2023年8月8日火曜日

紅蓮の禁呪第67話「暗転」

  時間は少し戻り、白鷺邸、紅子の部屋。

「なあ、腹減らない?」

 部屋の主人(あるじ)の覚醒を待ちながら、一人ずつ順番に仮眠を取ろうという話になったとき、鷹彦が言った。

 最後の食事から既に五時間あまりが経過している。

 たしかに小腹が空いてくる時間ではあるな、と竜介は思った。

「では、朝顔と夕顔にお茶とお菓子でも持ってこさせましょう」

 そう言って式鬼を呼び寄せる日可理に、鷹彦はしかし、困惑した顔を見せた。

「えっ、お菓子?お菓子かぁ……」

 不満げに語尾を濁す弟に、竜介が軽く苦言しようと口を開きかけたとき、

「日可理、僕はもう少し食事っぽいもののほうがいいな」

 志乃武が言って、竜介に目配せした。

 ところが、今度は日可理が困った顔をする番だった。

 通いの料理人たちは、夕食の後片付けを終えてとうに帰ってしまっている。

 式鬼に作らせようにも、日可理いわく、彼らの能力は、家事にせよ何にせよ、使役する主人のそれを上回ることはないのだそうだ。

 そして、彼女の料理の腕前はというと、本人も申し訳なさそうに、

「ごめんなさい。わたくし、お料理は本当に簡単なものしか……」

 と言うからには、推して知るべしというレベルなのだろう。

 ならば、ほかの三人のうちだれかが台所まで行って作ってくるしかないわけだが――

 志乃武と鷹彦はといえば、料理は無理だと当然のように言う。


 てことは、まともに料理ができるのは、俺だけか……。


 竜介はやれやれ、と内心でため息をついた。

 黒珠の襲撃を警戒している今の状況で、紅子のそばを離れるのはかなり不安がある。

 が、かといって朝まで空腹を抱えて過ごすのも、それはそれでつらいものだ。

「わかった。俺が作ってくるよ」

 竜介がそう言って、ソファから立ち上がると、鷹彦は待ってましたと言わんばかりの笑みを浮かべ、

「俺、ハンバーガー食いたいな。ポテトとコーラも付けてね♪」

「お前なー、ここはマ○クじゃねえんだぞ」

 竜介が弟の暢気(のんき)さに憮然として言うと、日可理が笑いながら、

「鷹彦さまのご注文に沿えるかどうか、わたくしがご一緒して冷蔵庫を見てみましょう」

 と、立ち上がった。

 竜介はちょっと当惑した。

「わざわざ来てくれなくても、もしものときのために式鬼を一体、貸してもらうだけで……」

 そう言って日可理に残ってもらおうとしたが、

「いえ、調理器具の使い方や、調味料の場所などをご説明するのは、式鬼にはできませんから。それに、及ばずながらお手伝いがいたほうが、時間も短縮できます」

 たしかに、この家の台所のことをよく知っているだれかに手伝ってもらうほうが、作業時間は断然短くて済むに違いない。竜介は日可理の厚意に甘えることにした。

 竜介は鷹彦に、紅子の眠るベッドの周囲にかまいたちの障壁を作っておくように言い、日可理は朝顔と夕顔にこの部屋の警護を命じて、二人して部屋を出たのだった。



 竜介と日可理を送り出したあとの、鷹彦と志乃武の会話。

「志乃武くんが料理できないって、意外だな」

 と鷹彦。

「俺と同じ一人暮らしなんだろ?食事はやっぱコンビニ?」

 そのときの志乃武の返答を、鷹彦は一生忘れないだろう。

 志乃武はしばし困ったような笑みを浮かべ、

「日可理には言わないでくださいね?」

 と前置きしてから、こう言い放った。


「女の子たちが作りに来てくれるんです」


 二の句がつげずに、鷹彦はしばらく黙り込んだ。


 女の子。

 しかも複数形。


 様々な質問と、いくつもの生々しい想像とが鷹彦の脳裏を駆け巡ったが、真っ先に彼の口から出たのは、これだった。

「……どうしたらそんなにモテるようになるのか、教えてくれない?」



 白鷺邸の台所は、この屋敷においてかつて三世代が同居し、多くの使用人をかかえてにぎやかだった頃の名残をとどめて、まるでレストランの厨房のような広さと設備を持っていた。

