた。


「明日、朝食のあとでちょっと付き合ってほしいところがあるんだ」


 魂縒のことかと紅子が尋ねると、彼はかぶりを振った。

「そうじゃないけど、きみのとっては、それと同じくらい……いや、もっと重要なことだと思う」

 怪訝な顔をする紅子に、竜介は言った――きみに会わせたい人がいる、と。

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