2023年8月5日土曜日

紅蓮の禁呪第38話「出発前夜・七」

  春香は紅子との約束の時刻をやや過ぎてから、一色家にやって来た――藤臣を連れて。


「どーゆーことよ、これはっ!?」


 春香とその連れを二階の自室へ案内した後、紅子は春香だけをドアの外に引っ張り出し、中にいる藤臣には聞こえないよう、小声ではあったが、語気荒く問いただした。

「ごめん、ほんっとーにごめん!」

 春香は顔の前で両手を合わせると、平謝りに謝った。

 彼女の言い訳によると、藤臣は紅子に何か話がある様子で放課後の帰り間際、教室までやって来たらしい。

 ところが、探している相手の姿が見当たらないので、彼は春香に、紅子はどうしたのかと尋ねた。

 そこで彼女は紅子の欠席を彼に伝えたわけだが、それだけでやめておけばいいものを、彼への好意も手伝って、

「あの~、わたしこれから紅子んちに寄りますから、もしよかったら、用事伝えておきましょうか?」

 などと、ご丁寧に申し出たのが運の尽き。

 自分も一緒に連れて行ってくれ、と藤臣に頼み込まれた彼女は断るためのうまい口実もこれといって思いつかず、何より、思い人からのたっての頼みを断れるはずもなく。

「で、連れて来ちゃった、ってわけね」

 紅子はいらだちでこめかみが引きつるのを感じた。

「ったくもー。二人だけで話したいこととかあったのに」

「そう怒んないでってば~」

 そっぽを向く紅子をとりなそうと、春香はほとんどすがりつくようにして言った。

「今夜!埋め合わせに電話するからさっ、ねっ」

 紅子はため息をついた。

「いーよ、もうっ。そんなことより」

 彼女は友人の鼻先に、びしっ、と人差し指を突きつけた。

「いいかげん、告るなら告る、告らないなら告らないで、どっちかハッキリさせなよ、先輩のこと。あの人、ほっといたら多分一生、あんたのこと気づかないよ。わかってんの?」

「わ、わかってるってばぁ」

 春香はそう言って苦笑したあと、かなり真剣な顔で、ぽつりとつぶやいた。

「でも……でもさ、やっぱ、自然に気づいてもらいたいっていうの、無理なのかな」

 紅子は自分の頭上のどこかで堪忍袋の緒がみしみしと不吉な音を立てるのを聞いたような気がした。


 無理に決まってんだろ――っっっ!!!


 そう怒鳴りつけたいのをぐっとこらえ、彼女は、

「とりあえず、お茶入れてくるから」

と、ひとまずその場をあとにしたのだった。


 イライラは頭痛に変わり、彼女のこめかみをひりひりさせていた。

 春香とのつきあいは長いが、彼女の恋愛観を紅子が完全に理解するのは、死ぬまで無理かもしれない。

「お客さん、春香ちゃんだけじゃなかったのか」

 お茶と茶菓子を取りに来た彼女を見て、台所で紅茶をいれてくれていた竜介が訊いた。

「うん……まあね」

 紅子はあいまいにそう答えた後、ふと視線をあげてまじまじと竜介の顔を見た。

「俺の顔になんかついてる?」

 いぶかしそうな彼の質問を無視して、彼女は考え込んだ。

 文化祭のとき思いついたけどやめにしたあの作戦――今ならできそうじゃない?