 食料の保温庫や、冷凍庫、冷蔵庫はどれもウォークインタイプ。

 昔は満タンだったろうその中身も、今では半分以下だが、それでも、現在この屋敷に滞在している五人の腹を四、五日は余裕で満たせそうな量の食材が備蓄されていた。

 竜介は鷹彦の注文に沿う食材を選んで運び出すと、調理を開始した。


 日可理は、竜介に言われるままにレタスの水切りをしたりしながら、彼の慣れた手つきを感心して眺めていた。

 そういえば、彼と料理の話をしたことなどなかったということに、あらためて気づく。

 これまで、いろいろな話をしてきて、それなりに竜介のことを知っているつもりだったのに――

 十年来の友人といっても、しょせんはこの程度でしかない。


 でも、紅子さまはきっとこれから、竜介さまについて、わたくしよりももっと多くのことを――


 と、そのとき。

「……さん。日可理さん」

 自分の物思いに捕らわれていた日可理は、竜介の呼ぶ声で現実に引きもどされた。

「あっ、はい」

「ポテトをフライヤーから皿に出して、塩を振っておいてくれるかな」

「わかりました」

 言われたとおり、ペーパーナプキンを敷いてある皿に湯気の立つポテトを盛りつけていると、竜介が、厚めにスライスしたベーコンをフライパンであぶりながら、言った。

「あとは俺一人でもできるから、仮眠をとりにもどってくれていいよ」

 どうやら、ぼんやりしていたのを、眠気のせいだと思われたらしい。

 日可理はかぶりを振った。

「いえ、眠いわけではないのです。ちょっと、考え事をしていました」

 そう言って苦笑する彼女の顔を、竜介はちらりと一瞥する。

「なら、いいんだけど……考え事って?」

 それは、どことなく憂わしげな友人に対する、彼の気遣いからくる言葉だったろう。

 けれど、そのときの日可理には、何より返答に困る質問だった。


 どう答えればいいのだろう……。


 正直に答えることなどできない。

 「何でもない」とごまかしてしまうのが最も簡単な選択肢だ。

 けれど、本当にそれでいいのだろうか?

 断ち切ったと思う先から揺れ動くこの心を、自分はいったいいつまで抱え込むのか。


 妄執の闇に、沈むのみ――


 星々の告げた言葉が脳裏をよぎる。

 この思いが、妄執だというなら――

 わたくしは、捨てねばならない。


「……紅子さまのことです」


 思ったよりも、それはするりと彼女の口から滑り出た。

 が、日可理の心中や、星見のことなど知るよしもない竜介は、彼女の言葉を深読みすることもなく、

「ああ、たしかに心配だな。早く目が覚めるといいんだが」

 と応じただけだった。

 料理の仕上げに集中しているのか、手元から目を離そうともしない。

 日可理は泣きたいような、笑いたいような、奇妙な衝動を覚えたが、それをこらえて続ける。

「それもありますが、わたくしが心配しているのは、紅子さまが我々一族の歴史を魂縒によってご覧になることのほうです」

 竜介は一瞬、手を止めたが、視線は手元に固定したままで、まもなく作業を再開した。

「それは……俺も気になってる」

「どうか、紅子さまを支えてさしあげてください」

 竜介は横顔で笑った。

「もとよりそのつもりだよ。だから現に、この屋敷にも一緒に来たし……」

「違うのです!」

 悲鳴のような声だった。

 そんな声に言葉をさえぎられた竜介も驚いただろうが、日可理自身も、己の感情の高ぶりに驚いていた。

 作業の手を止めてこちらを注視している竜介の視線に気づくと、彼女は今さらながら自分の口を押さえ、今度は消え入りそうな声で

「申し訳ございません……」

 と、目を伏せた。

 竜介はそれには何も言わなかった。

 ただ、日可理が今しようとしている話が、調理の片手間にするような世間話ではないと気づいた様子で、完全に作業をやめると、彼女に向き直った。

「違うって、何が?」

 ためらう心を押し殺し、日可理は口を開く。

「紅子さまは、涼音さまとは違うのです。紅子さまについて、全ての鍵を握っているのは、竜介さま、あなたなのです」

 ひと息に言い切ってしまうと、沈黙が降りた。

 日可理は裁きを待つ罪人のようにうなだれて、相手の反応を待った。

 竜介は黙ってこちらを見つめている――彼女の表情から、言葉の真意を読み取ろうとするかのように。

 が、やがて、彼はため息をつきながら、この謎かけに降参した。

「悪いけど、日可理さんの言葉の意味がよくわからない。それは予見?」

 日可理は目の前が暗くなるのを感じた。


 やはり、こんな抽象的な言葉ではだめなのだ。もっと、具体的でないと。


 それを口にすることは、日可理にとって、拷問にも等しいことだ。

 それでも、使命感とプライドだけを支えに、彼女は懸命に言葉をつなごうとした。

 しかし――

 いざそれを言葉にしようとした、そのとき。

 世界は、闇に墜ちてしまった――真実とともに。

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