 竜介のことは今でもときたま気にくわないし腹立つけど、もうあのときほど大嫌いってわけでもないし。

 こんな小芝居にどれほど効果があるかはわかんないけど、春香のやつ、ほっといたら本当に何もアクション起こさなそうだし……。

「紅子ちゃん、紅茶冷めるよ」

 紅子の百面相を黙って可笑しそうに眺めていた竜介が言った。

 よし、と彼女は決意を固めた。

「竜介、あのさ、ちょっと手伝ってほしいんだけど……」


 さて。

 紅子の部屋に藤臣と二人きりで取り残された春香はといえば――

「一色のヤツ、ずいぶん元気そうだけど、今日は何で学校休んだんだ?」

 部屋に戻ったとたん、藤臣からそう訊かれて返答に窮し、告白どころではなくなっていた。

 紅子がしばらく休学することを、彼はまだ知らなかったのだ。

 春香は話そうか話すまいかしばらくためらった後、自分が今言わなかったとしても、現音の他の部員たちなどの口からいずれは彼の耳に入るのだと考え、話すことに決めた。

「実は……」

「ホームステイ!?三ヶ月も!?」

 驚きのあまり頓狂な声を上げる相手を両手で制しながら、春香はイヤな予感を覚えた。

 そして、それはまもなく的中した。

 彼が矢継ぎ早に質問を始めたのだ。

「出発はいつ?行き先は?何だってこんな急に?一色の英語の成績ってそんなにヤバイのか?」

 一度にそんなに訊かれても、すぐには答えられない。

 しかも、彼女はこの期におよんで、紅子とそういう細かい口裏合わせをまだしていなかったということに気づいた。

「いえ、それが……あの、その」

 春香は自分の浅はかさを呪いながら、しどろもどろに口を開く。

 ヘタに何か答えて墓穴を掘るよりは、とりあえず、まだ詳しい話は聞いてないということにしてしまおう、と彼女が考えた、その矢先。

 部屋のドアをノックする音。

「はいっ!」

 神佑天助(しんゆうてんじょ)とはこのことかとばかりに春香は即立ち上がり、ドアを開けた。

「すみません、お待たせして」

 紅子は茶菓子を乗せたトレイを持って入ってくると、藤臣に愛想よくそう言ってから、背後の廊下に向かって声をかけた。

「竜介、入って」

 すると、紅子のそれよりひとまわりくらい大きなティートレイを両手で持った竜介が、ぬっと部屋に入ってきた。

「こんにちは」

 呆然としている藤臣に、彼はにっこり笑いかけた。

「紅子から聞いたよ。藤臣くんていうんだって?学園祭の時、一度会ったよね」


 それから約一時間後。

 春香は、藤臣に送られて、自宅への道を歩いていた。

 季節は秋、それも夕暮れ時。

 艶めいた話にはもってこいの時間帯だけに、彼女は先刻の紅子の言葉を、イヤでも意識せずにはいられなかった。

 考えてみれば、今、こうして彼女が藤臣と二人きりで歩いていられるのも、いわば紅子のおかげなのだ。

 紅子に興味を持たなければ、彼が春香にここまで親しく接してくれることは、おそらくなかっただろう。

 その紅子がいなくなれば、彼と春香の接点は同じ部のただの先輩後輩、それだけになってしまう。

 さらに、受験の準備で三年生が退部し登校日数が減れば、校内ですれ違うことさえほとんどなくなるのは間違いない。


 今、このときが最後のチャンスなのだ――


 とは思うものの、一色家から春香の家までは、遠回りしてもせいぜい十分程度。

 告白のタイミングを測るには、あまりに短すぎた。

 自宅が視界に入ってきた頃、焦る春香の胸中を知ってか否か、それまで黙って物思いに沈んでいる様子だった藤臣がぽつりとつぶやいた。

「失恋決定、かな」

「えっ!?」

 春香は驚いて問い返す。

「だっ、誰がですか?」

「僕だよ」

 彼は自嘲的な笑みを浮かべ、言った。

「あの紺野とかいうヤツ。ただの親戚とは思えないよな。一緒に住んでて、しかも仲よさそうだったし」

 春香は彼の誤解をどうしたものかわからず、黙っていた。

 否定して誤解を解けば、この千載一遇の好機は水の泡だ。

 何も知らない藤臣は相手の沈黙をとくに気にするふうでもなく、言葉を続けた。

「一色、好きな人はいないって言ってたのになぁ。それとも、僕は一色に嫌われてるのかな」

「そんな!」

 気が付くと、春香は自身でも驚くほど強い口調で、彼の言葉をさえぎっていた。

「先輩のこと嫌う人なんかいません!」

 藤臣は、彼女の語気に一瞬、目を丸くしたが、すぐに笑みを浮かべ、

「ありがとう」

 と言った。

「でもま、フラれたのは間違いないみたいだし、しょーがない。これからしばらくは受験に専念するよ」

 彼が苦笑混じりにそう言ったとき、ちょうど彼らは春香の自宅にたどり着いた。

 「松居」の表札が、門灯の光の中にぼんやり浮かび上がって見えるところで、二人はどちらからともなく、歩みを止めた。

「今日は悪かった」

 藤臣は、すまなそうに言った。

「わがまま言って、無理にくっついて行って。一色にも、謝っといてくれるかな」

 それじゃ、と、彼はきびすを返した。

 春香が心を決めかねているうちにも、その背中は、夕映えの中へ次第に遠くなっていく。

 このままでいいの?

 このまま――

 春香はいつのまにか藤臣の背中を追って駆けだしていた。

「先輩、待って!待ってください!」

 背後から呼ばれて藤臣が振り返ると、今さっき別れたばかりの春香が息を切らして立っていた。

「松居?」

 彼は怪訝そうに言った。

「どうかしたのか?」

「あの……その、わたし」

 春香は何とか呼吸を整えながら、言った。

 心臓の動悸が激しくて、口から飛び出すのではないかと思うほどだ。

「わたし……わたしじゃ、ダメですか?」

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